↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
前世ヒーラーのじじい馬、隠居したいのに長距離レースで無双する 〜こっそり全員癒やしてたら、伝説のステイヤーになってました〜  作者: 猫の造形美


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
30/51

第29話 東京優駿

 5月最終日曜日。


 東京競馬場は、朝から人で埋まっていた。


 10万を超える観衆が、府中の杜に集まっていた。


 空は、雲一つない青だった。


 風が、ターフを静かに揺らしていた。


 じじいは、パドックをトボトボと歩いていた。


(人が多いのう)


       ★


 観客席の一角に、優芽がいた。


 隣に友達が三人並んでいた。


 みんな、プログラムを持っている。


「あれがユメノワスレナグサ?」


「白い馬だ、きれい」


「すごい人気だね、1番人気じゃん」


 友達たちが、口々に言う。


 優芽は、じじいを目で追いながら、静かに微笑んだ。


「絶対に勝つから、見ていてね」


 友達が、笑った。


「優芽、すごい自信だね」


「だって、わたしの馬だもの」


       ★


 パドックの外周。


 陣内翔が、柵の外に立っていた。


 今日も乗り馬がない。


 腕を組んで、じじいを見ている。


 それから、ロードカイザーを見た。


 カイザーは、パドックの反対側を周回している。


 皐月賞の時より、明らかに馬体が絞れている。


 目が、違う。


 燃えている。


 陣内は、しばらく黙って二頭を見比べた。


 それから、小さく呟いた。


「……どっちが勝つんだろうな」


 珍しく、誰かに話しかけるわけでもなく、ただ呟いた。


       ★


 返し馬を終えて、ゲート前へ向かう。


 背中に、紗季がいる。


 手綱の感触が、今日はいつもと少し違う。


 弥生賞の研ぎ澄まされた緊張でもなく。


 皐月賞の静かな覚悟でもなく。


 もっと深い、静けさだ。


 じじいは、その手綱の感触を感じた。


(紗季、今日は本気じゃな)


 ゲートへ向かう途中、ロードカイザーが視界に入った。


 カイザーも、こちらを見た。


 目が合った。


 皐月賞の時と違う目だ。


 あの時は、挑発的な炎だった。


 今日は、静かな炎だ。


 じじいは、その目を見て思った。


(ふむ、成長しておるな若造)


 それから、前を向いた。


 ゲートに収まる。


 18頭が、一列に並んだ。


 東京の空が、広い。


 ガシャン。


       ★


 スタート、完璧だった。


 じじいは、躊躇なく先頭へ向かった。


 大逃げだ。


 紗季が、手綱を緩める。


 じじいは、加速した。


 最初の1ハロンを、自分のペースで刻む。


 後続を、一気に引き離した。


 向こう正面に入った頃、2番手との差は12馬身あった。


(ふむ、良いペースじゃ)


 じじいは、自分のリズムを刻んだ。


 心臓が、規則正しく動いている。


 脚が、軽い。


 呼吸が、楽だ。


       ★


 後方では、鷹騎手がカイザーを10番手につけていた。


 焦らない。


 まだ動かない。


 3コーナーまで、待つ。


 鷹騎手の視線は、ずっとじじいの背中を追っていた。


 向こう正面の半ばを過ぎた頃、鷹騎手は手綱を少しだけ緩めた。


 カイザーが、反応した。


 一完歩ごとに、前との差が縮まる。


 10番手から、8番手。


 6番手。


 4番手。


 3コーナーの入り口で、カイザーはすでに2番手にいた。


「行けるか」


 鷹騎手が、カイザーに問いかけた。


 カイザーは、答える代わりにさらに加速した。


       ★


 じじいは、後ろの気配を感じた。


(来おったな)


 3コーナーを回りながら、魔力を練った。


(──ヒール)


 一回目。


 全身に、温かい光が巡った。


 脚が、軽くなった。


 呼吸が、リセットされた。


 加速した。


 だが、カイザーも来る。


 4コーナーを回る。


 差が、8馬身。


 6馬身。


       ★


【カイザー視点】


 前が見えた。


 ずっと前にいる、芦毛の背中。


 皐月賞から、ずっとあの背中を見ていた。


 調教で、何本坂路を上ったか分からない。


 筋肉が悲鳴を上げた夜も、走り続けた。


 あのアタマ差を、塗り替えるために。


 あの舌出しを、返すために。


 鷹騎手の手綱が、わずかに緩んだ。


「今だ」


 カイザーは、全力で加速した。


 前との差が、縮まる。


 縮まる。


 4馬身。


 3馬身。


 最後の直線に入った。


 東京の長い直線。


 525メートル。


 カイザーは、全部使うつもりだった。


       ★


「ワスレナグサ、まだ先頭!」


 実況の声が、スタンドに響いた。


「外からロードカイザー、凄い脚で来る!」


 じじいは、直線に向いた瞬間に感じた。


 カイザーが、来る。


 今日は、皐月賞の時と違う。


 速い。


 明らかに速い。


(二回目じゃ)


(──ヒール)


 全身が、リセットされた。


 じじいは、加速した。


 だが、カイザーも止まらない。


 2馬身。


 1馬身。


「ロードカイザー、差を詰める!」


 残り300メートル。


 鷹騎手が、静かに鞭を入れた。


 カイザーが、もう一段加速した。


 半馬身差。


 クビ差。


(三回目じゃ)


(──ヒール)


 じじいは、三度目の魔法を使った。


 脚が、軽くなった。


 リズムが、戻った。


 だが。


 カイザーが、並んだ。


 残り200メートル。


 二頭が、完全に並んだ。


 スタンドが、爆発した。


「並んだ! ワスレナグサとロードカイザー、並んだ!」


       ★


【カイザー視点】


 並んだ。


 ようやく、並んだ。


 横に、芦毛の馬体がある。


 皐月賞では、最後まで届かなかった。


 今日は、並んだ。


 ここから、差し切る。


 全力で、前へ。


 カイザーは、残り全部を出し切るつもりで走った。


       ★


 じじいは、カイザーが並んだ瞬間に感じた。


 今日のカイザーは、違う。


 皐月賞とは別の馬だ。


 三回ヒールを使っても、離れない。


(ふむ……畜生の癖にやりおるわい)


 じじいは、初めて認めた。


 このままでは、負ける。


 魔力を、練り直した。


 今までとは違う使い方。


 治すのではなく、纏わせる。


 前世で、戦士の剣に魔力を纏わせたように。


 脚の筋肉、その一本一本に、光を染み込ませていく。


(──やってみるかのう)


 じんわりと、脚が変わった。


 重さが消えた。


 バネが、増した。


 じじいの一完歩が、変わった。


       ★


 紗季は、背中の変化を感じた。


 じじいの走りが、変わった。


 二の足とも違う。


 もっと深い、何かが出てきた。


(まだ、奥があったの——)


 紗季は、手綱を緩めた。


 邪魔をしない。


 この馬に、任せる。


       ★


「ワスレナグサ、もう一伸び!」


 実況の声が、裏返った。


「ロードカイザーも食い下がる!」


 残り150メートル。


 じじいが、出た。


 ハナ差。


 残り100メートル。


 カイザーが、食い下がる。


 並ぶ。


 また、じじいが出る。


 残り50メートル。


 二頭が、ほぼ同時にゴール板へ向かった。


       ★


【カイザー視点】


 残り50メートル。


 脚が、限界だった。


 3コーナーから動いた分、末脚の貯金が少ない。


 それでも、止まらなかった。


 前に、芦毛の馬体がある。


 ハナ差。


 届くか。


 届かないか。


 カイザーは、最後の一絞りを出した。


       ★


 ゴール板。


 二頭が、ほぼ同時に駆け抜けた。


 場内が、静まり返った。


 一瞬の沈黙。


 それから、大歓声が爆発した。


「写真判定です」


 アナウンスが流れた。


 スタンドが、ざわめいた。


       ★


 長い、二分間が始まった。


 観客席で、優芽は両手を胸の前で組んでいた。


 目を閉じている。


 友達たちも、つられて黙っていた。


 馬主席では、古谷が電光掲示板を睨んだまま、微動だにしなかった。


 稲葉は、手帳を胸に抱えたまま、息を止めていた。


 北海道の茶の間では、五人がテレビの前で固まっていた。


 誰も、何も言わなかった。


 走路の上。


 じじいは、歩きながら待った。


 紗季も、無言で待った。


 カイザーも、鷹騎手も、無言で待った。


 十万人が、同じ掲示板を見ていた。


 電光掲示板が、点滅した。


「同着」


 二文字が、光った。


 スタンドが、また爆発した。


「同着! ワスレナグサとロードカイザー、同着!」


「日本ダービー、史上初の同着決着!」


       ★


 じじいは、電光掲示板を見た。


(同着か)


 それから、カイザーを見た。


 カイザーは、肩で息をしていた。


 全身に汗が滲んでいる。


 脚が、震えていた。


 全部、出し切ったのだ。


 じじいは、しばらくカイザーを見た。


(……やるのう、若造)


 じじいは、今日初めて本気で認めた。


 煽る気には、なれなかった。


 それほど、カイザーは全力だった。


 じじいは、カイザーに近づいた。


 カイザーが、警戒するように目を向けた。


 じじいは、カイザーの首筋に鼻先をそっと当てた。


(──リジェネ)


 温かい光が、カイザーの全身に染み込んだ。


 使い果たした筋肉に、回復の波が広がる。


 震えていた脚が、少しだけ落ち着いた。


 カイザーは、目を丸くした。


 何が起きたか、分からない顔だった。


 じじいは、鼻先を離した。


(畜生の癖にやりおるわい)


(褒めてやるわい、今日だけじゃがの)


 それだけだった。


       ★


 検量室の前。


 古谷が、稲葉と並んで立っていた。


 掲示板の「同着」を、二人でじっと見ていた。


「……勝った、のか」


 稲葉が、静かに言った。


「同着だ」


「勝ったんですよね」


「ああ」


 古谷は、目を細めた。


「勝った」


 稲葉は、手帳を胸に抱えた。


 目が、光っていた。


 紗季が戻ってきた。


 古谷は、何も言わなかった。


 ただ、深く頷いた。


 紗季も、何も言わなかった。


 ただ、深く頷いた。


 しばらくして、鷹騎手が歩いてきた。


 紗季の前で、立ち止まった。


 紗季が、小さく笑った。


 二人は、短くなにかを言って、握手をした。


       ★


 観客席では、優芽が友達と手を繋いで飛び跳ねていた。


「同着でも勝ちだよね! 勝ちだよね!」


「勝ちだよ! すごい!」


「ワスレナグサ、強すぎ!」


 友達たちが、口々に叫んでいた。


 優芽は、声を上げて笑っていた。


 病院の白い天井しか知らなかった頃には、想像もできなかった笑顔だった。


       ★


 一方、陣内翔は、柵の外で腕を組んでいた。


 掲示板の「同着」を見ていた。


 しばらく黙っていた。


 それから、小さく呟いた。


「……俺が乗ってたら、同着じゃなくて勝ってたな」


 いつも通りだった。


       ★


 その夜。


 馬房に戻ったじじいは、飼い葉を食べた。


 ニンジンが、いつもより多く入っていた。


 甘い。


 トラが、膝のあたりに擦り寄ってきた。


 じじいは、トラの背中に息を吹きかけた。


 外から、古谷と稲葉の声が聞こえた。


「次はセントライト記念だ。秋の菊花賞へ向けて」


 古谷は不敵に笑う。


「カイザーは天皇賞秋へ行くそうだ」


 じじいは、その会話を聞きながら目を閉じた。


 今日のカイザーの目を思い出した。


 静かな炎。


 全部を出し切った後の、満足と悔しさが混じった目。


 トラが、ゴロゴロと喉を鳴らした。


 東京の夜が、静かに厩舎を包んでいた。


 前世の大聖者は、今日も満足げに眠りに落ちた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。