第23話 弥生賞に向けて
年が明けて、最初の週。
美浦トレーニングセンターに、静かな変化が起きていた。
古谷厩舎の事務スペースに、一枚の紙が貼り出された。
手書きの文字で、こう書いてあった。
「厩舎猫・トラ、本日より正式採用」
佐々木が、その紙を指さして笑った。
「先生、ついに認めましたね」
「うるさい」
古谷が、照れ臭そうに顔を背けた。
きっかけは、稲葉の一言だった。
「先生、あの猫がいると、馬たちが妙に落ち着くんですよ」
「気のせいだろ」
「でも、ここ最近、夜中に暴れる馬が一頭もいないんです」
古谷は、しばらく考えた。
それから、渋い顔のまま頷いた。
「……まあ、邪魔にはなっていないからな」
そういう経緯だった。
じじいは、馬房の格子越しにその紙を眺めた。
足元で、トラがゴロゴロと喉を鳴らしている。
じじいは、トラの背中に静かに息を吹きかけた。
トラは、目を細めてさらに喉を鳴らした。
★
その翌朝。
古谷に、一通のメッセージが届いた。
馬主の優芽の父親からだ。
古谷は、画面を見て目を細めた。
「稲葉、ちょっと来い」
稲葉が、手帳を持って駆け寄る。
「どうしましたか」
古谷は、スマートフォンの画面を稲葉に向けた。
そこには、こう書いてあった。
「優芽が来週から学校に通い始めます。先生方も驚いていますが、検査数値が信じられないほど改善していて、主治医も許可を出しました。ワスレナグサのおかげだと本人は言い張っています。取り急ぎご報告まで」
稲葉は、画面を読んで、しばらく黙った。
「……本当ですか」
「ああ」
古谷の声が、少しだけ掠れた。
「成人できれば奇跡、と言われてた子が……学校に行くそうだ」
稲葉は、手帳を胸に抱えたまま、天井を見上げた。
目が、少し光っていた。
「良かった」
それだけ言った。
じじいは、馬房の格子から二人の様子を見ていた。
(よかったのう、お嬢ちゃん。……ぐすん)
じじいの目尻が、少しだけ濡れた。
歳のせいである。
★
同じ頃。
トレセンの外れにある、別の厩舎の前で、陣内翔が腕を組んでいた。
「……ロードカイザー陣営か」
陣内は、鷹騎手の騎乗馬が増えすぎて手が回らなくなっているという噂を聞いていた。
「補欠騎手を探してるって話、本当だよな」
陣内は、鷹騎手の所属する事務所へ電話をかけた。
三回のコールの後、事務員が出た。
「はい、鷹騎手事務所です」
「あの、陣内翔と申しますが、ロードカイザーの件で——」
「少々お待ちください」
保留音が流れた。
一分待った。
二分待った。
五分待った。
「お待たせしました。ただいま担当者が不在で——」
「折り返しお電話いただけますか」
「承りました」
電話が切れた。
折り返しは来なかった。
★
翌日、陣内は直接事務所へ出向いた。
受付の女性が、困った顔をした。
「担当者は今、外出中で……」
「いつ戻りますか」
「少々お待ちください」
奥へ引っ込んだ。
戻ってきた時、受付の女性の顔がより困っていた。
「あの、鷹騎手のスケジュールは現在すべて埋まっておりまして……」
「ロードカイザーじゃなくていいんです。別の馬でも——」
「大変申し訳ないのですが」
丁寧に、しかし完全に、断られた。
陣内は、事務所の外に出た。
冬の風が、頬を刺した。
(鷹のロートル、調子に乗りやがって)
腹の中で毒づきながら、陣内はトレセンへ戻った。
そして気がつけば、古谷厩舎の前に立っていた。
足が、勝手に向いていた。
「よう」
じじいの馬房の前で、陣内は声をかけた。
じじいは、藁を咀嚼しながら陣内を見た。
「やっぱりお前が一番しっくりくるな」
陣内が、格子に手をかけた。
「なあ、ホープフルの8着、あれ紗季のせいだよな。俺が乗ってたら絶対違った」
(ふむ)
じじいは、陣内の顔を眺めた。
「俺、また古谷先生に頼んでみようかな」
(若いのう)
じじいは、知らんぷりで藁を食んだ。
★
弥生賞まで、三週間を切った頃。
古谷厩舎の朝の追い切りに、見慣れない人影があった。
柵の外に、一人の男が立っていた。
静かに、腕を組んで、じじいの走りを見ている。
鷹騎手だった。
紗季が、じじいの背中でそれに気づいた。
手綱を握る指に、わずかに力がこもった。
じじいも、視界の端で鷹騎手を捉えていた。
(ほう、偵察かの。……相変わらず、ええ目をしておる。獲物を測る、狩人の目じゃ)
じじいは、いつも通りの走りをした。
派手な魔法は使わない。
自分の地力だけで、坂路を駆け上がる。
それだけで、ストップウォッチを握る古谷が満足できる時計が出た。
鷹騎手は、最後まで無言だった。
走り終えたじじいが、柵の前を通り過ぎる時。
鷹騎手が、静かに目を細めた。
それから、小さく笑った。
欲しい答えは、持ち帰ったらしい。
踵を返して、去っていった。
紗季は、その背中を目で追いながら、手綱を握り直した。
「……次は、逃がさない」
じじいは、紗季の決意を背中で感じた。
(気合入ってるのう)
★
その夜。
古谷厩舎の事務スペースに、明かりがついていた。
紗季が、一人でいた。
タブレットの画面に、ホープフルステークスの映像が映っている。
2角、鷹騎手がじじいの外側に寄せてくる場面。
紗季は、その場面を何度も巻き戻した。
一度。
二度。
十度。
(この動き、ここから始まっていた)
紗季は、手元のノートにペンを走らせた。
鷹騎手が外からフタをしてくる動きのタイミング。
その一瞬前に、自分がどこへ動けるか。
内側のスペース。
外側のスペース。
あの2角で、どこに隙があったか。
「……ここだ」
紗季が、ノートの一点を指で押さえた。
1角を回った直後、鷹騎手がポジションを取る前の、ほんの一瞬のコンマ数秒。
そこだけ、スペースが生まれていた。
「次はそこを突く」
じじいは、馬房の格子越しに、明かりのついた事務スペースを見ていた。
紗季のシルエットが、画面に向かってじっとしている。
(遅くまで頑張っておるのう——ヒール)
じじいは、事務スペースの方向へ、静かに魔力を流した。
肩の凝りが少し楽になればいい。
その程度の、小さなおせっかいだ。
しばらくして、紗季が大きく伸びをするのが見えた。
紗季が、不思議そうに自分の肩を回した。
じじいは、そっと格子から首を引っ込めた。
★
弥生賞まで、あと二週間。
じじいは、今日も美浦の朝を、のんびりと過ごした。
じじいは、藁の上に腰を下ろした。
レースが近づいている。
冬の陽光が、馬房の窓から差し込んでいた。
トラが、じじいの前脚の間に顔を埋めた。
じじいは、目を細めた。
平和な、良い午後だった。




