第20話 猫と魔力と乗り代わり
じじいは激怒した。
かならず、あの張り詰めた険悪な空気を除かねばならぬと決意した。
じじいには、複雑な猫の世界のルールはわからぬ。
じじいは、先住の厩舎猫とは、いい距離を保った大人の関係である。
新入りのトラとは、仲良しである。
けれども、猫たちの不穏な唸り声に対しては、人一倍に敏感であった。
……なお、じじいは別に激怒していない。
お昼寝を妨げられて、ちょっと不服なだけである。
騒ぎの原因は、トラだった。
はるばる茨城から追いかけてきた、あの義理堅いキジトラは、着いて早々、この厩舎のボス猫の座に挑んでいたのである。
相手は、長年この厩舎に君臨する先住猫。
歴戦の古豪だ。
結果は、見るまでもなかった。
「にゃぁ……」
夕方、ぼろぼろの体で帰ってきたトラに、じじいはヒールをかけてやる。
(こいつ、喧嘩っ早いのに、めちゃめちゃ弱いのう。サッサとボス猫になろうなどと、くだらぬこと諦めればよいものを)
元気になったトラは、プシャーと声を上げ、再戦しに出掛けて行った。
(大人しいやつだと思っておったが、わからぬものだのう)
そういえば、と思い出す。
(前世もおったのう。クソ雑魚ヒーラーの癖に、わしに対抗意識を燃やして頑張っておったやつが)
じじいは、昔を懐かしんだ。
治癒量で勝負を挑んできては負け、詠唱速度で挑んできては負け、しまいには患者の人気投票で挑んできて、また負けていた男。
何度負けても、翌朝には目を血走らせて修行していた。
(あやつ、最後は立派な聖者になりおったな。……ふむ。負けても止まらんやつというのは、案外、化けるものかもしれん)
じじいは、夜になってまた、ぼろぼろで帰ってきたトラを、再度ヒールするのだった。
★
さて。
京都2歳ステークスを勝ち、レベル4に上がったじじいは、困惑していた。
(……魔力、増えとらんか?)
気付いたのには、理由がある。
本日、厩舎は体調不良者が多く、じじいは結構な数の回復魔法を使ったのだ。
何度もケガして帰ってくるトラ。
二日酔いで苦しそうな古谷調教師。
同じ症状の調教助手、稲葉。
さらに同じ症状の厩務員、佐々木。
(昨夜、祝勝会でもやったんじゃろうが……揃いも揃って、情けないのう)
他にも、つらそうな厩舎仲間がいっぱいいた。
そこで、前世の気分でバカスコ魔法を使い、気づいたのだ。
わし、全然眠くならん、と。
(そういえば、先日の京都への旅でも、五連発してピンピンしておったな。あれは旅の空気のせいではなく……)
この魔力の増え具合。
感覚でなんとなくわかるのだが、これは、レベルが上がった時のそれである。
だが、レベルとは本来、魔物を倒し、経験値を得て初めて上昇するもの。
じじいは今生、殺生はしていないし、魔物など見たこともない。
であるからして、覚えが全くない。
頭の中はクエッションマークでいっぱいだったが、しばらくして、わかった。
(これ、考えてもわからん類のものじゃな)
じじいは、諦めが早い生き物なのだ。
が、そこで終わっては、大聖者としては赤点である。
増えた魔力の「今の上限」だけは、把握しておかねばならない。
器の大きさを知らぬヒーラーは、戦場で真っ先に死ぬ。
前世で弟子たちに、口を酸っぱくして教えたことだ。
(よし。測るぞい)
方法は、単純にして原始的。
ヒールを何回使ったら魔力切れを起こすか、数えるだけである。
じじいは、まず馬房の隅に、藁をこんもりと集めた。
ふかふかの、特製ベッドである。
倒れる場所を先に用意しておくあたり、じじいも学習しているのだ。
準備を終え、藁の山の真ん中に立つ。
(いくぞい。一発目じゃ)
ヒール。自分の右前脚へ。
ヒール。左前脚へ。
ヒール、ヒール、ヒール。
尻尾へ、たてがみへ、胃袋へ。
十回。まだまだ余裕。
二十回。鼻歌まじりである。
三十回。
(ほほう。まだいけるとは、大したもんじゃ)
四十回。
さすがに、頭の芯がじんわりと重くなってきた。
四十五、四十六、四十七……。
メーターの底が、見えてきた。
四十九。
(……ラスト、じゃな)
五十。
カチリ、と頭の奥で、聞き慣れた音がした。
メーターが、ゼロを指す。
津波のような睡魔。
(ヒール50回……ということは、ハイヒールなら2回はいける計算じゃな。ふむ、覚えた……)
ズドーン!!
じじいは、用意しておいた藁のベッドのド真ん中へ、狙い澄ましたように白目で倒れ込んだ。
完璧な着地である。
そのまま、地響きのような大イビキをかいて眠りに落ちた。
枕元では、三度目の出撃から帰ったぼろぼろのトラが、(今日は治してもらえんのか……)という顔で、じじいの腹に寄りかかって丸くなった。
★
冬の陽光が差し込む厩舎の隅で、三人が笑顔を交わしていた。
京都2歳ステークスの重賞盾が、机の上で誇らしげに輝いている。
古谷調教師は、手元のスポーツ紙に目を落とした。
「これで無傷の三連勝、大したものだな」
彼の声には、隠しきれない興奮がにじんでいた。
稲葉調教助手が、温かいお茶を注ぎながら深く頷く。
「ええ、本当に強い競馬をしてくれました」
佐々木厩務員は、誇らしげに胸を張った。
「ファンも一気に増えたみたいですよ」
三人の視線の先には、馬房にたたずむじじいの姿があった。
激戦を終えたばかりだというのに、その瞳は澄んでいる。
毛艶もピカピカと光り、堂々とした風格を漂わせていた。
古谷が馬房に近づき、愛馬の様子をじっくりと観察する。
「稲葉、レース後のカイバの食いはどうだ?」
稲葉が手帳を開き、すぐに数字を確認した。
「全く落ちていません。いつも通り完食しています」
佐々木が愛おしそうに、ワスレナグサの鼻面を撫でた。
「この子、疲れた様子が本当にないんですよ。相変わらず元気一杯で、明日からでも走れそうです」
その言葉を聞き、古谷の口元が自然と緩んだ。
「それなら、予定通り次の大舞台を狙えるな」
三人の頭に、同じレースの名前が浮かんでいた。
中山競馬場で開催される、G1ホープフルステークスだ。
「二歳王者の座が、いよいよ見えてきましたね」
稲葉の言葉に、厩舎内の空気が一気に引き締まる。
しかし、古谷は引き締まった表情のまま、一枚の紙を出した。
それは、次走の出走予定馬のリストだった。
「だが、次の一戦は一筋縄ではいかないぞ」
古谷の指が、ある一頭の馬の名前で止まった。
そこには「ロードカイザー」と書かれていた。
「やはり、彼らもホープフルに出てきますか」
稲葉が顔を曇らせ、リストを見つめた。
ロードカイザーは、世代屈指の実力を持つ最大のライバルだ。
佐々木も、撫でていた手を止めて古谷を見た。
「さらに、少し厄介な問題が起きた」
古谷はそう言って、深く息を吐き出した。
「鷹さんが、向こうに回る」
その言葉に、稲葉と佐々木は思わず息を呑んだ。
ワスレナグサを連勝に導いた、主戦の鷹騎手。
もともと「カイザーと被ったらあちらを優先する」——それが、最初からの約束だった。
わかっていたことだ。
それでも、いざその時が来ると、痛い。
「鷹騎手が、あっちの鞍上に……」
稲葉が、静かに呟いた。
手の内を知り尽くした名手が、最大のライバルの背中に回る。
これほど厄介な相手はいない。
佐々木が、不安そうな声を漏らした。
「先生、ワスレナグサの次のジョッキーはどうしますか?」
古谷は二人の不安を遮るように、力強く首を振った。
「焦る必要はない。鞍上はおいおい考えるとしよう。まずは、この馬を最高の状態に仕上げるだけだ」
古谷の毅然とした態度に、二人の心が落ち着きを取り戻す。
当のワスレナグサは、馬房の藁の上で、トラを腹に乗せたまま、男たちの会話に耳だけ立てていた。
(ほほう。次は、あの煽り小僧とやるのか)
それだけ理解して、また目を閉じる。
主戦が去ろうとも、この馬の図太さが揺らぐことはない。
冬の王座をかけた戦いへ向けて——じじい以外の厩舎の熱気が、再び高まっていった。




