第29話 東京優駿
5月最終日曜日。
東京競馬場は、朝から人で埋まっていた。
10万を超える観衆が、府中の杜に集まっていた。
空は、雲一つない青だった。
風が、ターフを静かに揺らしていた。
じじいは、パドックをトボトボと歩いていた。
(人が多いのう)
★
観客席の一角に、優芽がいた。
隣に友達が三人並んでいた。
みんな、プログラムを持っている。
「あれがユメノワスレナグサ?」
「白い馬だ、きれい」
「すごい人気だね、1番人気じゃん」
友達たちが、口々に言う。
優芽は、じじいを目で追いながら、静かに微笑んだ。
「絶対に勝つから、見ていてね」
友達が、笑った。
「優芽、すごい自信だね」
「だって、わたしの馬だもの」
★
パドックの外周。
陣内翔が、柵の外に立っていた。
今日も乗り馬がない。
腕を組んで、じじいを見ている。
それから、ロードカイザーを見た。
カイザーは、パドックの反対側を周回している。
皐月賞の時より、明らかに馬体が絞れている。
目が、違う。
燃えている。
陣内は、しばらく黙って二頭を見比べた。
それから、小さく呟いた。
「……どっちが勝つんだろうな」
珍しく、誰かに話しかけるわけでもなく、ただ呟いた。
★
返し馬を終えて、ゲート前へ向かう。
背中に、紗季がいる。
手綱の感触が、今日はいつもと少し違う。
弥生賞の研ぎ澄まされた緊張でもなく。
皐月賞の静かな覚悟でもなく。
もっと深い、静けさだ。
じじいは、その手綱の感触を感じた。
(紗季、今日は本気じゃな)
ゲートへ向かう途中、ロードカイザーが視界に入った。
カイザーも、こちらを見た。
目が合った。
皐月賞の時と違う目だ。
あの時は、挑発的な炎だった。
今日は、静かな炎だ。
じじいは、その目を見て思った。
(ふむ、成長しておるな若造)
それから、前を向いた。
ゲートに収まる。
18頭が、一列に並んだ。
東京の空が、広い。
ガシャン。
★
スタート、完璧だった。
じじいは、躊躇なく先頭へ向かった。
大逃げだ。
紗季が、手綱を緩める。
じじいは、加速した。
最初の1ハロンを、自分のペースで刻む。
後続を、一気に引き離した。
向こう正面に入った頃、2番手との差は12馬身あった。
(ふむ、良いペースじゃ)
じじいは、自分のリズムを刻んだ。
心臓が、規則正しく動いている。
脚が、軽い。
呼吸が、楽だ。
★
後方では、鷹騎手がカイザーを10番手につけていた。
焦らない。
まだ動かない。
3コーナーまで、待つ。
鷹騎手の視線は、ずっとじじいの背中を追っていた。
向こう正面の半ばを過ぎた頃、鷹騎手は手綱を少しだけ緩めた。
カイザーが、反応した。
一完歩ごとに、前との差が縮まる。
10番手から、8番手。
6番手。
4番手。
3コーナーの入り口で、カイザーはすでに2番手にいた。
「行けるか」
鷹騎手が、カイザーに問いかけた。
カイザーは、答える代わりにさらに加速した。
★
じじいは、後ろの気配を感じた。
(来おったな)
3コーナーを回りながら、魔力を練った。
(──ヒール)
一回目。
全身に、温かい光が巡った。
脚が、軽くなった。
呼吸が、リセットされた。
加速した。
だが、カイザーも来る。
4コーナーを回る。
差が、8馬身。
6馬身。
★
【カイザー視点】
前が見えた。
ずっと前にいる、芦毛の背中。
皐月賞から、ずっとあの背中を見ていた。
調教で、何本坂路を上ったか分からない。
筋肉が悲鳴を上げた夜も、走り続けた。
あのアタマ差を、塗り替えるために。
あの舌出しを、返すために。
鷹騎手の手綱が、わずかに緩んだ。
「今だ」
カイザーは、全力で加速した。
前との差が、縮まる。
縮まる。
4馬身。
3馬身。
最後の直線に入った。
東京の長い直線。
525メートル。
カイザーは、全部使うつもりだった。
★
「ワスレナグサ、まだ先頭!」
実況の声が、スタンドに響いた。
「外からロードカイザー、凄い脚で来る!」
じじいは、直線に向いた瞬間に感じた。
カイザーが、来る。
今日は、皐月賞の時と違う。
速い。
明らかに速い。
(二回目じゃ)
(──ヒール)
全身が、リセットされた。
じじいは、加速した。
だが、カイザーも止まらない。
2馬身。
1馬身。
「ロードカイザー、差を詰める!」
残り300メートル。
鷹騎手が、静かに鞭を入れた。
カイザーが、もう一段加速した。
半馬身差。
クビ差。
(三回目じゃ)
(──ヒール)
じじいは、三度目の魔法を使った。
脚が、軽くなった。
リズムが、戻った。
だが。
カイザーが、並んだ。
残り200メートル。
二頭が、完全に並んだ。
スタンドが、爆発した。
「並んだ! ワスレナグサとロードカイザー、並んだ!」
★
【カイザー視点】
並んだ。
ようやく、並んだ。
横に、芦毛の馬体がある。
皐月賞では、最後まで届かなかった。
今日は、並んだ。
ここから、差し切る。
全力で、前へ。
カイザーは、残り全部を出し切るつもりで走った。
★
じじいは、カイザーが並んだ瞬間に感じた。
今日のカイザーは、違う。
皐月賞とは別の馬だ。
三回ヒールを使っても、離れない。
(ふむ……畜生の癖にやりおるわい)
じじいは、初めて認めた。
このままでは、負ける。
魔力を、練り直した。
今までとは違う使い方。
治すのではなく、纏わせる。
前世で、戦士の剣に魔力を纏わせたように。
脚の筋肉、その一本一本に、光を染み込ませていく。
(──やってみるかのう)
じんわりと、脚が変わった。
重さが消えた。
バネが、増した。
じじいの一完歩が、変わった。
★
紗季は、背中の変化を感じた。
じじいの走りが、変わった。
二の足とも違う。
もっと深い、何かが出てきた。
(まだ、奥があったの——)
紗季は、手綱を緩めた。
邪魔をしない。
この馬に、任せる。
★
「ワスレナグサ、もう一伸び!」
実況の声が、裏返った。
「ロードカイザーも食い下がる!」
残り150メートル。
じじいが、出た。
ハナ差。
残り100メートル。
カイザーが、食い下がる。
並ぶ。
また、じじいが出る。
残り50メートル。
二頭が、ほぼ同時にゴール板へ向かった。
★
【カイザー視点】
残り50メートル。
脚が、限界だった。
3コーナーから動いた分、末脚の貯金が少ない。
それでも、止まらなかった。
前に、芦毛の馬体がある。
ハナ差。
届くか。
届かないか。
カイザーは、最後の一絞りを出した。
★
ゴール板。
二頭が、ほぼ同時に駆け抜けた。
場内が、静まり返った。
一瞬の沈黙。
それから、大歓声が爆発した。
「写真判定です」
アナウンスが流れた。
スタンドが、ざわめいた。
★
長い、二分間が始まった。
観客席で、優芽は両手を胸の前で組んでいた。
目を閉じている。
友達たちも、つられて黙っていた。
馬主席では、古谷が電光掲示板を睨んだまま、微動だにしなかった。
稲葉は、手帳を胸に抱えたまま、息を止めていた。
北海道の茶の間では、五人がテレビの前で固まっていた。
誰も、何も言わなかった。
走路の上。
じじいは、歩きながら待った。
紗季も、無言で待った。
カイザーも、鷹騎手も、無言で待った。
十万人が、同じ掲示板を見ていた。
電光掲示板が、点滅した。
「同着」
二文字が、光った。
スタンドが、また爆発した。
「同着! ワスレナグサとロードカイザー、同着!」
「日本ダービー、史上初の同着決着!」
★
じじいは、電光掲示板を見た。
(同着か)
それから、カイザーを見た。
カイザーは、肩で息をしていた。
全身に汗が滲んでいる。
脚が、震えていた。
全部、出し切ったのだ。
じじいは、しばらくカイザーを見た。
(……やるのう、若造)
じじいは、今日初めて本気で認めた。
煽る気には、なれなかった。
それほど、カイザーは全力だった。
じじいは、カイザーに近づいた。
カイザーが、警戒するように目を向けた。
じじいは、カイザーの首筋に鼻先をそっと当てた。
(──リジェネ)
温かい光が、カイザーの全身に染み込んだ。
使い果たした筋肉に、回復の波が広がる。
震えていた脚が、少しだけ落ち着いた。
カイザーは、目を丸くした。
何が起きたか、分からない顔だった。
じじいは、鼻先を離した。
(畜生の癖にやりおるわい)
(褒めてやるわい、今日だけじゃがの)
それだけだった。
★
検量室の前。
古谷が、稲葉と並んで立っていた。
掲示板の「同着」を、二人でじっと見ていた。
「……勝った、のか」
稲葉が、静かに言った。
「同着だ」
「勝ったんですよね」
「ああ」
古谷は、目を細めた。
「勝った」
稲葉は、手帳を胸に抱えた。
目が、光っていた。
紗季が戻ってきた。
古谷は、何も言わなかった。
ただ、深く頷いた。
紗季も、何も言わなかった。
ただ、深く頷いた。
しばらくして、鷹騎手が歩いてきた。
紗季の前で、立ち止まった。
紗季が、小さく笑った。
二人は、短くなにかを言って、握手をした。
★
観客席では、優芽が友達と手を繋いで飛び跳ねていた。
「同着でも勝ちだよね! 勝ちだよね!」
「勝ちだよ! すごい!」
「ワスレナグサ、強すぎ!」
友達たちが、口々に叫んでいた。
優芽は、声を上げて笑っていた。
病院の白い天井しか知らなかった頃には、想像もできなかった笑顔だった。
★
一方、陣内翔は、柵の外で腕を組んでいた。
掲示板の「同着」を見ていた。
しばらく黙っていた。
それから、小さく呟いた。
「……俺が乗ってたら、同着じゃなくて勝ってたな」
いつも通りだった。
★
その夜。
馬房に戻ったじじいは、飼い葉を食べた。
ニンジンが、いつもより多く入っていた。
甘い。
トラが、膝のあたりに擦り寄ってきた。
じじいは、トラの背中に息を吹きかけた。
外から、古谷と稲葉の声が聞こえた。
「次はセントライト記念だ。秋の菊花賞へ向けて」
古谷は不敵に笑う。
「カイザーは天皇賞秋へ行くそうだ」
じじいは、その会話を聞きながら目を閉じた。
今日のカイザーの目を思い出した。
静かな炎。
全部を出し切った後の、満足と悔しさが混じった目。
トラが、ゴロゴロと喉を鳴らした。
東京の夜が、静かに厩舎を包んでいた。
前世の大聖者は、今日も満足げに眠りに落ちた。




