第27話 真面目とのんびり
ダービーまで、一ヶ月を切った。
美浦の朝は、すっかり春になっていた。
じじいは、放牧地の隅で草を食んでいた。
いつもの定位置だ。
空が広い。
風が気持ちいい。
(ふむ、良い朝じゃ)
★
同じ頃。
栗東トレーニングセンターの坂路では、一頭の馬が限界まで追い込まれていた。
ロードカイザーだ。
鷹騎手が背中に乗り、坂路を駆け上がる。
一本目。
息が上がった。
それでも止まらない。
二本目。
脚に乳酸が溜まる。
それでも止まらない。
三本目。
鷹騎手が、手綱を緩めた。
「よし、今日はここまで」
カイザーは、肩で息をしていた。
全身に汗が滲んでいる。
鷹騎手が、カイザーの首を静かに叩いた。
「皐月賞は負けた」
「でも、お前はまだ強くなれる」
カイザーは、荒い呼吸の中で、鷹騎手の言葉を聞いていた。
悔しかった。
アタマ差。
たったアタマ差で、届かなかった。
しかも最後に舌を出された。
カイザーの目に、静かな炎が宿っていた。
★
一方、美浦。
じじいは、放牧地から戻ってきた。
馬房に入る。
藁がふかふかだ。
飼い葉が美味そうだ。
(ふむ、良い昼じゃ)
横になった。
目を閉じた。
五秒で眠った。
大イビキをかいた。
★
厩舎の通路では、佐々木が掃除をしていた。
箒を持って、黙々と床を掃く。
皐月賞から一週間。
じじいの調子は、相変わらず完璧だ。
疲れがない。
飼い葉をよく食べる。
毛艶がいい。
「お前、本当に化け物だな」
佐々木は、馬房の中でいびきをかくじじいを見て、苦笑した。
その時だった。
足元に、何かが擦り寄ってきた。
トラだ。
にゃあと鳴いた。
「なんだ、腹減ったか」
トラは、佐々木の足首に頭をこすりつけた。
それから、座って尻尾をゆらゆらと振った。
要求の目だ。
「ちゅーるか」
トラの耳が、ぴくりと動いた。
「ないぞ」
トラは、動かなかった。
「本当にないんだって」
動かなかった。
「……少し待ってろ」
佐々木は、箒を壁に立てかけた。
事務スペースへ歩いていき、ちゅーるを持って戻ってきた。
「あったぞ」
トラは、すっと前に座った。
「待て」
トラは、待った。
尻尾が、激しく揺れている。
「……よし」
佐々木が、ちゅーるを差し出した。
トラは、夢中でなめ始めた。
佐々木は、その様子を見ながら苦笑した。
「お前、ワスレナグサに似てきたな」
要求が明確で、遠慮がない。
待てと言えば待つが、諦めない。
「あいつの影響か」
★
その時、馬房の中からごそりと音がした。
じじいが、目を開けた。
首を起こした。
通路を見た。
トラがちゅーるを食べている。
佐々木が見守っている。
じじいは、その様子をじっと見た。
(……ちゅーるとやら、美味そうじゃな)
じじいは、格子に鼻先を近づけた。
佐々木が気づいた。
「お前は飼い葉があるだろ」
じじいは、鼻先を格子の外へ伸ばした。
ちゅーるの匂いがする。
甘い匂いだ。
(ほれ、一口だけじゃ)
「ダメだ」
じじいは、もう少し鼻先を伸ばした。
「馬にちゅーるはやらん」
じじいは、大きな瞳で佐々木を見た。
前世の大聖者の目だ。
訴えかける目だ。
「……ダメだ」
じじいは、動かなかった。
その横で、ちゅーるを食べ終えたトラが、すっと佐々木の前に座り直した。
じじいを見た。
佐々木を見た。
にゃあと鳴いた。
空になった袋と、佐々木の顔を、交互に見た。
おかわりの要求である。
「もうないぞ」
トラは、動かなかった。
尻尾が、ゆらゆら揺れている。
馬と猫、二対の要求の目が、佐々木を挟み撃ちにしていた。
「……お前ら」
佐々木は、深いため息をついた。
押しに弱い男である。
「トラだけだぞ」
事務スペースへ、また歩いていった。
じじいは、その背中を見送った。
(トラ、うまいことやるのう)
トラは、じじいを見た。
それから、格子に前脚をかけた。
自慢するような顔だった。
(ふぉっふぉっふぉ)
二本目のちゅーるをなめるトラを、じじいは羨ましそうに眺めていた。
(わしにもくれんかのう)
と思っていた。
★
日が暮れた。
栗東の洗い場で、カイザーは冷たい水を浴びていた。
三本の坂路で使い切った筋肉が、まだ熱を持っている。
脚が重い。
息も、まだ深い。
それでも、目だけは前を向いていた。
東京の、長い直線。
あの芦毛の背中。
次は、届かせる。
同じ夜。
美浦の馬房で、じじいは仰向けに近い格好で眠っていた。
腹の上に、ちゅーるで満腹のトラが乗っている。
大イビキと、ゴロゴロという喉の音が、重なって響いていた。
真面目な挑戦者と、のんびりな王者。
ダービーまで、あと一ヶ月。
二頭の夜は、どこまでも対照的だった。
★
その夜遅く。
古谷が事務スペースで、稲葉と話していた。
「明日からちゅーるの管理を厳重にするよう伝えておいた」
「正解だと思います」
二人は、それだけ言って、ダービーの話に戻った。
ダービーまで、あと少し。




