第28話 温度差
5月。
東京競馬場のある府中は、初夏の匂いがした。
じじいは、馬房の窓から外を見ていた。
風が、緑の葉を揺らしている。
(悪くない場所じゃな)
★
ダービーウィークに入って、美浦のトレセンが変わった。
空気が違う。
人間たちの顔が違う。
廊下を歩く関係者の目が、みんな鋭い。
言葉が少ない。
笑顔が少ない。
じじいは、その空気を感じながら思った。
(みんな、随分と張り詰めとるのう)
藁を食んだ。
特に何も変わらなかった。
★
古谷厩舎の事務スペース。
古谷が、一人でコース図を眺めていた。
東京芝2400メートル。
左回り。
長い直線。
指で、直線の長さをなぞった。
525メートル。
皐月賞の中山とは、全く別のレースになる。
カイザーの末脚が、最も活きるコースだ。
(二の足が出る前に、差し切る)
鷹騎手の言葉が、頭の中で繰り返された。
古谷は、紙にペンを走らせた。
じじいの二の足が出るのは、残り200メートルを切った頃だ。
ということは、鷹騎手は残り300メートルで勝負を決めにくる。
そのためには、3コーナーから動く。
カイザーにとってはリスクがある動きだ。
でも、鷹騎手はそれをやる。
「……厄介だな」
古谷は、独り言を言った。
誰もいない部屋に、声が消えた。
★
その頃。
栗東では、カイザーが最終追い切りをしていた。
鷹騎手が背中に乗り、坂路を一気に駆け上がる。
一本目。
二本目。
三本目。
タイムは、自己ベストを更新した。
鷹騎手が、カイザーから降りた。
調教師が、タイムを見て黙って頷いた。
「仕上がっています」
鷹騎手が、静かに言った。
「皐月賞より、確実に良くなっている」
「向こうも同じでしょうが」
調教師が、苦い顔をした。
「あの馬は、レースのたびに変わっている」
「ええ」
鷹騎手は、カイザーの首を撫でた。
「だから、今回は違う戦い方をします。3コーナーから動く」
調教師が、眉を動かした。
「リスクがある」
「あります」
「それでも?」
「直線で二の足を出させない」
鷹騎手の目は、静かだった。
「カイザーなら、できます」
カイザーは、鷹騎手の言葉を聞きながら、前を向いていた。
皐月賞のアタマ差が、ずっと頭にあった。
あの舌出しも。
カイザーの目に、炎が宿っていた。
★
一方、美浦。
じじいの最終追い切りの日。
朝靄の中、紗季がじじいに跨った。
手綱を握る。
坂路のスタート地点に、じじいが立った。
古谷が、ストップウォッチを構えた。
稲葉が、手帳を開いた。
「行け」
紗季が、手綱を緩めた。
じじいは、坂路を駆け上がった。
いつも通りだ。
派手なところは何もない。
ただ、力強く、淡々と、坂を登り切る。
古谷が、タイムを見た。
目を細めた。
「……仕上がった」
小さく、呟いた。
稲葉が、手帳にタイムを書き込んだ。
「先週より上がっています」
「ああ」
「当日は、さらに良くなる」
「そうだな」
二人は、坂を下りてくるじじいを見た。
息ひとつ乱れていない。
汗も、ほとんどかいていない。
「……本当に、底が見えない馬だ」
稲葉が、静かに言った。
古谷は、何も言わなかった。
ただ、頷いた。
★
追い切りを終えたじじいは、馬房に戻った。
佐々木が、バケツを持って待っていた。
「お疲れ、ワスレナグサ」
じじいは、バケツに顔を突っ込んだ。
ニンジンが入っていた。
甘い。
(ふむ、今日もよく走ったのう)
特に感慨はなかった。
仕事をした。
ニンジンが美味い。
それだけだった。
佐々木が、じじいの首筋をブラシで梳かしながら言った。
「ダービーだぞ」
「一生に一度しかないレースだ」
「分かってるか」
じじいは、ニンジンを噛み砕きながら佐々木を見た。
(やれやれ、また仕事じゃ)
「……全然分かってなさそうな顔だな」
佐々木が、苦笑した。
★
その日の夜。
じじいの馬房の前に、三人が集まった。
古谷、稲葉、紗季だ。
いつもの事務スペースではない。
紗季が「本人の前で話しましょう」と言い出したのだ。
通路に持ち出した小さな台の上に、東京のコース図が広げられる。
じじいは、格子越しに首を伸ばして、それを覗き込んだ。
「最終確認をする」
古谷が言った。
「カイザーは3コーナーから動いてくる。鷹さんが、そう決めたはずだ」
紗季が、コース図を見ながら頷いた。
「直線の入り口で、先に抜け出す作戦ですね」
「そうだ」
「二の足が出る前に、差し切る」
紗季が、ペンを持った。
「こちらは、二の足を出す前に、もう一段階ギアを上げる」
稲葉が、眉を動かした。
紗季の目が、静かに燃えていた。
「この馬なら、できるかもしれない」
古谷は、紗季を見た。
しばらく黙っていた。
それから、深く頷いた。
「……やってみろ」
三人の間に、静かな熱が漂った。
当のじじいは、コース図に鼻先を近づけていた。
紙の匂いを、ふんふんと嗅ぐ。
(ふむ。食えんな、これは)
それから、藁をもう一口食んだ。
(まあ、走れと言われれば走るのじゃがのう)
じじいは、今日も平然としていた。
紗季が、その鼻面を撫でて笑った。
「聞いてた? 頼んだからね」
★
ダービーの前日。
古谷厩舎に、一通のメッセージが届いた。
優芽の父親からだ。
「明日は優芽と、学校の友人たちと一緒に観戦に行きます。優芽が『絶対に勝つから見ていて』と言い張っています。どうぞよろしくお願いします」
古谷は、画面を見て小さく笑った。
稲葉も、小さく笑った。
「プレッシャーですね」
「そうだな」
★
夜が更けた。
厩舎が静かになった。
じじいは、藁の上で横になった。
トラが、前脚の間に入ってきた。
ゴロゴロと喉を鳴らした。
外は、静かな夜だった。
東京の空に、星が出ていた。
(明日か)
じじいは、目を閉じた。
ダービー。
一生に一度しか出られないレース。
人間たちは、みんなそう言うが、じじいにその価値は正しくは伝わっていなかった。
(まあ、仕事じゃ。まじめにやるとするかのう)
前世の大聖者は、静かに眠りに落ちた。
トラのゴロゴロという音だけが、厩舎に響いていた。




