第26話 皐月賞反応
【北海道・古道牧場】
テレビの前に、五人が集まっていた。
牧場主の古道敏夫。
妻の春代。
息子。
従業員二人。
「アタマ差! アタマ差で勝った!」
息子が、椅子から飛び上がった。
敏夫は、動かなかった。
画面を、じっと見ていた。
芦毛の馬が、ゴール板を駆け抜けた瞬間。
「……勝ったな」
小さく、呟いた。
春代が、エプロンで目を押さえた。
「あの寝太郎がG1を勝ちよった」
敏夫は、立ち上がった。
棚の奥から、大事にしまっていた瓶を取り出した。
もらいもののウイスキーだ。
高いやつだ。
「飲むぞ」
「え、今日ですか」
「今日じゃなくていつ飲む」
従業員が、慌ててグラスを並べた。
息子が、スマートフォンを取り出した。
「社長、生産者賞、計算しますよ」
「後にしろ」
「でも——」
「後にしろ」
敏夫は、グラスに琥珀色の液体を注いだ。
画面の中では、芦毛の馬がロードカイザーに向かって舌を出している。
「……相変わらず、おかしいやつじゃ」
敏夫は、笑った。
グラスを、静かに掲げた。
「寝太郎」
「よくやった」
★
【古谷厩舎・美浦】
厩舎に残っていたスタッフたちが、テレビの前で固まっていた。
じじいに帯同しなかった、若い厩務員たちだ。
ゴールの瞬間、全員が同時に叫んだ。
「勝ったああああ!」
「アタマ差! アタマ差で勝った!」
「やべえ、鳥肌止まんね!」
誰かが泣いていた。
誰かが飛び跳ねていた。
厩舎の奥で、タキオンダッシュが驚いて鼻を鳴らした。
若い厩務員が、タキオンダッシュの首を叩いた。
「お前の同期がG1勝ったぞ!」
タキオンダッシュは、きょとんとした顔をした。
誰かがスマートフォンを取り出して、中山競馬場にいる佐々木に電話をかけた。
三回のコールで、繋がった。
「佐々木さん! 勝ちました!」
「……ああ」
電話の向こうで、佐々木の声が掠れていた。
「勝ったよ」
それだけ言って、電話が切れた。
★
【紗季視点】
ゴール板を過ぎた瞬間、紗季は前を向いたまま動けなかった。
手綱を握ったまま。
じじいの首に顔を埋めたまま。
しばらく、言葉が出なかった。
ホープフルの8着から、ずっと映像を見ていた。
鷹騎手の動きを、何十回と巻き戻した。
1角直後のコンマ数秒を、頭の中で繰り返した。
それが、今日、全部繋がった。
(勝てた)
じじいの首筋が、温かかった。
呼吸が、全く乱れていない。
この馬は、いつも平然としている。
どれだけ激しいレースをしても、終わった後はのんびりしている。
それが、紗季には不思議でならなかった。
でも今日は、その不思議さが、ただ嬉しかった。
「……ありがとう」
じじいに、小さく言った。
じじいは、耳をぴくりと動かした。
それだけだった。
★
【競馬掲示板・某スレッド】
『皐月賞実況スレ』
>アタマ差キタアアアアア
>ワスレナグサ強すぎだろ
>鷹騎手が来てるのにアタマ差で粘るってなんだよ
>最後の直線、一回並ばれてからもう一回伸びたよな?あれ何?
>二の足ってやつ?
>そう、二の足。弥生賞もそれで突き放したじゃん
>完全に必殺技じゃん二の足
>ワスレナグサの二の足を誰も止められない件
>てかゴール後の舌出しなんだよwww
>見たwwwカイザーに向かってベロ出してたwww
>絶対やってるよなこれ意図的に
>天才か
>いや馬なんだよなあ
>馬なのにG1勝ってカイザーに煽るとか人格あるだろ
>つかカイザーの鼻差負け悔しすぎる
>鼻差じゃなくてアタマ差な
>どっちでもいいわ悔しいもんは悔しい
>鷹騎手の騎乗完璧だったのにな
>ワスレナグサが化け物すぎるだけ
>二の足に名前つけろよもう
>「じじいの二の足」でいいじゃん
>草
>でもなんか合ってるな雰囲気的に
>ワスレナグサのあの落ち着き方、確かにじじいっぽい
>ダービーどうなるんだこれ
>また当たるんだろ
>楽しみすぎる
★
【ロードカイザー陣営】
検量室から少し離れた場所に、鷹騎手とマネージャーが立っていた。
マネージャーが、小さく舌打ちをした。
「アタマ差……信じられない」
「完璧なペース配分でした。完璧な仕掛けどころでした」
「それでも届かなかった」
鷹騎手は、何も言わなかった。
手元のタブレットに、レース映像を映した。
最後の直線を、巻き戻す。
じじいが並ばれた瞬間。
そこから、もう一度伸びる場面。
もう一度巻き戻す。
また、もう一度伸びる場面。
「……二の足ですね」
マネージャーが、静かに言った。
「ホープフルの時はなかった。弥生賞で初めて見た。今日はさらに鋭くなっていた」
鷹騎手は、タブレットを閉じた。
「成長している」
静かに、言った。
「レースのたびに、あの馬は変わっている」
マネージャーが、眉を動かした。
「対策は?」
鷹騎手は、しばらく黙っていた。
脳裏に、直線の感触が蘇る。
止まるはずの逃げ馬が、止まらなかった。
数千のレースで積んだ経験則が、初めて外れた。
「二の足が出る前に、勝負を決める」
「リスクがあります」
「ある」
「それでも?」
「ダービーは東京だ」
鷹騎手は、コースの方を見た。
「直線が長い。カイザーの末脚が活きる」
「二の足が出る前に、差し切る」
マネージャーが、手帳にメモをした。
「ワスレナグサの二の足を、出させない作戦ですね」
鷹騎手は、遠くのゴール板を見た。
じじいが、ロードカイザーに向かって舌を出した瞬間が、脳裏に浮かんだ。
口元が、わずかに歪んだ。
「……面白い馬だ」
小さく、呟いた。
★
その頃、じじいは検量室の前でニンジンを食べていた。
佐々木が、涙目で手のひらに乗せてくれたやつだ。
甘い。
G1を勝った。
ロードカイザーを煽った。
ニンジンが美味い。
(ふぉっふぉっふぉ)
じじいには、それで十分だった。
(やれやれ、また仕事じゃ)
春の中山競馬場に、歓声がまだ響いていた。




