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前世ヒーラーのじじい馬、隠居したいのに長距離レースで無双する 〜こっそり全員癒やしてたら、伝説のステイヤーになってました〜  作者: 猫の造形美


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第35話 セントライトの夜

【駿河紗季】


 セントライト記念の夜は、長かった。


 古谷調教師の行きつけの焼き鳥屋に、紗季と稲葉、佐々木の四人で押し込んだ。カウンター六席しかない、煙たくて狭い店だ。


「いやあ、勝ったなあ」


 古谷がビールを呷る。六十近い、日焼けした顔に深い皺が刻まれた男だ。普段は口数が少ないが、今夜は違う。


「勝ちましたね」


 稲葉が相好を崩す。三十代半ば、生真面目な顔をした調教助手だ。


「勝ちました!」


 紗季は、ジンジャーエールを掲げた。酒は飲まない。でも、気分は十分酔っていた。セントライト記念一着。クラシック三冠まで、あと一つだ。


「次は菊花賞ですね」


と稲葉が言った。


「3000メートル、どう乗りますか」


「うーん」


 紗季は、串を齧りながら考える。ワスレナグサという馬は、つかみどころがない。指示を聞かないわけではないのだが、こちらが力んだ瞬間に、なぜかペースが乱れる。力を抜いて、馬に委ねるくらいがちょうどいい。


「前目につけて、直線勝負だと思います。3000は長いけど、この馬はバテないので」


「バテないどころじゃないけどな」


 古谷が苦笑いした。


「セントライトのラップ、見たか。後半上がってるんだよ。普通逆だろ」


「ですよね」


 紗季も笑う。


「あの馬、後半になるほど元気になるんですよ。なんか……楽しそうで」


「楽しそう」


 稲葉が繰り返した。


「馬がですか」


「そう、楽しそうに走るんです。こっちが必死なのに」


 三人で笑った。煙と笑い声が、狭い店に満ちた。


 ホープフルの夜を、ふと思い出す。


 あの日は、誰もこんなふうに笑えなかった。一年も経っていないのに、ずいぶん遠くまで来た気がした。


 連れてきてくれたのは、あの白い馬だ。


「まあ、余計なことはしなくていい」


 古谷が串を置いた。


「あの馬を信じて乗れ。それだけだ」


「はい」


 紗季は、静かに頷いた。三冠。その言葉を、心の中で転がす。まだ実感がない。でも、確かに見えている。


 その時、ふと気づいた。


 さっきから、佐々木さんが静かすぎる。


 カウンターの端に座った佐々木は、ビールに口をつけながら、どこか遠くを見ていた。会話に入ってくる様子がない。焼き鳥に、ほとんど手をつけていない。


「佐々木さん、どうかしましたか」


 紗季が声をかけると、佐々木はゆっくりと視線を戻した。


「……いや、何でもない」


 短く答えて、ビールを一口飲む。それだけだった。


 古谷と稲葉は、気にした様子もなく話を続けている。紗季は少し気になったが、それ以上は聞かなかった。


       ★


【陣内翔】


 安居酒屋のカウンターで、陣内は一人だった。


 セントライト記念の結果は、スマホで見た。ワスレナグサ、一着。駿河紗季騎手、ガッツポーズ。


 陣内は、スマホを伏せてビールを飲んだ。


 うまくない。


 二杯目を頼む。それもうまくない。三杯目を頼んだ。


 隣の席で、サラリーマンたちが騒いでいる。陣内には聞こえていない。


 ユメノワスレナグサ。


 新馬戦の朝のことを、今でも覚えている。初めて背中に乗った時の感触。他の馬と、何かが違った。うまく言えないが、でかい何かが、自分の下にいる気がした。だから何も考えなかった。ためらわなかった。ただ行った。


 レースレコードが出た。


 陣内には、意味がわからなかった。自分は何もしていない。ただ乗っていただけだ。


 それから、乗り替わりになった。


 鷹さんが乗った。勝った。駿河さんが乗った。勝った。皐月賞も勝った。ダービーも勝った。セントライトも勝った。


 陣内は、ずっと外から見ていた。


 陣内は、騎手人生でG1を勝てていない。


「……俺が」


 声が、口から出た。


 陣内は、止められなかった。


「俺が一番上手に乗れるんだ、あの馬に」


 誰も聞いていない。隣のサラリーマンたちは自分たちの話で盛り上がっている。バーテンダーは背中を向けている。


 陣内は、グラスを両手で包んだ。


「鷹さんも、駿河さんも、うまい。俺よりずっとうまい。わかってる」


 わかってる。でも。


「あの馬は、俺が乗る時だけ、本気を出してる」


 根拠はない。タイムがそう言っているわけでもない。ただ、そう感じた。新馬戦の、あの一瞬の感触が、ずっと手のひらに残っている。


「俺が一番わかってるんだ」


 四杯目を頼んだ。今度は少しだけ、うまかった。


       ★


【佐々木】


 夜、厩舎に戻った。


 古谷たちとの席を、途中で抜けてきた。理由は言わなかった。皆、引き止めなかった。


 じじいの馬房。


 佐々木は、引き戸をそっと開けた。


 じじいは、藁の上に座っていた。目を細めて、のんびりとしている。レース後とは思えない顔だ。汗の跡もほとんどない。


「世話かけるな」


 佐々木は、馬房に入った。ブラシを手に取り、じじいの首筋から背中へと、ゆっくりと動かす。


 じじいは、されるがままだ。


 静かだった。厩舎の外で、風が木を揺らす音がする。遠くで、別の馬が一度嘶いて、また静かになった。


 佐々木は、手を動かしながら考えていた。


 セントライト記念の日の、あの鹿毛の馬。足を庇っていたのに、レース後に別の馬のようになっていた。担当厩務員が目を丸くしていた。その前にいたのは、じじいだ。


 厩舎の散歩のたびに、周りの馬の調子が上がる。食欲がなかった馬が、翌朝には飼い葉を綺麗に食っている。脚に問題を抱えていた馬が、気づけば普通に歩いている。


 偶然にしては、多すぎる。


 でも、馬が治療をするなんて、あるわけがない。


 あるわけが、ない。


 ブラシを止めた。


 じじいが、ゆっくりとこちらを向いた。大きな目が、佐々木を見ている。


「……なあ、ワスレナグサ」


 じじいの耳が、ぴくりと動いた。


「糖尿病って」


 言葉が、止まった。


 佐々木は、自分が何を言おうとしているのか、わかっていた。母親のことだ。三年前から透析が始まった。毎週病院に連れて行く。しんどそうな顔を見るたびに、何もできない自分が情けなかった。


「治せるか?」


 言ってしまった。


 じじいは、動かない。ただ、佐々木を見ている。


 沈黙が、数秒続いた。


 佐々木は、自分の言葉が耳に戻ってきた瞬間、我に返った。馬に向かって、糖尿病が治せるか、と聞いた。自分は今、馬に向かって、そう聞いた。


「……俺、何言ってんだか」


 苦笑いが、口から漏れた。


 ブラシを桶に戻す。手綱を整える。立ち上がる。


 じじいの方を、もう見なかった。


 馬房の引き戸を開けて、外に出る。振り返らずに、厩舎の通路を歩いていく。足音が、遠ざかっていく。


       ★


【じじい】


 佐々木の背中が、暗がりに消えた。


 じじいは、しばらくその方向を見ていた。


(……バレておるな)


 静かに、確信した。


 ずっと一緒にいるから。ピースを一つひとつ拾い集めて、口には出さないまま、繋ぎ合わせてきた。今夜、それが溢れた。言葉にしてしまった。


(糖尿病……なんぞそれ……?)


 じじいに、その言葉は通じなかった。


 じじいは、藁の上に横たわった。


(うーん、デブ病っぽいのう……それなら全然治せるが、診てみぬとわからんのう)


 夜風が、窓から入ってくる。菊花賞まで、あと少しだ。


 佐々木の、消えていった背中を思い浮かべた。


 あの男には、世話になっている。治してやるのは、吝かではない。


 じじいは、目を閉じた。


 厩舎が、静かになった。


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