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前世ヒーラーのじじい馬、隠居したいのに長距離レースで無双する 〜こっそり全員癒やしてたら、伝説のステイヤーになってました〜  作者: 猫の造形美


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29/51

第28話 温度差


 5月。


 東京競馬場のある府中は、初夏の匂いがした。


 じじいは、馬房の窓から外を見ていた。


 風が、緑の葉を揺らしている。


(悪くない場所じゃな)


       ★


 ダービーウィークに入って、美浦のトレセンが変わった。


 空気が違う。


 人間たちの顔が違う。


 廊下を歩く関係者の目が、みんな鋭い。


 言葉が少ない。


 笑顔が少ない。


 じじいは、その空気を感じながら思った。


(みんな、随分と張り詰めとるのう)


 藁を食んだ。


 特に何も変わらなかった。


       ★


 古谷厩舎の事務スペース。


 古谷が、一人でコース図を眺めていた。


 東京芝2400メートル。


 左回り。


 長い直線。


 指で、直線の長さをなぞった。


 525メートル。


 皐月賞の中山とは、全く別のレースになる。


 カイザーの末脚が、最も活きるコースだ。


(二の足が出る前に、差し切る)


 鷹騎手の言葉が、頭の中で繰り返された。


 古谷は、紙にペンを走らせた。


 じじいの二の足が出るのは、残り200メートルを切った頃だ。


 ということは、鷹騎手は残り300メートルで勝負を決めにくる。


 そのためには、3コーナーから動く。


 カイザーにとってはリスクがある動きだ。


 でも、鷹騎手はそれをやる。


「……厄介だな」


 古谷は、独り言を言った。


 誰もいない部屋に、声が消えた。


       ★


 その頃。


 栗東では、カイザーが最終追い切りをしていた。


 鷹騎手が背中に乗り、坂路を一気に駆け上がる。


 一本目。


 二本目。


 三本目。


 タイムは、自己ベストを更新した。


 鷹騎手が、カイザーから降りた。


 調教師が、タイムを見て黙って頷いた。


「仕上がっています」


 鷹騎手が、静かに言った。


「皐月賞より、確実に良くなっている」


「向こうも同じでしょうが」


 調教師が、苦い顔をした。


「あの馬は、レースのたびに変わっている」


「ええ」


 鷹騎手は、カイザーの首を撫でた。


「だから、今回は違う戦い方をします。3コーナーから動く」


 調教師が、眉を動かした。


「リスクがある」


「あります」


「それでも?」


「直線で二の足を出させない」


 鷹騎手の目は、静かだった。


「カイザーなら、できます」


 カイザーは、鷹騎手の言葉を聞きながら、前を向いていた。


 皐月賞のアタマ差が、ずっと頭にあった。


 あの舌出しも。


 カイザーの目に、炎が宿っていた。


       ★


 一方、美浦。


 じじいの最終追い切りの日。


 朝靄の中、紗季がじじいに跨った。


 手綱を握る。


 坂路のスタート地点に、じじいが立った。


 古谷が、ストップウォッチを構えた。


 稲葉が、手帳を開いた。


「行け」


 紗季が、手綱を緩めた。


 じじいは、坂路を駆け上がった。


 いつも通りだ。


 派手なところは何もない。


 ただ、力強く、淡々と、坂を登り切る。


 古谷が、タイムを見た。


 目を細めた。


「……仕上がった」


 小さく、呟いた。


 稲葉が、手帳にタイムを書き込んだ。


「先週より上がっています」


「ああ」


「当日は、さらに良くなる」


「そうだな」


 二人は、坂を下りてくるじじいを見た。


 息ひとつ乱れていない。


 汗も、ほとんどかいていない。


「……本当に、底が見えない馬だ」


 稲葉が、静かに言った。


 古谷は、何も言わなかった。


 ただ、頷いた。


       ★


 追い切りを終えたじじいは、馬房に戻った。


 佐々木が、バケツを持って待っていた。


「お疲れ、ワスレナグサ」


 じじいは、バケツに顔を突っ込んだ。


 ニンジンが入っていた。


 甘い。


(ふむ、今日もよく走ったのう)


 特に感慨はなかった。


 仕事をした。


 ニンジンが美味い。


 それだけだった。


 佐々木が、じじいの首筋をブラシで梳かしながら言った。


「ダービーだぞ」


「一生に一度しかないレースだ」


「分かってるか」


 じじいは、ニンジンを噛み砕きながら佐々木を見た。


(やれやれ、また仕事じゃ)


「……全然分かってなさそうな顔だな」


 佐々木が、苦笑した。


       ★


 その日の夜。


 じじいの馬房の前に、三人が集まった。


 古谷、稲葉、紗季だ。


 いつもの事務スペースではない。


 紗季が「本人の前で話しましょう」と言い出したのだ。


 通路に持ち出した小さな台の上に、東京のコース図が広げられる。


 じじいは、格子越しに首を伸ばして、それを覗き込んだ。


「最終確認をする」


 古谷が言った。


「カイザーは3コーナーから動いてくる。鷹さんが、そう決めたはずだ」


 紗季が、コース図を見ながら頷いた。


「直線の入り口で、先に抜け出す作戦ですね」


「そうだ」


「二の足が出る前に、差し切る」


 紗季が、ペンを持った。


「こちらは、二の足を出す前に、もう一段階ギアを上げる」


 稲葉が、眉を動かした。


 紗季の目が、静かに燃えていた。


「この馬なら、できるかもしれない」


 古谷は、紗季を見た。


 しばらく黙っていた。


 それから、深く頷いた。


「……やってみろ」


 三人の間に、静かな熱が漂った。


 当のじじいは、コース図に鼻先を近づけていた。


 紙の匂いを、ふんふんと嗅ぐ。


(ふむ。食えんな、これは)


 それから、藁をもう一口食んだ。


(まあ、走れと言われれば走るのじゃがのう)


 じじいは、今日も平然としていた。


 紗季が、その鼻面を撫でて笑った。


「聞いてた? 頼んだからね」


       ★


 ダービーの前日。


 古谷厩舎に、一通のメッセージが届いた。


 優芽の父親からだ。


「明日は優芽と、学校の友人たちと一緒に観戦に行きます。優芽が『絶対に勝つから見ていて』と言い張っています。どうぞよろしくお願いします」


 古谷は、画面を見て小さく笑った。


 稲葉も、小さく笑った。


「プレッシャーですね」


「そうだな」


       ★


 夜が更けた。


 厩舎が静かになった。


 じじいは、藁の上で横になった。


 トラが、前脚の間に入ってきた。


 ゴロゴロと喉を鳴らした。


 外は、静かな夜だった。


 東京の空に、星が出ていた。


(明日か)


 じじいは、目を閉じた。


 ダービー。


 一生に一度しか出られないレース。


 人間たちは、みんなそう言うが、じじいにその価値は正しくは伝わっていなかった。


(まあ、仕事じゃ。まじめにやるとするかのう)


 前世の大聖者は、静かに眠りに落ちた。


 トラのゴロゴロという音だけが、厩舎に響いていた。


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