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前世ヒーラーのじじい馬、隠居したいのに長距離レースで無双する 〜こっそり全員癒やしてたら、伝説のステイヤーになってました〜  作者: 猫の造形美


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第31話 放牧


(帰ってきたのう)


 八月の北海道は、涼しかった。


 馬運車が、砂利道をゆっくりと進む。


 じじいは、窓の外を眺めていた。


 緑が濃い。空が広い。


 どこまでも続く牧草地。


(ふむ……ここは)


 見覚えのある景色。生まれた場所だ。


 それより、草の匂いが気になった。


 美浦とは違う、濃い牧草の匂いが、窓の隙間から入ってくる。


(美味そうじゃな)


       ★


 古道牧場の入り口に、二人が立っていた。


 敏夫と、春代だ。


 馬運車が止まり、ハッチが開く。


 じじいが、スロープを下りた。


 敏夫は、腕を組んだまま動かなかった。


 じじいを、じっと見ている。


 春代が、エプロンで手を拭いた。


「大きくなった」


 小さく、呟いた。


 敏夫は何も言わなかった。


 ただ、顎をさすった。


 じじいは、二人を見た。


 それから、視線を足元の草に移した。


 鼻先を地面に近づける。


(ふむ……やはり美味そうじゃ)


「お前な」


 敏夫が、低い声で言った。


「ダービー馬になって帰ってきたんだぞ。もう少し、感慨というものがあってもいいだろ」


 じじいは、草を一口食んだ。


 甘い。


 美浦の草とは、全然違う。


(ふぉっふぉっふぉ、やはり北海道の草は格別じゃな)


 敏夫は、深いため息をついた。


 春代が、くすくすと笑った。


「相変わらずですねえ、この子。寝太郎のままだ」


 敏夫は、それ以上何も言わなかった。


 ただ、じじいの首筋を、一度だけぽんと叩いた。


 その手が、少しだけ震えていた。


 じじいは、草を食みながら、敏夫の手の温かさを感じた。


(ふむ……お主も元気そうで何よりじゃ)


 声には出ないが、そう思った。


       ★


 新しい馬房は、牧場の奥にあった。


 敏夫が、自慢げに言った。


「お前のために作った。うちの牧場始まって以来の、新品だ」


 じじいは、馬房の中に入った。


 藁が、ふかふかだ。匂いが、新しい。


 壁も、柵も、ぴかぴかしている。


(ほう……悪くないのう)


 じじいは、馬房の中をゆっくりと歩いた。


 四隅を確認する。


 藁の深さを、蹄で確かめる。


(うむ、合格じゃ)


 敏夫が、腕を組んで入り口から見ていた。


「気に入ったか」


 じじいは、返事の代わりに大きなあくびをした。


「……寝るのか」


 もう目を閉じ始めていた。


「お前な、着いて五分も経ってないぞ」


 じじいは、そのまま藁の上に横になった。


 大イビキをかき始めた。


 敏夫は、しばらくその様子を見ていた。


 それから、誰もいないのに言った。


「……ゆっくりしていけ」


       ★


 夜が更けた。


 古道牧場は、静かだった。


 虫の声だけが聞こえる。


 じじいは、目を開けた。


 むっくりと起き上がった。


 馬房の扉に近づく。


 鼻先で、馬栓棒を静かに押し上げた。


 カチャリ。


 扉を、そっと押し開け、外に出た。


 月明かりが、牧草地を照らしていた。


 じじいは、馬房の周りをゆっくりと歩いた。


 足元の草を、じっと見た。


(ふむ……ここいらの草は、もう少し育てられるのう)


 魔力を、練った。


 植物の成長を促す、下位の生活魔法。


 思えば、当歳のころは、この魔法一発で気絶していた。


 一株にょきにょきさせては、ズドーンと倒れる日々。


 あの頃の魔力は、コップ一杯にも満たなかった。


(懐かしいのう。……さて、今はどうかの)


 草の根に、じんわりと魔力を送り込む。


(にょきにょき、となれ)


 足元の草が、わずかに揺れた。


 じじいは、そのまま歩き出した。


 一歩ごとに、魔力を流し続ける。


 途切れない。


 息も、乱れない。


 じじいは、放牧地の周りをぐるりと一周した。


 丁寧に、丁寧に、魔力を送り込む。


 一周分の草に、たっぷりと。


 それでもまだ、眠気のねの字も来なかった。


(……あの頃の千倍は、撒いたかのう。ふぉっふぉっふぉ、修行の成果というやつじゃ)


 見た目には、何も変わらない。


 だが、明朝には違う姿になっているはずだ。


(明日の朝が楽しみじゃな)


 満足して、馬房に戻った。


 馬栓棒を、元の位置に落とす。


 カチャリ。


 藁の上に横になった。


 五秒で眠った。


       ★


 翌朝。


 牧場スタッフの若者が、真っ先に異変に気づいた。


「……なんだこれ」


 草の丈が、頭二つ分ほど高くなっていた。


 色が濃い。艶が違う。


 昨日と、全然違う草が生えていた。


「敏夫さん、ちょっと来てください」


 敏夫が来た。


「……なんだこれ」


「分かりません」


「昨日はこうじゃなかったよな」


「はい、普通の草でした」


 敏夫は、草を一本引き抜いた。


 匂いを嗅いだ。


「……いい匂いがする」


「食べてみますか」


 敏夫は、草を戻した。


 じじいの馬房を見た。


 じじいは、入り口から首を伸ばして、外の草をモグモグと食んでいた。


 ただ、黙々と草を食んでいる。


 敏夫は、しばらくじじいを見ていた。


 それから、深いため息をついた。


「まあ……元気そうなら、いいか」


 スタッフが、首を傾げながらメモ帳を開いた。


「記録しておきますか」


 敏夫は、踵を返した。


「『謎の草が生えた』とだけ書いておけ」


       ★


 その日の午後、放牧地の隅で、じじいは草を食んでいた。


 極上の草だ。


 自分で魔法をかけた草だ。


(ふぉっふぉっふぉ……実に美味い)


 空が、広い。


 風が、気持ちいい。


 美浦とは違う、のんびりした空気がある。


(これが、隠居というものじゃな)


 じじいは、満足げに目を細めた。


 牧場の事務所の方から、敏夫の声が聞こえた。


「本当か!」


 何かあったらしい。


 じじいは、耳をそちらに向けた。


「勝ったのか、タフのやつが!」


 電話をしているようだ。


 春代が、事務所から走り出てきた。


「あなた、どうしたんですか」


「タフが勝った! 未勝利で勝った!」


 タフというのは、この牧場の若駒らしい。


 春代が、両手で口を押さえた。


「本当に?」


「本当だ! 鞍上がうまかったって!」


 二人が、事務所の前で手を取り合っていた。


 敏夫の目が、赤くなっていた。


 春代は、エプロンで涙を拭っていた。


 じじいは、その様子を放牧地の隅から眺めていた。


 草を、一口食んだ。


(わしの時も、こんな感じだったのかのう)


 新馬戦は、じじいにとって遠い記憶だ。


 あの時の敏夫も、きっとこんな顔をしていたのだろうか。


 勝った本馬は、リンゴのことしか考えていなかったが。


 人間たちは、あんなふうに手を取り合って、泣いていたのかもしれない。


(……一勝というのは、重いのじゃなあ)


 じじいは、草をもう一口食んだ。


 放牧地の向こうで、敏夫と春代がまだ話している。


 電話が、また鳴った。


 敏夫が出た。


「ああ、聞いたか! うちのタフがな——」


 嬉しそうな声が、牧草地に響いた。


 じじいは、その声を聞きながら、青い空を見上げた。


 風が、草を揺らした。


 前世の大聖者は、今日も北海道の夏を、のんびりと過ごした。


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