第34話 セントライト記念
中山競馬場の朝は、早い。
夜明け前から厩舎が動き出し、馬たちの嘶きと蹄の音が秋の冷たい空気に響いていた。今日はセントライト記念。クラシックの舞台を目指す若駒たちが、全国から集まってくる日だ。
そんな喧騒を、じじいはどこ吹く風で眺めていた。
(ほう。今日は馬が多いのう)
厩舎の通路を、のそのそと歩く。引き運動の時間だ。手綱を引く佐々木は、じじいの気の向くままに歩かせてくれる。ほとんど散歩である。
通路の端、となりの厩舎の馬が、しきりに首を振っていた。長距離輸送の疲れが出ているらしく、息が荒い。目の下にうっすらと疲労の色が浮かんでいた。
(やれやれ)
じじいは、さりげなく鼻先を向けた。ふう、と温かい息を吐く。見えない癒しの波が、静かに広がっていく。
馬の荒い呼吸が、すうっと落ち着いた。
じじいは、何事もなかったように歩き続ける。次の厩舎では、脚にテーピングを巻いた馬がいた。古傷を庇うように、重心がわずかにずれている。
(これも、少しやっておくか)
ちらりと鼻先を近づける。ほんの数秒。それだけで、馬の表情がふっと緩んだ。
さらに歩く。また一頭。また一頭。
じじいは、競馬場の厩舎を歩き回った。ただの散歩のように見えて、行く先々でひっそりと仕事をこなしていく。
(これでも、全盛期の一割にも満たんのじゃがな)
心の中で、しみじみと呟く。前世では、戦場の負傷兵を百人単位で一度に癒したこともあった。国一つを救う大魔法を、一晩で三度重ねたこともある。この程度、朝飯前どころか、朝飯の前の茶一杯分にもならない。
馬の体というのは、つくづく魔力の器として小さすぎる。
(まあ、隠居じゃから、これくらいでちょうどよいのじゃが)
じじいは、満足して自分の厩舎へと戻っていった。
手綱の先で、佐々木は何も言わなかった。
★
パドックに、馬たちが集まり始めた。
セントライト記念の出走馬が、一頭ずつ周回していく。観客の視線が集まり、実況の声が響いていた。
じじいは、のんびりと周回しながら、あくびをかみ殺していた。
その時。
隣を歩く一頭の馬が、やけに自分に近づいてきた。
鹿毛の、引き締まった体つきをした馬だ。育ちの良さが全身から滲み出ている。しかし、その動きをよく見ると、右の後ろ足がごくわずかに、かばうように動いていた。
(ふむ。足に古傷があるのう。よく出走できたものじゃ)
じじいが観察していると、その馬がさらにぐいっと近寄ってきた。
鼻先を、じじいの首筋にぐりぐりと押しつけてくる。
(?)
じじいは、首をかしげた。知らん馬だ。なぜこんなに馴れ馴れしいのか、まったくわからない。
鹿毛の馬は、それでも諦めない。じじいの耳元で、小さく鼻を鳴らした。
「……ヒン」
(だから、誰じゃ)
じじいは、そっと首を引いた。ただの偶然ですよ、という顔で、前を向く。鹿毛の馬が、なんとも言えない表情でじじいを見ていたが、じじいはもう気にしていなかった。
スタンドの方から、どよめきが起きた。パドックの解説が何かを言っている。
じじいには、どうでもよかった。
★
レースが始まった。
ゲートが開く。
じじいは、するりとハナに立った。まともに競り合う気は、毛頭ない。誰にも絡まれない先頭が、一番楽なのだ。
淡々と、自分のペースで刻む。後続の蹄音は、少しずつ遠くなっていった。しかし直線に入ったところで、後ろ足の筋肉がじわりと悲鳴を上げ始める。
(やれやれ。仕方あるまい)
走りながら、さらりと魔法を使う。自分の心肺と筋肉に、癒しの波をじんわりと巡らせた。疲れが、すうっと引いていく。足が、軽くなる。
じじいは、涼しい顔でそのまま押し切った。
ゴール板を余裕の先頭で駆け抜けた後、じじいはゆっくりと息を整えた。大して使った気もしない。紗季騎手が興奮した様子で首筋を叩いているが、じじいの関心はすでに別のところにあった。
隣のコースを、あの鹿毛の馬がよろよろと歩いていた。レースで無理をしたのだろう。右後ろ足をはっきりと庇っている。担当の厩務員が駆け寄り、足元を確認しているが、顔色が優れない。
(やはりな)
じじいは、するするとそちらへ近づいた。紗季騎手が「どこ行くんだ」と手綱を引くが、じじいは聞かない。
鹿毛の馬の前で、ゆっくりと立ち止まる。
鹿毛の馬が、じじいを見た。大きな目に、驚きと、それからどこか懐かしむような色が浮かんだ。
(知らん馬じゃが、足が悪いのは見てわかる)
じじいは、鼻先を鹿毛の馬の右後ろ足へと向けた。ふう、と長く息を吐く。
今度は、惜しまなかった。
どうせ全盛期の一割にも満たない魔力だ。出し惜しみするほどのものでもない。じんわりではなく、どっと解放する。温かい癒しの奔流が、鹿毛の馬の脚へと流れ込んだ。
炎症が引いていく。傷ついた組織が、みるみると再生していく。古傷の深いところまで、癒しの波が染み渡った。
関節の、いちばん奥。
生まれつき緩かった場所まで、まっすぐに。
(……ふむ? この脚、どこかで診た覚えがあるような、ないような)
じじいは、二秒考えて、やめた。
鹿毛の馬の体が、ぶるりと震えた。
それから、ゆっくりと右後ろ足を地面に下ろした。そっと体重をかける。痛みがない。完全に、消えている。
生まれてから今日まで、ずっと庇い続けてきた足が——初めて、ただの足になった。
「……ヒン」
鹿毛の馬が、じじいの首筋に顔を埋めた。さっきより、ずっと深く。震えるように、鼻を押しつけてくる。
(やれやれ、知らん馬にやたら懐かれるのう)
じじいは、やんわりと首を引いた。仕事は終わった。あとは知らない。
★
厩務員の佐々木は、腕を組んで黙ったまま、じじいを見ていた。
口数が少なく、余計なことは言わない。長年この世界で馬を見てきた、中堅の職人である。
鹿毛の馬の担当厩務員が、足元を確認して目を丸くしている。「さっきまであんなに庇ってたのに」と、声を上げていた。
その声は、佐々木の耳にも届いていた。
佐々木は、じじいへ目を戻した。
ユメノワスレナグサ。芦毛の、妙に落ち着いた馬。レース後なのに汗一つかいていない。さっきまで走っていたくせに、まるで疲れていない顔をしている。そして今、見知らぬ馬の脚に鼻先を当てて、何かをした。
今朝の引き運動を、思い出す。
あいつが鼻先を向けた馬は、みんな、ふっと楽な顔になった。
佐々木は、長い沈黙の後、静かに目を細めた。
じじいが、ふとこちらを見た。
二つの視線が、一瞬だけ交わった。
じじいは、ふんと鼻を鳴らして前を向く。何でもありませんよ、という顔だ。
佐々木は、何も言わなかった。
それから、静かにその場を離れた。




