第25話 皐月賞
皐月賞まで、二週間を切った。
美浦の朝は、少しだけ暖かくなっていた。
じじいは、坂路を駆け上がりながら思った。
(春になったのう)
レースへの緊張など、一ミリもない。
まじめにやるだけだ。
★
調教を終えて、厩舎へ戻る途中。
聞き覚えのある怒声が、遠くから聞こえた。
陣内翔の声だ。
「おかしいだろ! なんで俺に皐月賞の乗り馬がないんだよ!」
電話口で、誰かに怒鳴っている。
「弥生賞で結果出したのに! あれは俺がペース作ったから勝てたんだよ!」
(また始まったのう)
じじいは、横目で陣内を見ながら通り過ぎた。
陣内は電話に夢中で気づかない。
「鷹さんはカイザーに乗れてずるいだろ! 俺だって……」
声が、遠ざかった。
(若いのう)
じじいは、馬房へ向かって歩いた。
★
その翌日。
古谷厩舎に、一人の男が来た。
鷹騎手だった。
今日は乗り役としてではない。
視察だ。
古谷が出迎えた。
「鷹さん、わざわざ」
「近くに来たついでです」
鷹騎手は、短く答えた。
じじいの馬房の前に、静かに立った。
じじいは、乾草を食みながら鷹騎手を見た。
鷹騎手も、じじいを見た。
無言だった。
じじいは、乾草をもう一口食んだ。
(やれやれ、仕事が増えるのう)
鷹騎手は、しばらく無言でじじいを見ていた。
それから、背後に立つ紗季に目を向けた。
紗季は、鷹騎手の視線を正面から受けた。
逃げなかった。
鷹騎手が、小さく笑った。
「弥生賞、見ていましたよ。1角直後の動き、良かった」
紗季は、静かに頷いた。
「皐月賞では、そうはいきませんが」
「こちらも、そのつもりです」
二人の間に、静かな火花が散った。
じじいは、その様子を眺めながら、藁をもう一口食んだ。
★
皐月賞の週。
古谷に、一通のメッセージが届いた。
優芽の父親からだ。
「当日、優芽が学校の友人を連れて観戦に行きたいと申しております。よろしいでしょうか」
古谷は、稲葉に画面を見せた。
稲葉が、少しだけ目を細めた。
「友達、できたんですね」
「ああ」
古谷は、短く返信した。
「もちろんです。特等席を用意します」
★
皐月賞当日。
4月の中山競馬場は、春の陽光に満ちていた。
パドックに、馬たちが集まってくる。
じじいは、いつものようにトボトボと歩いた。
(暖かいのう)
それだけだった。
観客席の方から、声がした。
「ワスレナグサー!」
優芽の声だ。
隣に、見慣れない小さな影がある。
同じ年頃の、元気そうな女の子だ。
初めて生で見る競走馬に、目を丸くしている。
優芽が何か言うたび、その子は「ええーっ」と大げさにのけぞった。
二人で、並んで手を振っている。
じじいは、その方向にちらりと目を向けた。
(お嬢ちゃん、友達ができたのか)
楽しそうな二人に、ヘドバンをかましておいた。
「「きゃーーっ!」」
パドックの反対側では、陣内翔が柵の外に立っていた。
乗り馬がないので、観客として来ているらしい。
腕を組んで、不機嫌そうにじじいを見ている。
「……チッ」
舌打ちが聞こえた。
★
返し馬を終えて、ゲート前へ向かう。
背中に、紗季がいる。
手綱の感触が、弥生賞の時とまた違う。
弥生賞は、研ぎ澄まされた緊張だった。
今日は、もっと静かだ。
覚悟が決まった人間の、静けさだ。
(良い手綱じゃ)
ゲートに収まる。
向こうに、ロードカイザーが見えた。
背中に鷹騎手。
ロードカイザーが、こちらを見た。
目が合った。
ロードカイザーは、いつもの挑発的な目だ。
(また煽ってくるのかのう)
じじいは、前を向いた。
ガシャン。
ゲートが開いた。
★
スタート、完璧だった。
じじいは、躊躇なく先頭へ向かった。
今日は大逃げだ。
紗季が、手綱を緩める。
じじいは、加速した。
後続を、一気に引き離す。
向こう正面に入った頃には、2番手との差は10馬身を超えていた。
後ろから、馬群の気配が追いかけてくる。
その中に、鷹騎手の気配がある。
焦っていない。
計算している。
(今日は追いかけてくるのじゃな)
じじいは、自分のペースを刻んだ。
3コーナーへ。
後続が、少しずつ差を詰めてくる。
鷹騎手が、動き始めた。
カイザーが、外から上がってくる。
4コーナー。
差が、5馬身になった。
3馬身になった。
最後の直線。
「ワスレナグサ、まだ先頭!」
実況の声が響く。
「外からロードカイザー、猛然と来る!」
カイザーの末脚が、炸裂した。
一完歩ごとに、差が縮まる。
2馬身。
1馬身。
半馬身。
鞍上の鷹は、冷静に計算を終えていた。
(捉えた)
残り200を過ぎて、この脚色の差。
逃げ馬は、ここから必ず止まる。
数千のレースで検証してきた、揺るがない経験則だった。
(来おったな)
じじいは、魔力を練った。
(——ヒール)
温かい光が、全身を巡った。
脚が、軽くなった。
止まるはずの逃げ馬が、止まらない。
(——止まらない?)
鷹の計算に、生まれて初めての誤差が生じた。
差が、縮まらなくなった。
いや、違う。
前の芦毛が、もう一度伸びている。
(この脚は、なんだ)
だが、カイザーの末脚も止まらない。
クビ差。
アタマ差。
並んだ。
スタンドが、総立ちになった。
「ワスレナグサとロードカイザー、並んだ!」
残り100メートル。
残り50メートル。
じじいは、最後の一絞りを出した。
ゴール板。
アタマ差。
じじいが、先に駆け抜けた。
★
場内が、爆発した。
「ワスレナグサ、皐月賞制覇!」
「ロードカイザー、クビ……いや、アタマ差及ばず!」
じじいは、ゴール板を過ぎた後、ゆっくりと走路を流した。
隣に、ロードカイザーが並んだ。
鷹騎手が、静かに前を向いている。
ロードカイザーが、悔しそうにじじいを睨んだ。
じじいは、ロードカイザーを見た。
(負けたのう、若造)
首をゆっくりと、ロードカイザーの方へ向けた。
それから、限界まで舌を出した。
ベロリ。
ロードカイザーが、目を剥いた。
じじいは、何事もなかったように前を向いた。
(ふぉっふぉっふぉ)
勝った時は、やってやるのだ。
★
検量室の前。
古谷が待っていた。
紗季が戻ってくると、古谷は何も言わなかった。
ただ、深く頷いた。
紗季も、何も言わなかった。
ただ、深く頷いた。
二人の間に、長い言葉は要らなかった。
鷹騎手が、カイザーから降りて歩いてきた。
紗季の前で、立ち止まった。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
二人は、短くそれだけ言った。
握手をした。
じじいは、その様子を眺めていた。
柵の外に、陣内翔が立っていた。
腕を組んで、仏頂面で見ている。
「……チッ」
また舌打ちが聞こえた。
(まあ、元気でいなさい若者よ)
じじいは、陣内に背を向けた。
観客席の方から、優芽の声がした。
「ワスレナグサ、すごかったね!」
隣の友達が、何か言っている。
じじいには聞こえなかったが、優芽が嬉しそうに笑っているのは分かった。
(ふぉっふぉっふぉ)
じじいは、満足した。
★
その夜。
馬房に戻ると、飼い葉が待っていた。
ニンジンが、いつもより多く入っていた。
佐々木の気遣いだろう。
じじいは、ハミハミと食べた。
甘い。
外から、古谷と稲葉の声が聞こえた。
「次はダービーだ」
「東京の長い直線」
「カイザーとまた当たる」
じじいは、その会話を聞きながら目を閉じた。
(ダービーか。やれやれ、また仕事じゃ)
春の夜が、静かに厩舎を包んでいた。
前世の大聖者は、今日も満足げに眠りに落ちた。




