第19話 京都2歳ステークス
京都競馬場のパドック。
秋の柔らかな光が降り注ぐ中、じじいはのんきに周回していた。
初めての右回りコース。初めての関西遠征。
周りの2歳馬たちは、大観衆の地響きのようなざわめきに興奮し、激しく汗をかいていた。
しかし、じじいは違った。
(ふぉっふぉっふぉ。ずいぶんと人が集まっておるのう。お祭りじゃて)
ただのお散歩感覚である。
緊張感など、最初から一ミリも存在しなかった。
その時、パドックの内側――関係者用の一角から、小さく、愛らしい声が響いた。
「ワスレナグサ! がんばってー!」
じじいは、ハッと耳を立てた。
声のする方を見やる。
そこには、車椅子に座り、お気に入りの白い帽子を被った小さな女の子がいた。
馬主の優芽ちゃんだ。
初の重賞挑戦を見守るため、馬主の特権で、パドックの中まで案内されていたのだった。
生まれつき心臓を病み、病院の外へ出ることすら奇跡と言われていた少女。
だが、その肌は以前よりもずっと血色が良く、瞳は爛々と輝いていた。
(おお、お嬢ちゃんではないか。わざわざ遠くまで、儂の散歩を見にきてくれたのか)
じじいは歩みを緩めた。
引き手の佐々木が察して、周回の列からそっと外れる。馬主への挨拶は、パドックの数少ない公認行事である。
じじいは、優芽のいる柵の目の前へと、ゆっくりと歩を進めた。
「会いたかったよ」
優芽ちゃんが、小さな手をそっと伸ばす。
じじいは、大きな芦毛の頭を低く下げた。
人間の子供の、柔らかい手のひらが、じじいの鼻先にそっと触れる。
(ほれ、お嬢ちゃん。遠旅で疲れたじゃろ。少し元気を分けてやろうかね)
じじいは愛おしそうに目を細めると、そっと息を吹きかけた。
本日何度目かのお戯れ。
(――『ヒール』じゃて)
じわぁ、と優芽ちゃんの胸の奥が、温かいお湯に浸かったように満たされていく。
病魔に侵されていた心臓の細胞が、また少し、確かに再生の音を立てた。
「ふふ、あったかい……」
優芽ちゃんは、世界で一番幸せそうな笑顔を咲かせた。
この小さな主治医の回診がある限り、彼女の未来は確実に、明るく変わり始めていた。
★
ところ変わって、日高のおんぼろ牧場改め、古道牧場である。
牧場主たる古道敏夫は、電卓をたたいていた。
「何度計算してもお金は出てきませんよ」
妻の春代が、呆れたように横から口を挟む。
「ちげーよ。京都勝ったらいくら稼げるか計算してたんだよ」
「それこそ捕らぬ狸の皮算用じゃないですか」
JRAには、生産者賞と繁殖牝馬所有者賞という特別な制度がある。
新馬と芙蓉ステークスを勝ったじじいによる恩恵は、すでに100万円を超えていた。
「そんなことより、寝太郎のレースそろそろだろ」
「もうパドックは始まってますよ」
「おいおい、それを早く言え」
敏夫が慌てて立ち上がる。
「ほかのやつらも呼んでやれ」
「もう呼んでますよ」
テレビの前には、すでに息子と従業員が陣取っていた。
「パドックで急に寝ないかハラハラするな」
「ズドーンってな」
笑いが起こる。
「社長も見に行けばいいのに。勝ち負けにはなるって言われてたんだろ?」
「やだよ。ズドーンは心臓に悪いんだ」
「ちげーねー」
息子の軽口に、また笑いが広がった。
「でもよ。売っちゃってよかったのか」
じじいの兄弟の話である。
二つ下の牡馬が先日、庭先取引で売れた。
完全にじじい効果だった。
「まあしゃーねーよ。大人の事情もあってな」
「重賞取った後のほうが高く売れただろうに」
待てばもっと高く売れる。だが、そこまでの余裕がない。
敏夫は息子の軽口を一瞥し、その目をテレビへと向けた。
画面の中では、寝太郎が馬主のお嬢さんと仲良さそうにしていた。
「うちの牧場始まって以来の重賞勝利、こねーかなー」
敏夫は、静かに期待していた。
★
身内に人気のあるじじいだが、実は世間でも人気だった。
オッズは一番人気にしては高めの3倍越えだが、それでも一番人気はキープしている。
レジェンド・鷹騎手の発言が競馬民の間で話題になったこともある。
さらに、大逃げが一部のコアなファンから熱烈歓迎されていた。
大逃げは、現代競馬では通用しなくなったと言われるロマンである。
新馬、芙蓉ステークスと大逃げで勝ち続けたじじいは、そのロマンを愛する者たちの心を鷲掴みにしていた。
多くの人間が、じじいの勝利を期待していた。
そんな中、騎手の騎乗が始まった。
今回の鞍上も、レジェンド・鷹騎手である。
厩務員の佐々木に軽く声をかけ、自然な動作でじじいに跨った。
それを睨む男が一人いた。
じじいの前任騎手、陣内翔だ。
じじいを最も上手く乗れるのは自分だと、今も疑っていない男。
10番人気の馬にまたがりながら、乗り馬を奪われた悔しさを隠そうともしない。
「ロートルが調子に乗りやがって」
恨みは鷹騎手にまで広がり、小声の悪態となって滲み出ていた。
★
ファンファーレが鳴り響き、運命のゲートが開いた。
ガシャン、と小気味よい音が響く。
じじいはいつものように抜群のスタートを決め、先行体勢に入ろうとした。
しかし、その直後。
外枠から猛烈な勢いで突っ込んでくる影があった。
10番人気の馬を狂ったようにムチで叩き、ハナを奪いにきた陣内翔だ。
(おいロートル! 楽に競馬ができると思うなよ!)
陣内騎手は自分の馬のスタミナなど無視し、じじいの進路を強引に塞ぐように前へ出た。
あからさまな嫌がらせ。
急激なペースの乱れに、場内がざわつく。
だが、じじいの背にまたがる鷹騎手は、眉一つ動かさなかった。
「……やれやれ」
鷹騎手はじじいの手綱をほんのわずかに引き、陣内騎手を行かせる。
無駄な競り合いを避け、絶好の2番手——いつでも抜け出せる外側のポジションへと、じじいを静かに誘導した。
これを見た他馬の騎手たちも、「チャンス」と見た。
大逃げを封じられたじじいを、今のうちに馬群へ閉じ込めようと、3コーナー手前で一斉に外側からフタをしにかかる。
(おっと、お散歩の邪魔は困るのう)
じじいは、他馬の殺気を敏感に察知した。
鷹騎手が合図を送るよりも早く、自分から少しだけ外へと進路を変え——包囲網が完成する直前に、するりとその隙間をすり抜けた。
鷹騎手は思わず、鞍上で感嘆の息を漏らした。
これほど賢く、視界の広い2歳馬は見たことがない。
前回の勝利者インタビューで「こんなに賢い馬は初めて」と語った言葉に、一ミリの嘘もなかった。
やがて、京都競馬場の名物、3コーナーの『淀の坂』を迎える。
先頭で無理に飛ばし続けた陣内の馬は、上り坂の途中で完全にスタミナが切れ、脚が止まった。
4コーナーを迎える前に、ズルズルと後方へ潰れていく。
その脇を、涼しい顔で追い抜いていく、じじいと鷹騎手。
「バカな……なんだあの手応えは……!」
絶望する陣内騎手を置き去りにし、じじいは体力お化けの本領を発揮して、先頭へと躍り出た。
だが、さすがに急な加減速や坂の登り降りが響いたか、じじいの脚にわずかな疲労の色が見え隠れする。
(ふぅ、少し足が重いのう。では、ちょいと……)
じじいは誰にも気づかれないよう、心の中で静かに呟いた。
(――『ヒール』)
じわぁ、と蹄の先から温かい魔力が全身に染み渡る。
乳酸の溜まった筋肉が、一瞬で生まれたてのように軽くなった。
じじいの完璧で芸術的な回復魔法である。
(よし、行こうかのう)
鷹騎手が手綱をわずかに緩めた瞬間、エネルギーが満タンになったじじいは、さらに加速した。
4コーナーを回り、最後の直線。
後続の馬たちが必死にムチを入れ、自慢の末脚を繰り出そうと追い上げてくる。
だが、じじいは止まらない。
キレ味では、確かに後続が上だ。
しかし、じじいの脚は最後まで衰えない。
バテて減速していく他馬と、疲れを知らず同じ速度で走り続けるじじい。
差は、縮まるどころか開いていった。
その姿に、京都競馬場は大歓声に包まれた。
残り50メートル。
2着馬との差は、すでに3馬身以上。
じじいは勝利を確信した。
鷹騎手が軽く手綱を抑えたまま、じじいは悠々と——1着のゴール板を駆け抜けた。
「ユメノワスレナグサ、初重賞制覇! 鮮やかな逃げ切りです!」
実況の絶叫が、淀のスタンドに響き渡る。
パドックの内側では、白い帽子の少女が、両手を振り上げて歓声を上げていた。
遠く北海道の茶の間では、電卓が床に転がっていた。
(ふむ。皆が喜んでおるのう。……重賞とやら、そんなに大したものかの?)
初の重賞タイトルを獲った本馬だけが、今日ものんきに首を振っていた。




