閑話 猫の大冒険
茨城県の育成牧場に、キジトラ猫の「トラ」がいた。
トラには、どうしても会いたい大好きな友達がいたんだ。
昔、潰れそうだった後ろ足を、ふうっと温かい息で治してくれた、大きくて白いお馬さん。
みんなから「じじい」なんて呼ばれていた、芦毛の競走馬だ。
でも、じじいはとっくの昔に美浦のトレセンへ移動して、もうここにはいない。
あの日は、お昼寝から目が覚めたら、大きなトラックが走り去っていくところだった。
匂いだけが、しばらく厩舎に残っていた。
毎日じじいの馬房を覗いては、からっぽの藁を見て帰るトラを見かねて、牧場のカラスが教えてくれた。
「あいつなら、南にある『美浦のトレセン』って場所にいるぜ」
みなみ。
トラは、お日さまが一番高くのぼる方角を見た。
じじいに会いたい。
その一心で、トラは毎日チャンスをうかがっていた。
★
ある日、厩舎の前に大きな馬運車が停まった。
運転手が「これから美浦のトレセンに向かう」と話している。
――これに乗るしかない。
トラは、一か八かの賭けに出た。
出発直前、閉まりかけるハッチの隙間をめがけ、決死のジャンプ!
タン、と小さな足音が荷台の床に響く。
トラは運良く、車内へ滑り込むことに成功した。
直後、ガチャンと音がして、周囲は真っ暗になる。
ブォォォンと重いエンジン音が響き、トラックが走り出した。
暗くて、揺れて、知らない場所へ運ばれていく。
ほんとうは、ちょっとだけ怖かった。
でも、トラは暗闇の中で体を丸めて、あの温かい息のことを思い出した。
じじいの匂いはしないけれど、この先に、あいつがいる。
トラックは激しく揺れながら、長い時間を走った。
★
やがて車が止まり、ハッチが開いて眩しい光が差し込む。
そこは見渡す限りの巨大な施設——美浦トレーニングセンターだった。
馬の数も、人間の数も、育成牧場とはけたちがい。
トラはスタッフの影に隠れながら、素早く車外へ飛び降りた。
人間の目を盗み、広い敷地内を必死に捜索する。
ツンとする消毒液と、数えきれない馬の匂い。
何百という匂いの洪水の中から、トラの鼻が――たった一つ、「あの懐かしい匂い」を捉えた。
まちがえるはずがない。
世界でいちばん、あったかい匂いだ。
青い屋根の厩舎の奥へ、迷わず駆け抜ける。
★
静まり返った馬房の前で、トラは「にゃあ」と鳴いた。
奥から顔を出したのは、紛れもない、あのじじいだ。
じじいは驚いて、丸い目をさらに大きくする。
まさか、とっくに離れたはずの牧場から、猫がやってくるなんて。
(お主……あの時の、小さいのか。よもや、ここまで追ってきたのか)
じじいは愛おしそうに格子から首を伸ばし、トラの頭を優しく突いた。
ふう、と温かい息が、トラを包む。
あの日と、同じ息だった。
トラは、ゴロゴロと喉を鳴らした。
もう、どこにも行かせないんだから。
こうして、小さな猫の命がけの旅は、最高の再会で幕を閉じたんだ。




