第32話 牧場にて
夜が、深くなった。
古道牧場は、虫の声だけになった。
敏夫も、春代も、スタッフも、みんな寝ている。
じじいは、目を開けた。
むっくりと起き上がった。
(ふむ……良い夜じゃ)
馬房の扉に近づく。
鼻先で、馬栓棒を静かに押し上げた。
カチャリ。
扉を、そっと押し開ける。
外に出た。
月が、明るかった。
北海道の夜空は、星が多い。
じじいは、しばらく空を見上げた。
(美浦より、星が見えるのう)
それだけ思って、歩き始めた。
★
牧場の中を、ゆっくりと歩く。
蹄の音を、できるだけ立てないように。
じじいの得意な、隠密歩行だ。
うっすら音がしているが、本人は無音のつもりである。
繁殖牝馬たちの馬房が、並んでいる。
八頭、みんな寝ていた。
じじいは、馬房の列の前で立ち止まった。
目を、細める。
右端の牝馬は、歯が弱って飼い葉を残しがちだ。
その隣は、去年の出産で腰を痛めたまま。
三番目は、蹄の内側に小さな炎症。
どれも、命に関わる病ではない。
獣医を呼ぶほどでもない、老いと勤めの、細かなガタだ。
(一頭ずつ丁寧に診てやりたいところじゃが……八頭は、朝までかかるのう)
じじいは、魔力を練った。
前世で、戦場の野営地に使った技だ。
数万人の兵士に、一度に回復魔法をばら撒く。
一人ひとりに丁寧にかける「ヒール」とは違う。
霧のように広げて、薄く、広く、浸透させる。
精度は落ちる。効果も薄い。
だが、何もしないよりずっとましだ。
(ミスト式じゃな。雑じゃが、まあ良かろう)
じじいは、鼻先から魔力を霧状に放った。
見えない癒しの粒子が、夜の空気に溶けた。
それが、牧場全体にじわじわと広がっていく。
繁殖牝馬たちの馬房へ。
若駒たちの馬房へ。
牧場犬の小屋へ。
古い厩舎の隅々へ。
薄い回復の波が、静かに染み込んでいく。
弱った歯茎に。痛んだ腰に。火照った蹄に。
誰の眠りも、妨げないまま。
(この牧場の連中は、わしの母を養い、わしを育てた。……まとめて診るくらいは、させてもらうぞい)
ふと、母馬の馬房の前で、足が止まった。
穏やかな寝息が、聞こえる。
あの嵐の夜、死にかけていた母は、今夜もよく眠っていた。
(うむ。健やかで何よりじゃ)
じじいは、満足して歩き始めた。
★
牧場の端まで来た時だった。
草むらの中で、何かが動いた。
じじいは、耳をそちらに向けた。
茶色い影が、草の中からひょっこりと顔を出した。
猫だ。
茶トラの、丸い顔をした猫だ。
体は小さめだが、顔だけやたら丸い。
目が、大きい。
じじいを見て、固まった。
じじいも、猫を見た。
しばらく、二者が見つめ合った。
猫が、シャーと小さく威嚇した。
(ほう、強気じゃな)
じじいは、動かなかった。
ただ、ふう、と温かい息を猫に向けて吹きかけた。
息に、ごくわずかな魔力を乗せた。
(怖がらなくていいぞい、小さいの)
猫の目が、変わった。
さっきまでの警戒心が、すうっと消えた。
猫は、草むらから出てきた。
じじいの前脚の周りを、くるくると回った。
それから、じじいの前脚に頭をこすりつけた。
「ゴロゴロ、ゴロゴロ」
喉が鳴り始めた。
(現金なやつじゃ)
じじいは、鼻先を猫の背中に向けた。
(──ヒール)
猫の体に、温かい癒しが浸透した。
猫は、目を細めた。
それから、じじいの脚をぐいぐいと押してきた。
(なんじゃ)
それから、じじいの前脚をよじ登り始めた。
(おい)
首をよじ登った。
(おいおい)
そのまま、頭の上に乗った。
どすん、と小さな重みが、じじいの頭に乗った。
猫は、頭の上で丸くなった。
「ゴロゴロ、ゴロゴロ」
喉が、さらに大きく鳴った。
じじいは、動かなかった。
頭の上の重みを感じながら、しばらく立っていた。
(……やれやれ)
降ろす気には、なれなかった。
前世でも、こういう生き物はいた。
懐いたら最後、どこまでもついてくる手合いだ。
美浦の、あのキジトラのように。
(お主ら、種族で似るのかのう)
じじいは、頭に猫を乗せたまま、歩き始めた。
★
牧場の中を、ゆっくりと歩く。
頭の上で、猫がゴロゴロ言っている。
月明かりの下、大きな芦毛の馬が、頭に茶トラ猫を乗せて歩いている。
なかなか、奇妙な光景だった。
じじいは、気にしなかった。
若駒たちの馬房の前を通った。
一頭が、目を覚ましてじじいを見た。
頭の上の猫を見て、きょとんとした顔をした。
じじいは、知らんぷりで歩き続けた。
牧場犬の小屋の前を通った。
老犬が、薄目を開けた。
じじいを見た。
頭の上の猫を見た。
それから、また目を閉じた。
見なかったことにしたらしい。
じじいは、一周して自分の馬房に戻ってきた。
頭の上の猫を、どうしようか考えた。
(降りなされ)
猫は、降りなかった。
ゴロゴロと喉を鳴らし続けている。
(やれやれ……しょうがないのう)
じじいは、馬房に入った。
藁の上に、ゆっくりと横になった。
猫が、頭から首へ、首から肩へと移動した。
それから、じじいの顎の下あたりに落ち着いた。
「ゴロゴロ、ゴロゴロ」
じじいは、目を閉じた。
(まあ……悪くはないのう)
前世でも、こうして動物と眠った夜があった。
懐かしいような、くすぐったいような気持ちだった。
二つの寝息が重なって、北海道の夜に溶けていった。
★
翌朝。
敏夫が、牧場を見回りに来た。
繁殖牝馬たちの馬房を順番に確認する。
「……なんだ、みんな妙に元気じゃないか」
いつもは朝が弱い牝馬が、すでに起き上がって活発に動いている。
飼い葉を残す癖のあった右端の牝馬が、桶を空にしていた。
若駒たちも、目がきらきらしている。
牧場犬が、老体のくせに尻尾を激しく振って走り回っていた。
「……昨日と全然違うぞ」
敏夫は、首を傾げながら、じじいの馬房へ向かった。
馬房の前に来て、敏夫は足を止めた。
じじいが、藁の上で横になっている。
その顎の下に、茶トラ猫が丸くなっていた。
二頭が、仲良く眠っていた。
「……チャ」
敏夫が、呼んだ。
猫の名前だった。雑な名前だった。
チャは、片目だけ開けた。
敏夫を見た。
それから、また目を閉じた。
「お前、いつの間にあいつと仲良くなったんだ」
チャは、答えなかった。
ゴロゴロと、喉が鳴り始めた。
その振動で、じじいも目を覚ました。
むっくりと首を起こす。
チャが、じじいの首筋に頭をこすりつけた。
じじいは、やれやれという顔をした。
(朝から元気なやつじゃ)
敏夫は、二頭を交互に見た。
それから、深いため息をついた。
「……牧場中が謎だらけだ」
スタッフが後ろから来た。
「敏夫さん、みんな妙に元気ですよ今日」
「知ってる」
「なんかあったんですかね」
敏夫は、じじいを見た。
じじいは、知らんぷりで藁を食んだ。
チャが、じじいの頭によじ登った。
また、頭の上に乗った。
「ゴロゴロ、ゴロゴロ」
敏夫は、その様子をしばらく見ていた。
それから、スタッフに言った。
「チャにも、今日は飯を多めにやってくれ」
「なんでですか」
「なんとなくだ」
敏夫は、踵を返した。
「あと、馬房の周りの草が増えてたら、黙って記録だけしておけ」
「……はい」
スタッフは、よく分からないまま頷いた。
じじいは、頭の上にチャを乗せたまま、北海道の朝を眺めていた。
空が、青い。
草が、美味そうだ。
(ふぉっふぉっふぉ……良い朝じゃ)
前世の大聖者は、今日も古道牧場で、のんびりと過ごすのだった。




