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前世ヒーラーのじじい馬、隠居したいのに長距離レースで無双する 〜こっそり全員癒やしてたら、伝説のステイヤーになってました〜  作者: 猫の造形美


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37/51

第36話 菊花賞直前

 京都競馬場の朝は、抜けるように晴れていた。


 紗季が落馬したのは、レースの三時間前だった。


 第6レース。2歳新馬、芝1400m。内ラチ沿いで躓いた拍子に体勢を崩した。落ちた瞬間は何が起きたかわからなかった。気づいたら芝の上にいて、右肩から地面に叩きつけられた痛みが遅れてやってきた。


「駿河!」


 すぐに救護の人間が飛んできた。紗季は立ち上がろうとしたが、右腕に力が入らなかった。


 診断は、右肩の脱臼。乗れない。


 処置室のベッドで、紗季はしばらく天井を見ていた。


 三冠。


 一緒に走ってきた。皐月賞の直線、馬が自分を追い越していくような感覚。ダービーの同着、写真判定を待った数分間。セントライトの、あの伸び。全部、ユメノワスレナグサと一緒だった。


 あと一つだったのに。


 泣きたくなかった。泣いたら負けな気がした。でも目が熱くなって、紗季は腕で顔を覆った。右肩が痛んで、それで少し正気に戻った。


 スマホが鳴った。古谷調教師からだった。


「乗り替わりを手配する。陣内に頼む」


 紗季は、少し目を閉じた。


 陣内騎手。新馬戦でレースレコードを出した人だ。ずっと外から見ていた人だ。


「……お願いします」


「お前は悪くない」


 古谷が、それだけ言って電話を切った。


 紗季は、スマホを胸の上に置いた。


 窓の外、京都の空が青かった。


(勝ってほしい)


 それだけを、祈った。


       ★


【陣内翔】


 電話を受けた時、陣内は宿舎の部屋にいた。


「ワスレナグサ、頼めるか」


 古谷調教師の声だった。事情を一通り聞いた。駿河騎手が落馬した。乗り替わりが必要だ。


「……へへっ、任せてくださいよ」


 陣内は、震えていた。


 電話を切った後、しばらく窓の外を見ていた。


 菊花賞。3000メートル。オッズは1.1倍。ライバルらしいライバルはいない。勝って当然、という空気の中に放り込まれる。


 それより。


 ユメノワスレナグサ。


 新馬戦の朝のことを、また思い出していた。あの時の手のひらの感触。馬が自分の下で、静かに笑っているような気がした。何も考えずに行ったら、ついてきた。レースレコードが出た。


 あれから、ずっと外から見ていた。鷹さんが勝った。駿河さんが勝った。G1を、何度も。


 自分はまだ、一つも勝っていない。


「俺が一番うまく乗れる!」


 陣内は、声に出して言った。作戦なんてない。考えてもわからない。あの馬は、考えた通りに動かない。


 ただ行く。それだけだ。


 ジョッキールームへ向かう前に、陣内は一度だけ深く息を吸った。


       ★


【駿河紗季】


 松葉杖を借りて、紗季はスタンドへ向かった。


 右腕を吊った状態で歩くのは不格好だったが、じっと処置室にいる気にはなれなかった。


 パドックに、馬たちが出てきた。


 ワスレナグサが見えた。


 芦毛の、大きな馬だ。他の馬が気負って首を高く上げている中、じじいだけがのんびりと周回している。目が半分閉じている。あくびをした。


 紗季は、思わず笑った。


 菊花賞のパドックで、あくびをする馬がいるか。


「相変わらずですね」


 隣で、稲葉が呟いた。いつの間にか、隣に来ていた。


「稲葉さん」


「駿河騎手が見てた方が、じじいも喜ぶと思って」


 稲葉は、前を向いたままだ。


 じじい。ネットの渾名が、いつの間にか厩舎の中でも使われ始めていた。


 紗季は、もう一度じじいを見た。


 陣内騎手が、馬に近づいた。じじいは、ちらりと陣内を見て、それからまた前を向いた。特に嫌がる様子もない。歓迎している様子もない。ただ、知っている、という顔だった。


       ★


【陣内翔】


 馬の背中に乗った瞬間、陣内は思った。


 でかい。


 いや、前も乗ったから知ってる。知ってるけど、やっぱりでかい。そして重心が低い。落ち着いている。他の馬がざわついている中、この馬だけが違う時間を生きているようだった。


「よっしゃ、やってやるぞ」


 陣内は、首筋に手を当てて言った。


 じじいは、耳をぴくりと動かした。


       ★


【じじい】


(またこやつか)


 背中に乗ってきた人間の気配で、じじいはすぐにわかった。新馬戦の男だ。何も考えていない男だ。


 紗季ではないことは、乗ってきた瞬間にわかっていた。気配が違う。重心の置き方が違う。


(……ふむ。あのお姉ちゃん、どこぞで怪我でもしたかの)


 朝、遠くの芝で人間が落ちる騒ぎがあったのは、耳に入っていた。


 まさかとは思うが、心配ではある。


 だが、じじいにできることは、今日のところは何もない。


 じじいは、パドックをのんびりと歩いた。


 今日の天気は悪くない。晴れで、良馬場。走るのは嫌いだが、どうせ走るなら良い天気の方がいい。


 スタンドの方から、大きな歓声が上がった。場内アナウンスが何かを言っている。


 パドックをもう一周しながら、じじいは今日の段取りを考えた。


 3000メートル。長い。


 長いが、体力は問題ない。魔力で補えばいい。馬一頭が3000メートル走る程度、どうということはない。


(楽に行くとするかのう)


 じじいは、もう一度あくびをした。


       ★


【陣内翔】


 本馬場に入った。


 京都の芝が、朝の光を受けて青く輝いている。晴れた菊花賞は、絵になる。スタンドが満員だった。どこを見ても人だ。歓声が波のように押し寄せてくる。


 陣内は、前だけを見た。


 ゲートが見えた。


 3000メートル。長い。長いが、この馬はバテない。それだけはわかっている。新馬戦の時も、ゴールを過ぎてもまだ加速していた。あれは何だったのか、今もわからない。


 隣の馬が、ゲート入りを嫌がって暴れている。係員が数人がかりで抑えている。他の馬も、それぞれに気合が入っていた。


 ワスレナグサだけが、静かだった。


 ゲートに近づく。係員が手綱を持った。じじいは、すんなりと中に入った。後ろの扉が閉まる。


 陣内は、手綱を握り直した。


 隣のゲートで、馬が激しく扉を蹴った。ガチャン、という音が響く。それでも、じじいは動じない。


 陣内は、首筋に手を当てた。


「おっしゃ、行くぞ」


 じじいの耳が、ぴくりと動いた。


       ★


【じじい】


 ゲートの中で、じっと待つ。


 隣の馬が暴れている。遠くで、別の馬が嘶いている。でも、じじいには関係ない。ゲートなど、ただの狭い部屋だ。


 背中の男が、何か言った。


(行く、か)


 じじいは、前を見た。


 ゲートの向こうに、3000メートルの芝が続いている。青い。晴れた京都の芝は、悪くない。


 まあ、走ってやるか。


 じじいは、静かに息を整えた。


 ゲートが、開く。


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