第36話 菊花賞直前
京都競馬場の朝は、抜けるように晴れていた。
紗季が落馬したのは、レースの三時間前だった。
第6レース。2歳新馬、芝1400m。内ラチ沿いで躓いた拍子に体勢を崩した。落ちた瞬間は何が起きたかわからなかった。気づいたら芝の上にいて、右肩から地面に叩きつけられた痛みが遅れてやってきた。
「駿河!」
すぐに救護の人間が飛んできた。紗季は立ち上がろうとしたが、右腕に力が入らなかった。
診断は、右肩の脱臼。乗れない。
処置室のベッドで、紗季はしばらく天井を見ていた。
三冠。
一緒に走ってきた。皐月賞の直線、馬が自分を追い越していくような感覚。ダービーの同着、写真判定を待った数分間。セントライトの、あの伸び。全部、ユメノワスレナグサと一緒だった。
あと一つだったのに。
泣きたくなかった。泣いたら負けな気がした。でも目が熱くなって、紗季は腕で顔を覆った。右肩が痛んで、それで少し正気に戻った。
スマホが鳴った。古谷調教師からだった。
「乗り替わりを手配する。陣内に頼む」
紗季は、少し目を閉じた。
陣内騎手。新馬戦でレースレコードを出した人だ。ずっと外から見ていた人だ。
「……お願いします」
「お前は悪くない」
古谷が、それだけ言って電話を切った。
紗季は、スマホを胸の上に置いた。
窓の外、京都の空が青かった。
(勝ってほしい)
それだけを、祈った。
★
【陣内翔】
電話を受けた時、陣内は宿舎の部屋にいた。
「ワスレナグサ、頼めるか」
古谷調教師の声だった。事情を一通り聞いた。駿河騎手が落馬した。乗り替わりが必要だ。
「……へへっ、任せてくださいよ」
陣内は、震えていた。
電話を切った後、しばらく窓の外を見ていた。
菊花賞。3000メートル。オッズは1.1倍。ライバルらしいライバルはいない。勝って当然、という空気の中に放り込まれる。
それより。
ユメノワスレナグサ。
新馬戦の朝のことを、また思い出していた。あの時の手のひらの感触。馬が自分の下で、静かに笑っているような気がした。何も考えずに行ったら、ついてきた。レースレコードが出た。
あれから、ずっと外から見ていた。鷹さんが勝った。駿河さんが勝った。G1を、何度も。
自分はまだ、一つも勝っていない。
「俺が一番うまく乗れる!」
陣内は、声に出して言った。作戦なんてない。考えてもわからない。あの馬は、考えた通りに動かない。
ただ行く。それだけだ。
ジョッキールームへ向かう前に、陣内は一度だけ深く息を吸った。
★
【駿河紗季】
松葉杖を借りて、紗季はスタンドへ向かった。
右腕を吊った状態で歩くのは不格好だったが、じっと処置室にいる気にはなれなかった。
パドックに、馬たちが出てきた。
ワスレナグサが見えた。
芦毛の、大きな馬だ。他の馬が気負って首を高く上げている中、じじいだけがのんびりと周回している。目が半分閉じている。あくびをした。
紗季は、思わず笑った。
菊花賞のパドックで、あくびをする馬がいるか。
「相変わらずですね」
隣で、稲葉が呟いた。いつの間にか、隣に来ていた。
「稲葉さん」
「駿河騎手が見てた方が、じじいも喜ぶと思って」
稲葉は、前を向いたままだ。
じじい。ネットの渾名が、いつの間にか厩舎の中でも使われ始めていた。
紗季は、もう一度じじいを見た。
陣内騎手が、馬に近づいた。じじいは、ちらりと陣内を見て、それからまた前を向いた。特に嫌がる様子もない。歓迎している様子もない。ただ、知っている、という顔だった。
★
【陣内翔】
馬の背中に乗った瞬間、陣内は思った。
でかい。
いや、前も乗ったから知ってる。知ってるけど、やっぱりでかい。そして重心が低い。落ち着いている。他の馬がざわついている中、この馬だけが違う時間を生きているようだった。
「よっしゃ、やってやるぞ」
陣内は、首筋に手を当てて言った。
じじいは、耳をぴくりと動かした。
★
【じじい】
(またこやつか)
背中に乗ってきた人間の気配で、じじいはすぐにわかった。新馬戦の男だ。何も考えていない男だ。
紗季ではないことは、乗ってきた瞬間にわかっていた。気配が違う。重心の置き方が違う。
(……ふむ。あのお姉ちゃん、どこぞで怪我でもしたかの)
朝、遠くの芝で人間が落ちる騒ぎがあったのは、耳に入っていた。
まさかとは思うが、心配ではある。
だが、じじいにできることは、今日のところは何もない。
じじいは、パドックをのんびりと歩いた。
今日の天気は悪くない。晴れで、良馬場。走るのは嫌いだが、どうせ走るなら良い天気の方がいい。
スタンドの方から、大きな歓声が上がった。場内アナウンスが何かを言っている。
パドックをもう一周しながら、じじいは今日の段取りを考えた。
3000メートル。長い。
長いが、体力は問題ない。魔力で補えばいい。馬一頭が3000メートル走る程度、どうということはない。
(楽に行くとするかのう)
じじいは、もう一度あくびをした。
★
【陣内翔】
本馬場に入った。
京都の芝が、朝の光を受けて青く輝いている。晴れた菊花賞は、絵になる。スタンドが満員だった。どこを見ても人だ。歓声が波のように押し寄せてくる。
陣内は、前だけを見た。
ゲートが見えた。
3000メートル。長い。長いが、この馬はバテない。それだけはわかっている。新馬戦の時も、ゴールを過ぎてもまだ加速していた。あれは何だったのか、今もわからない。
隣の馬が、ゲート入りを嫌がって暴れている。係員が数人がかりで抑えている。他の馬も、それぞれに気合が入っていた。
ワスレナグサだけが、静かだった。
ゲートに近づく。係員が手綱を持った。じじいは、すんなりと中に入った。後ろの扉が閉まる。
陣内は、手綱を握り直した。
隣のゲートで、馬が激しく扉を蹴った。ガチャン、という音が響く。それでも、じじいは動じない。
陣内は、首筋に手を当てた。
「おっしゃ、行くぞ」
じじいの耳が、ぴくりと動いた。
★
【じじい】
ゲートの中で、じっと待つ。
隣の馬が暴れている。遠くで、別の馬が嘶いている。でも、じじいには関係ない。ゲートなど、ただの狭い部屋だ。
背中の男が、何か言った。
(行く、か)
じじいは、前を見た。
ゲートの向こうに、3000メートルの芝が続いている。青い。晴れた京都の芝は、悪くない。
まあ、走ってやるか。
じじいは、静かに息を整えた。
ゲートが、開く。




