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前世ヒーラーのじじい馬、隠居したいのに長距離レースで無双する 〜こっそり全員癒やしてたら、伝説のステイヤーになってました〜  作者: 猫の造形美


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第33話 夏のお客さん


 八月の終わり。


 古道牧場に、一台の車が入ってきた。


 じじいは、放牧地の隅で草を食んでいた。


 頭の上に、チャが乗っていた。


 いつも通りの午後。


 車が止まる音がした。


 ドアが開く音がした。


 それから。


「ワスレナグサーっ!」


 聞き覚えのある声が、牧場に響いた。


 じじいは、耳をそちらに向けた。


 牧場の入り口に、小さな人影があった。


 優芽だ。


 車椅子ではない。


 自分の足で、砂利道に立っていた。


 隣に、父親がいる。


 その後ろに、もう一人、同じくらいの年の女の子がいた。


 優芽は、じじいを見つけると、駆け出した。


 走った。


 牧草地を、真っ直ぐに走ってきた。


(ほう)


 じじいは、草を食む口を止めた。


 走っている。


 この子が、走っている。


 セリの日、車椅子に座っていた小さな女の子が。


 今、全力で走ってきている。


 じじいは、動かなかった。


 ただ、優芽が来るのを待った。


 優芽は、柵の前で止まった。


 息を切らしながら、じじいを見上げた。


 頬が赤い。


 目が、きらきらしている。


「会いに来たよ」


 じじいは、ゆっくりと首を伸ばした。


 優芽の前に、鼻先を差し出した。


 優芽は、両手でじじいの鼻筋を包んだ。


 温かい手だった。


 以前とは違う。


 力がある。


 健康な子供の、温かさだ。


(ふむ……元気になったのう)


 優芽の手の温度を、じじいはしばらく感じていた。


       ★


 後ろから、女の子が恐る恐る近づいてきた。


 凛だ。


 優芽が学校で最初に仲良くなった、あの元気な子である。


 だが、本物の競走馬を前にすると、さすがの凛も及び腰だった。


「……大きいね」


「でしょう。わたしの馬だもの」


 優芽が、誇らしげに言った。


 凛が、じじいの顔をじっと見た。


 じじいも、凛を見た。


「目が、やさしいね」


 凛が、小さく言った。


(ふむ、良い目を持っておるな、お嬢ちゃんの友達よ)


 じじいは、凛にも鼻先を向けた。


 凛が、びくっとした。


 それから、おそるおそる手を伸ばした。


 じじいの鼻先に、指先が触れた。


「……やわらかい」


 凛が、目を丸くした。


 優芽が、嬉しそうに笑った。


 その時だった。


 頭の上で、チャがもぞもぞと動いた。


 凛が、じじいの頭を見た。


 固まった。


「……猫、乗ってる」


「え?」


 優芽が、じじいの頭を見上げた。


 チャが、頭の上から二人を見下ろしていた。


「乗ってる!」


「なんで!」


 二人が、同時に叫んだ。


 チャは、ゴロゴロと喉を鳴らした。


 降りる気は、全くなかった。


 じじいは、知らんぷりで草を一口食んだ。


「ダービー馬なのに」


 優芽が、笑い始めた。


「猫を頭に乗せてる」


「すごい、なんかすごい」


 凛も、笑い始めた。


 二人で、柵の前で笑い転げた。


 じじいは、黙って草を食んだ。


(笑いたければ笑いなされ)


 チャは、じじいの頭の上で丸くなった。


 ゴロゴロ、ゴロゴロ。


       ★


 夕方。


 敏夫と春代が、縁側でお茶を出してくれた。


 優芽と凛と、父親が並んで座った。


 春代が、お菓子を皿に盛って出してきた。


「遠いところをわざわざ」


「いいえ、優芽がどうしても来たいというものですから」


 父親が、丁寧に頭を下げた。


「本当に、あの子には世話になりました」


 父親の声が、少しだけ低くなった。


「去年の今頃は、学校に行けるとは思っていなかったので」


 敏夫は、お茶を一口飲んだ。


「馬の力ですよ」


「そうかもしれません」


 春代が、優芽を見た。


 優芽は、凛とお菓子を食べながら、じじいの方を何度も振り返っていた。


 じじいは、馬房の前でチャと並んでいた。


 春代が、小さく笑った。


「あの子、昔からああなんですよ。生まれた日から、妙に落ち着いてて。寝太郎って呼んでたくらいで」


 父親が、目を細めた。


「優芽が初めて我儘を言ったのが、あの馬を買う時でした。セリの会場で、あの子を指さして『この子がいい』と」


 敏夫が、腕を組んだ。


「うちの馬を、よく見つけてくれました」


「向こうから選んだんだと思います」


 父親が、静かに言った。


 縁側に、夕方の風が吹いた。


 牧草地が、揺れた。


       ★


 帰り際。


 優芽が、もう一度じじいの馬房の前に来た。


 チャが、馬房の前に座っていた。


 優芽を見て、にゃあと鳴いた。


「この子、名前は?」


 後ろから来た敏夫が答えた。


「チャだ」


「チャ」


 優芽が、しゃがんでチャに手を伸ばした。


 チャは、優芽の手をくんくんと嗅いだ。


 それから、頭をこすりつけた。


「懐いた」


 敏夫が、少し驚いた顔をした。


「人見知りするやつなんだが」


 優芽が、チャを撫でながらじじいを見上げた。


「美浦にも猫がいるんだよ。トラっていうの」


 じじいは、優芽を見た。


(トラか……元気にしておるかのう)


「会わせてみたいな、チャとトラ」


 チャが、優芽の膝に乗ってきた。


 ゴロゴロと、喉を鳴らした。


 じじいは、そっと首を伸ばした。


 優芽の肩に、鼻先を当てた。


 優芽が、じじいを見た。


「なに、甘えてるの?」


 じじいは、鼻先を優芽の胸元に向けた。


 心臓の位置に、そっと触れた。


(──ヒール)


 ごく薄い、確認のための魔法だ。


 優芽の体の中を、癒しの波がさっと走った。


 心臓が、健康に動いている。


 欠陥はない。


 滞りもない。


 完全に、健康な子供の心臓だ。


(ふむ……もう大丈夫じゃな)


 二年前の嵐の夜から数えて、何度目の診察だっただろうか。


 母馬に始まり、この小さな馬主に至るまで。


 主治医は、鼻先を静かに離した。


 今日で、往診は終わりだ。


 あとはもう、勝手に大きくなるがいい。


 優芽は、気づいていない。


 ただ、不思議そうにじじいの顔を見た。


「なんか、あったかかった」


 じじいは、何でもないように前を向いた。


 優芽は、もう一度じじいの鼻筋を撫でた。


「また来るね」


 じじいは、耳をぴくりと動かした。


       ★


 車が、牧場を出ていった。


 敏夫と春代が、入り口で見送った。


 砂利道に、夕日が伸びていた。


 じじいは、馬房の前でその様子を眺めていた。


 チャが、足元に擦り寄ってきた。


 頭によじ登ってきた。


 どすん、と小さな重みが乗った。


「ゴロゴロ、ゴロゴロ」


 じじいは、空を見上げた。


 夕焼けが、牧草地を赤く染めていた。


(良い夏じゃったのう)


 前世の大聖者は、今日も古道牧場の夕暮れを、のんびりと眺めるのだった。


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