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前世ヒーラーのじじい馬、隠居したいのに長距離レースで無双する 〜こっそり全員癒やしてたら、伝説のステイヤーになってました〜  作者: 猫の造形美


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第22話 まどろみの中で


 地下馬道を抜けた。


 冬の夕暮れが、厩舎の屋根を染めている。


 じじいは、トボトボと歩いた。


 いつもと同じ歩幅で、いつもと同じ速さで。


 特に、落ち込んでもいなかった。


 前世では、もっとひどい敗北を何度も経験した。


 レース一つの負けなど、誤差のようなものだ。


 佐々木が待っていた。


 顔色が悪い。目が少し赤い。


「……お疲れ」


 声が、かすかに震えていた。


(ふむ。泣いとるのか、若者よ)


 じじいは、佐々木に手綱を引かれながら、鼻先をそっと彼の肩に押し当てた。


 佐々木は、しばらく動かなかった。


 それから、静かに笑った。


「……お前、全然悔しそうじゃないな」


 そのとおりである。


 じじいの足元で、にゃあと声がした。


 トラだ。


 どこから来たのか、いつの間にかすぐそばにいた。


 佐々木が驚いて目を丸くする。


 トラは気にせず、じじいの前脚に体をこすりつけた。


       ★


 厩舎に戻ると、古谷がいた。


 腕を組んで、馬房の前に立っていた。


 じじいを見ると、頭をガリガリと掻いた。


 それだけだった。


 何も言わなかった。


 じじいは、古谷の前を通り過ぎながら、ふっと息を吹きかけた。


(胃が荒れとるぞ)


(──ヒール)


 古谷は、少しだけ肩の力が抜けたような顔をした。


「……飼い葉、たっぷりやってくれ」


 佐々木に向かって、それだけ言った。


       ★


 紗季が来たのは、夜になってからだった。


 検量を終え、着替えを済ませた後だろう。


 騎乗服ではなく、普段着だった。


 馬房の前に立って、じじいを見た。


 じじいも、紗季を見た。


「……ごめん」


 小さな声だった。


 あのレース。紗季が動こうとする一瞬前に、すべてを先回りされていた。


 打てる手は、何一つなかった。


 それでも、彼女は謝りに来たのだ。


 じじいは、鼻先を格子に向けた。


 そして、紗季の手に鼻先を押し当てた。


 紗季は、しばらくそのままでいた。


 目を閉じて、じじいの温かさを感じていた。


 それから、静かに言った。


「次は、勝つ」


 じじいは、耳をぴくりと動かした。


 足元で、トラがにゃあと鳴いた。


 紗季が、猫を見て少し笑った。


「この子、いつもいるね」


       ★


 夜遅く、古谷と稲葉と紗季の三人が、事務スペースに集まった。


 スマートフォンの画面に、レース映像が映っている。


 何度目かの巻き戻し再生だ。


「2角で、もう詰んでた」


 稲葉が、低い声で言った。


「鷹さんは最初から決めてきた」


 古谷が腕を組む。


「うちの馬のことを、一番よく知ってるのは鷹さんだ」


「だからこそ、一番怖がってる」


 紗季が続けた。


 三人の意見が、静かに重なった。


「次も、同じことをしてくる」


 古谷が断言した。


「する。確実に」


「ならば」


 紗季が、手元の紙にペンを走らせた。


「向こうがこっちをマークするなら、その動きを逆手に取る」


「外からフタをしてくるなら、最初からそこを空けておく」


「インを突く?」


 稲葉が眉を動かす。


「もしくは、ペースを最初から支配する」


 紗季の声は、静かだったが揺るがなかった。


「大逃げを打って、向こうを追いかけさせる」


「スローにするかハイにするか、こっちが決める」


「スローにさせない」


 古谷が、深く頷いた。


「今日の負けで、鷹さんの手の内は全部見えた」


 稲葉が、少しだけ表情を緩める。


「高い授業料でしたが」


「ああ」


 古谷が、静かに笑った。


「だが、返せる」


 三人の視線が、馬房の方へ向いた。


 じじいは、藁を咀嚼しながらトラの背中に顎を乗せていた。


 完全に脱力した顔で、目を細めている。


「……次の舞台、弥生賞でいこう」


 古谷が言った。


「中山2000。内回りコース。今日と同じ舞台だ」


「今日と同じ舞台で、今日と違う競馬をする」


「リベンジの舞台として、これ以上ない」


 稲葉が手帳を開く。


「年が明けて、まずは体を立て直す期間を作る」


「騎手は紗季で行く」


 古谷の言葉に、紗季が顔を上げた。


「今日の騎乗は、何も間違っていなかった。鷹さんが完璧すぎただけだ」


 紗季は、一度目を閉じた。


 それから、短く頷いた。


「はい」


(うーん、内走らねばいいだけでは……)


 じじいは、考えるのを止めて、つまらなそうに眼を閉じた。


       ★


 三人が帰った後。


 厩舎は静かになった。


 じじいは、目を閉じた。


 トラが、温かい重みで前脚のそばに丸くなった。


(まあ、ええか)


 次がある。


 前世でも、失敗した後に立て直した夜が何度もあった。


(さて、弥生賞とやらか)


 じじいは、深く息を吐いた。


 トラのゴロゴロという音が、静かな厩舎に響いていた。


       ★


 年が明けた。


 美浦トレーニングセンターの朝は、相変わらず早い。


 じじいは、馬房の隅で目を覚ました。


 藁の上に、トラが丸くなっている。


(ふむ、今日も寒いのう)


 じじいは、大きく伸びをした。


 前脚を伸ばし、後脚を伸ばし、首をぐるりと回す。


 朝の引き運動の時間。


 佐々木に引かれて、厩舎の通路を歩く。


 じじいは、キョロキョロと周囲を観察した。


 通路の端に、一羽のスズメがいた。


 翼を少し痛めているのか、飛び立てずにぴょこぴょこしている。


 じじいは、さりげなく近づいた。


 スズメに鼻先をそっと向ける。


(ほれ、小さいの。——ヒール)


 スズメは、ぱっと翼を広げた。


 そのまま、勢いよく飛んでいった。


(うむ、完璧じゃ)


「なんだ、スズメが気になったのか」


 佐々木が、呑気に笑った。


 調教コースへ向かう途中。


 向こうから、別の厩舎の馬が歩いてきた。


 栗毛の牡馬だ。


 右の後脚を、ほんのわずかに庇っている。


 人間には気づかない程度だ。


 だが、じじいの目は誤魔化せない。


(腱が怪しいのう。放っておくと、面倒なことになるぞ)


 じじいは、すれ違いざまに肩を寄せた。


 鼻先を一瞬だけ、相手の脚に向ける。


(——ヒール)


 栗毛の馬は、きょとんとした顔をした。


 じじいは、知らんぷりで歩き続けた。


 佐々木は、馬同士の接触に焦っていた。


       ★


 調教が終わり、厩舎へ戻ってきた。


 古谷が待っていた。


 手元のタブレットに目を落としながら、稲葉と何かを話している。


 じじいは、二人の横を通り過ぎながら、ふっと息を吹きかけた。


 古谷の肩に、稲葉の首筋に。


(——ヒール、ヒール)


「あれ、急に肩が軽い」


 稲葉が、不思議そうに首を回した。


 じじいは、満足げに馬房へ入った。


       ★


 昼過ぎ。


 じじいは、馬房でのんびりしていた。


 トラが隣で丸くなっている。


 そこへ、聞き覚えのある足音がした。


 陣内だ。


 検量室の方向から歩いてきた。


 別の厩舎の馬に乗った帰りだろう。


 陣内は、じじいの馬房の前で足を止めた。


「よう」


 馴れ馴れしい声だった。


「お前、ホープフルは8着だったな」


 じじいは、藁を咀嚼しながら陣内を見た。


「あの騎手じゃ、仕方ないよな」


 陣内は、腕を組んでニヤリと笑った。


「俺が乗ってたら、あのレース勝ってた。新馬戦、レコードだったし」


 陣内は鼻で笑う。


(……ふむ)


 静かに陣内を観察した。


 前世でも、こういう人間はいた。


 自分の評価が著しく高い人間だ。


 こういう男が、のちのちうまくいくことも稀にあるのが、人生の面白いところだと思っているが。


(この手の輩は、苦手だのう)


 だが、気になることがあった。


(落馬でもしたのか、打撲じゃな……うーん、どうしようかの。こやつでなければ治してやるんじゃが……まっ、若いし大丈夫じゃ、勝手に治るの)


 じじいは、陣内に背を向けた。


 このじじい、好き嫌いで行動する悪癖がある。


 人間味があるじじいなのだ。


       ★


 夕方。


 飼い葉の時間だ。


 佐々木がバケツを持ってきた。


「今日も元気そうだな」


 バケツに顔を突っ込んだ。


 ニンジンが入っていた。甘い。


 ふと、馬房の外へ目を向けた。


 通路の奥で、タキオンダッシュが鼻を鳴らしていた。


 あの腱炎の同期だ。


 最近は、すっかり元気に走っている。


(うむ、良い走りをしておるな)


 じじいは、トボトボと馬房の格子に近づいた。


 通路越しに、同期へ向けて静かに息を吹きかける。


(今月分のリジェネじゃ)


 タキオンダッシュは、きょとんとした顔をした。


 それから、嬉しそうに首を振った。


 じじいは、満足して藁の上に腰を下ろした。


 外は、もう暗くなっていた。


 目を閉じた。


 腹が満たされて、魔力も満たされて。


 前世の大聖者は、今日も美浦の夜に溶けていくのだった。


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