第24話 弥生賞
弥生賞の前日。
古谷厩舎の事務スペースに、三人が集まった。
古谷、稲葉、紗季だ。
テーブルの上に、中山競馬場のコース図が広げてある。
「最終確認をする」
古谷が、コース図を指でなぞった。
「スタートから1角まで、ここでポジションを取る」
「その直後です」
紗季が、ペンでコース図の一点を押さえた。
「鷹さんが動く前の、コンマ数秒。ここで外へ持ち出す」
稲葉が、腕を組んで頷く。
「ホープフルの時は、その一瞬を先回りされた。今回は先に動く。カイザーは出走してこないから、鷹さんはいない」
古谷が、静かに言った。
「向こうが弥生賞を避けた理由は分からんが、こちらにとっては、動きやすい」
三人の間に、静かな緊張が漂った。
「あとは」
古谷が、ペンを置いた。
「この馬を信じるだけだ」
★
じじいは、馬房でその会話を聞いていた。
(ふむ、コンマ数秒じゃの……内走ればいいだけでは……)
藁を咀嚼しながら、ぼんやりと思った。
人間が必死に考えた作戦と、じじいの感想は、いつもどこかズレている。
だが、紗季が本気なのは分かる。
古谷が本気なのも分かる。
(まあ、任せるとするかのう)
トラが、じじいの前脚の間で丸くなった。
じじいは、目を細めた。
★
翌朝。
弥生賞の当日だ。
3月の中山競馬場は、まだ空気が冷たい。
パドックに、馬たちが集まってきた。
じじいは、いつものようにトボトボと周回した。
緊張感は、一ミリもない。
(寒いのう)
パドックの外周に、人が集まっている。
じじいの姿を見て、ざわめきが起きた。
ホープフルを8着で負けた後でも、単勝1番人気だ。
ファンの声援が、柵の向こうから飛んでくる。
「ワスレナグサ、頑張れ!」
「大逃げ見せてくれ!」
(うむ、期待に応えるとしようかのう)
じじいは、耳をぴくりと動かした。
その時、聞き覚えのある声がした。
「紗季さん、頑張ってください」
陣内翔だ。
騎乗服を着ている。
今日、別の馬で出走してくるのだ。
紗季は、チラリと陣内を見た。
「……ありがとう」
短く答えた。
陣内は、ニヤリと笑った。
「まあ、今日こそ俺が前を掃除してあげますよ。ワスレナグサの邪魔にならないように気をつけてくださいね」
紗季は、何も言わなかった。
じじいは、陣内が言い寄っていて、紗季は嫌がっているな、と確信した。
(むふー、いいのう。わしもあと30年若ければ、全然いけるんじゃが)
と、3歳芦毛の牡馬は思っていた。
★
同じ時刻。
中山競馬場から少し離れた場所に、一台の車が停まっていた。
車の中に、鷹騎手がいた。
手元のタブレットで、弥生賞の出走表を見ている。
助手席に、カイザー陣営のマネージャーが座っていた。
「鷹さん、今日の弥生賞、ワスレナグサが出ますね」
「ああ」
鷹騎手は、静かに答えた。
「カイザーを弥生賞に使わなかったのは、正解でしたかね」
マネージャーが、探るような目で聞いた。
鷹騎手は、しばらく黙っていた。
「あの馬は」
ゆっくりと口を開いた。
「まだ底が見えない。ホープフルで封じても、それで終わりじゃなかった。あの走りは、まだ本気じゃなかった」
マネージャーが、眉を動かした。
「では、なぜ今日は」
「カイザーのために、最善のレースを選ぶ」
鷹騎手は、タブレットを閉じた。
「今の時期に無理にぶつける必要はない。ワスレナグサとやり合うのは、皐月賞で十分だ」
窓の外で、春の風が吹いた。
鷹騎手は、静かに目を細めた。
「……楽しみにしてるよ」
誰に言うでもなく、呟いた。
★
第10レース。
弥生賞、発走15分前。
じじいは、返し馬を終えてゲート前に向かっていた。
背中に、紗季がいる。
手綱の感触が、いつもと少し違う。
力みではない。
静かな、しかし研ぎ澄まされた緊張だ。
(良い手綱じゃ)
じじいは、そう感じた。
ゲートに、馬たちが収まっていく。
じじいは7番ゲートだ。
隣に、陣内の馬が入ってくる。
陣内が、横目でじじいを見た。
(今日こそ先頭を取ってやる)
そんな気配が、びりびりと伝わってくる。
(若いのう)
じじいは、前を向いた。
ガシャン。
ゲートが開いた。
★
スタート、完璧だった。
じじいは、一歩目で他馬より半馬身出た。
だが、陣内が来た。
外から猛烈な勢いで、ハナを奪いにくる。
ホープフルの時と同じだ。
紗季は、迷わなかった。
陣内を行かせた。
1角に入る。
馬群が、コーナーを回り始める。
ここだ。
紗季の体重が、わずかに前へ移動した。
右手の手綱が、ほんの少しだけ緩む。
じじいは、その合図を感じた瞬間に動いた。
外へ。
鷹騎手がいない。
フタがない。
空間が、そこに開いていた。
1角を抜けた直後、じじいはすでに外側の好位置にいた。
後ろから来る馬たちが、驚いたように反応した。
いつもと違う。
ホープフルの時のじじいじゃない。
「行きますよ!」
紗季が、短く声をかけた。
じじいは、加速した。
★
向こう正面。
陣内の馬が、先頭でペースを落とし始めた。
ホープフルの時の再現だ。
スローに持ち込もうとしている。
だが、今日は違う。
じじいが、自分から動いた。
外側から、陣内の馬に並びかける。
(今日はそうはいかんぞ、若者よ)
陣内が、気づいて慌てた。
ペースを上げる。
じじいは、さらに上げた。
1000メートル通過タイム、58秒台。
ホープフルの63秒5とは、別のレースだ。
陣内の馬が、3コーナーで苦しくなってきた。
無理なペースが、脚に来ている。
(ほれ、無理をするからじゃ)
じじいは、悠々と先頭に立った。
★
4コーナーを回る。
後ろから、馬群がついてくる。
2着を争う馬たちが、じりじりと差を詰めてくる。
紗季の手綱が、緩まない。
リズムを崩さない。
(よし、行くぞい)
じじいは、魔力を練った。
(——ヒール)
全身に、温かい光が巡った。
脚が、軽くなった。
呼吸が、リセットされた。
スタートしたばかりの体に戻った。
最後の直線。
じじいは、加速した。
後続が迫る。
2馬身。
3馬身。
差が、開いていく。
「ワスレナグサ、先頭!」
実況の声が響いた。
「そのまま、そのまま!」
残り200メートル。
2着馬が、必死に追ってくる。
だが、じじいの脚は止まらない。
疲れていないのだから、当然だ。
残り100メートル。
残り50メートル。
ゴール板を、じじいが駆け抜けた。
3馬身半差。
完勝だった。
★
スタンドから、大歓声が上がった。
紗季は、ゴール板を過ぎた後も、しばらく前を向いていた。
それから、じじいの首に顔を埋めた。
声を上げて、泣いた。
じじいは、紗季の体重を背中で受けながら、ゆっくりと走路を歩いた。
(よく走ったのう、若者よ)
魔法は、使わなかった。
紗季には、この感情のまま泣かせてやりたかった。
★
検量室の前。
古谷が待っていた。
紗季が戻ってくると、古谷は深く頭を下げた。
「ありがとう」
それだけ言った。
紗季は、首を振った。
「この馬が走ってくれました」
じじいは、二人の様子を見ていた。
(ふぉっふぉっふぉ)
満足だった。
その時、後方から足音がした。
陣内翔だ。
ずっと後ろの着順でゴールしてきたのだろう。
顔が、般若のように歪んでいる。
陣内は、じじいの前で立ち止まった。
「……お前、今日は動き方が違ったな」
じじいは、陣内を見た。
「俺が1角でペースを作ってやったおかげだろ」
(……そうか、そういう解釈か)
じじいは、感心した。
この男の思考回路は、ぶっ飛んでいる。
じじいは、陣内に背を向けた。
陣内が、何か言い続けている。
聞こえなかった。
(恋は人を狂わせるのう)
もちろん、勘違いである。
★
その夜。
厩舎に戻ってきたじじいは、馬房に入った。
トラが待っていた。
(ただいまじゃ)
じじいは、藁の上に腰を下ろした。
外から、古谷と稲葉の声が聞こえる。
「次は皐月賞だ」
「鷹さんが来る」
「今度は同じ舞台で、正面からぶつかる」
じじいは、その会話を聞きながら目を閉じた。
(皐月賞か……ふむ)
トラが、じじいの前脚の間に入ってきた。
ゴロゴロと喉を鳴らした。
じじいは、トラの背中に静かに息を吹きかけた。
(——ヒール)
春の夜が、厩舎を包んでいた。
前世の大聖者は、今日も満足げに目を閉じた。




