第21話 『ハイ・ヒール』とホープフルステークスG1
冷える朝、ホープフルステークスの最終追い切り。
やる気なさそうに下を向き、トボトボと歩く馬がいた。
ユメノワスレナグサ、じじいである。
鞍上は、駿河紗季騎手。
朝靄が引き裂かれる。美浦の坂路に、蹄音が響く。
「行け!」
手綱が微かに動いた瞬間、芦毛の馬体が爆発的に弾けた。
四肢が美しく伸び、ウッドチップを激しく蹴り上げる。
並走する古馬を、瞬く間に置き去りにした。
「よし、仕上がった」
ストップウォッチを止める、古谷調教師の手が震える。
画面に表示された数字は、自己ベストを大幅に更新する猛時計。
デビューから無敗のまま挑む、週末の大舞台ホープフルステークスG1。
息ひとつ乱さず歩む若駒の眼光は、すでに歓声に沸く直線のゴール板を捉えている――ように、古谷には見えた。
人生初のG1優勝への最終準備は、完璧に整った。古谷は、そう確信した。
調教を終えたじじいは、トコトコ歩く。今まで猛時計を出していたのがウソのように、落ち着いていた。
じじいは、車いすに乗る馬主の優芽を見つけていた。
(寒いのに、朝早くから元気だのう)
じじいが向かってくるのに気が付いて、双眼鏡を持った手を振っている。
じじいのかけた魔法は、優芽の体を健康的に保っていた。
「わたしのワスレナグサ」
じじいは、触れられる距離まで近づき、鼻を触らせる。
いつもなら、ここまでである。
だが、この日はもう一歩、前に出た。
体に密着する距離。
優芽は驚き、そして喜んだ。
その瞬間、じじいは、二つの魔法を使った。
一つは、前世で夜通し苦しむ患者を安らかに眠らせた、優しい眠りの魔法。
そしてもう一つが――最高位回復魔法、『ハイ・ヒール』。
効果を心臓に集中させ、清浄の光が胸へと吸い込まれていく。
人間の目には、気のせいに見えるほどの微光。
(心配するな、お嬢ちゃん。これで健康な体の出来上がりじゃ、ふぉっふぉっふぉ)
優芽は眠り、健康になった。
いとも容易く、あっけなく。
生まれた夜、瀕死の母馬を救ったあの魔法が、今度は少女の心臓を、根こそぎ作り直した。
(さて、帰るかのう)
じじいは厩舎に向かって歩いていく。トボトボと。
★
レース当日。馬具を付ける場所で、じじいを確認する優芽。
「ほんとにもう元気なの。自分で歩けるわ」
「ダメよ。できるだけ体は大事にしないと」
元気になったと主張する優芽と、お母さんの攻防がそこにはあった。
じじいは、のんびり眺める。
じじいは、病気だった人間が元気になって何かをしている姿が、好きだった。
歳がいっているので、すぐ感情的になるのだ。
(よかったのう、お嬢ちゃん。……ぐすん)
目尻が、少し濡れていた。
涙もろい爺なのである。
とはいえ、そう感傷に浸っていられる場面でもなかった。
興奮しすぎて鼻息が荒い古谷に、「おちつけーおちつけー」と連呼している厩務員の佐々木。
彼らにとっても、今は人生始まって以来の勝負所なのだ。
(期待が重いのう……)
と、じじいは思っていた。
★
12月下旬の中山競馬場。
第11レース、ホープフルステークス。G1。
舞台は芝2000メートル、内回りコース。
当日の馬場状態は良馬場。
連続開催の後半に入り、芝の内側には相応の傷みが見られるものの、全体としては時計の出るコンディションが保たれていた。
単勝オッズ1番人気に支持された芦毛の2歳馬、ユメノワスレナグサは、いつもと変わらない様子でパドックを周回していた。
歩様は極めてスムーズで、歩幅も大きい。
初の中山競馬場、環境の変化に対しても興奮の兆候は一切見られなかった。
背に跨る駿河紗季の手綱捌きに対しても素直に従い、返し馬でも無駄な力を使うことなく、ゆったりとしたキャンターで馬場を行き来していた。
対する2番人気は、レジェンド鷹騎手が手綱を握るロードカイザー。
2強対決の様相を呈した場内が大きくどよめく中、16頭は順次、発走ゲートへと収まっていった。
ガシャン、という金属音とともにゲートが開き、レースがスタートした。
じじいは抜群のスタートを切った。
抜群の初期加速力を活かし、駿河紗季の誘導のもと、自然とインコースの好位を確保しにいく。
その直後、大外枠から陣内騎手の騎乗馬が、猛烈な勢いで押し上げていった。
陣内騎手は序盤からムチを連打し、なりふり構わずハナを奪いにいく。
最初の1ハロンの通過タイムは、陣内が無理に競りかけたことで速いラップが刻まれた。
駿河騎手は、この無理な競り合いに巻き込まれるのを避け、陣内騎手を行かせる選択をした。
1角を3番手のインコースという、経済コースで回る。
ここまでは陣営の想定通り、完璧な立ち回りであった。
しかし、2角に入る手前でレースの構造が決定的に変化した。
すぐ外側のポジションに、2番人気のロードカイザーと鷹騎手がぴったりと馬体を寄せてきたのだ。
鷹騎手の視線は、じじいの動向を完全にロックしていた。
じじいのスタミナと持続力を誰よりも熟知している鷹騎手は、自分の馬の仕掛けどころを狭めてでも、じじいの進路を外から封じ込める戦術を選択した。
外側からの強烈な圧迫。
じじいが進路を外へと切り替えるための物理的なスペースは、この時点で完全に消滅した。
駿河騎手はじじいの歩様を乱さないよう、強靭な体幹で鷹騎手のプレッシャーを受け流し、隙を見て外へ持ち出そうと絶妙に手綱を動かす。
だが、鷹騎手の壁は厚い。
紗季が動こうとするわずか一瞬前に先回りをされ、すべての進路の選択肢を潰されていった。
さらに向こう正面に入ると、先頭を走る陣内が突如として急ブレーキをかけた。
最初の1ハロンこそ速かったものの、ハナを確定させた陣内騎手は、ここぞとばかりにペースを極端に落とした。
1000メートル通過タイムは63秒5。2歳G1としては異例の超スローペースである。
この減速により、馬群全体が一気に凝縮した。
前を走る陣内騎手の馬が物理的な壁になり、外側からは鷹騎手が鉄壁のフタを維持している。
後ろからも余力を持て余した他馬が殺到し、じじいは前後左右を完全に他馬に囲まれた状態に陥ってしまった。
駿河騎手の手元に、プロとしての計算から導き出された絶望が走る。
引いて下げるスペースはなく、外へ押し出す力技も鷹騎手が許さない。
この極端なスローペースのまま直線を迎えれば、全頭が体力を有り余らせた状態での、純粋な「上がり3ハロンの瞬発力勝負」になる。
大逃げやロングスパートで良さが出るじじいにとって、これは完全に戦術的な詰みを意味していた。
どれだけ優れた騎手であっても、物理的に前も横も塞がれてしまっては、打てる手が何一つない。
焦りのあまり、駿河騎手の拳がわずかに震え始める。
じじいはその窮屈な馬群の中でも、駿河騎手の指示に従って前へ進もうと脚を伸ばそうとしていたが、物理的な進路がどこにも存在しなかった。
スタンドの馬主席では、古谷調教師と調教助手の稲葉が、揃って画面を見つめたまま動きを止めていた。
古谷はガリガリと頭を掻き、稲葉は諦めたように肩をすくめる。
二人はじじいの能力を知っているからこそ、この展開になった時点で「今日はもう無理だ」と理解した。
「厳しいですね」
「ああ……」
G1という舞台の厳しさ、環境の厳しさ、そしてレジェンドの老獪な戦略の前に、古谷厩舎の戦術は完全に破綻していた。
4コーナーを回り、最後の直線に入った。
駿河騎手は諦めることなく、必死に追う動作を続けた。
じじいもそれに応えるように力強く四肢を伸ばすが、予想通り前は分厚い他馬の壁に阻まれたままだ。
じじいがその巨体を加速させるためのスペースなど、どこにも残されていなかった。
その時、馬群の外側から一気に鋭い末脚を爆発させたロードカイザーと鷹騎手が、次元の違うスピードで中山の急坂を駆け上がっていった。
大歓声が沸き起こる中、完璧な立ち回りを演じた2番人気が悠々と1着でゴール。
競馬の教科書通りの、完璧な戦略勝ちであった。
一方のじじいは、最後まで馬群の中に埋もれたままだった。
形だけ脚を使って8着。
掲示板にすら名前が載らない大敗のまま、ひっそりとゴール板を駆け抜けた。
★
引き揚げてくるコースの上で、駿河騎手は悔しさに顔を曇らせ、馬首に顔を埋めるようにしていた。
じじいはそんな彼女を背に乗せ、魔法を使う。
(──精神安定魔法『カーム』)
背に乗る騎手の脳に優しく浸透していく。
その瞬間、ピタリと震えが止まった。
駿河騎手の目のハイライトが消えていく。
激しい悔しさや悲しみが魔法の力で無理やり消されたのだ。
彼女の脳内は図書館のように静かに落ち着いていた。
(くそっ、煽りにきおったか……『カーム』)
ついでに嬉しくて嬉しくてしょうがなく、スキップしながら近づいてきたロードカイザーにも魔法をぶっ放した。
ロードカイザーはハイライトが消え、急に落ち着いた。
ウィニングランを行うようだ。
じじいは、淡々と地下馬道へと向かって歩いた。
(あー負けじゃ、負けじゃ)
ふと横を見ると、先頭で大暴走して完全にバテ散らかした陣内騎手の馬が、フラフラになりながら歩いている。
(──ヒール)
疲れていた馬が急に元気になり、トコトコ歩いていく。
「くそっ、やっぱり疲れたふりじゃねーか!」
何故か怒る陣内を、じじいは呆れた目で見ていた。
初めての敗北。
じじいの歩様には目立った疲労や故障の兆候はなく、ただいつも通りの落ち着きを保ったまま、冬の傾いた夕暮れの光を浴びながら地下馬道へと進んでいくのだった。




