第17話 窓辺の小さな願い
秋の柔らかな光が、白を基調とした邸宅の一室に差し込んでいた。
ベッドの上で小さな背中を丸めているのが、この家の愛娘であり、競走馬ユメノワスレナグサの馬主でもある優芽ちゃんだった。
名家のお嬢様として生まれた彼女は、今年で9歳。
本来なら私立の小学校に通い、3年生として友達と泥だらけになって遊んでいるはずの年齢だ。
しかし、生まれつき心臓を病んでいる彼女は、人生の大半を病院の白い天井の下で過ごしてきた。
「成人を迎えられたら、それは奇跡の領域です」
かつて主治医から告げられたその言葉は、両親の胸に深く突き刺さっている。
だが、そんな優芽の日々に変化が訪れたのは、ほんの一年前のことだった。
父が彼女のために買い取った、一頭の芦毛の競走馬。ユメノワスレナグサ、通称「じじい」。
その馬が優芽の馬になってからというもの、なぜか彼女の体調はすこぶる良かった。
いつもなら季節の変わり目に必ず崩していた血色が、今秋は薔薇色を保っている。
だからこそ、日頃は絶対にわがままを言わない優芽が、小さな胸に秘めていた「お願い」を口にしたのは、ごく自然な流れだったのかもしれない。
「お父様、お母様……わたし、小学校に行ってみたいの」
その一言に、リビングの空気が微かに張り詰めた。
「小学校、か……」
父親は、手元のお茶に視線を落としたまま、難しい表情を浮かべた。
通わせたい気持ちは山々だ。
しかし、多くの子供たちが集まる場所には、風邪のウイルスや予期せぬ衝突のリスクがあまりにも多すぎる。
もし万が一のことがあれば――そう考えると、どうしても首を縦に振ることができなかった。
「あなた、優芽の気持ちも考えてあげてくださいな」
沈黙を破ったのは、母親だった。
いつも優芽の傍らで看病を続けてきた彼女は、誰よりも娘の孤独を知っている。
「今までずっと、病院とこの家の中だけで過ごしてきたのです。あの子が初めて自分からやりたいと言ったことですよ。どうにかして叶えてあげる方法は……」
「しかし、体調が急変したらどうする。美浦のトレセンへ行くのとは訳が違うんだぞ」
夫婦の意見は平行線をたどった。
最終的に、現在の一時帰宅を許可している主治医に意見を仰ぐことになった。
往診に訪れた医師は、優芽の最新の検査数値を眺めながら、うーん、と唸り声を上げた。
「……不思議ですね。数値だけで見れば、以前より遥かに安定しています。正直、今の状態を維持できるのであれば、数時間の登校も『不可能』とは言えません」
「では!」と母親が身を乗り出す。
しかし、医師はすぐに手元の資料を閉じ、慎重に言葉を継いだ。
「ですが、医学的な見地からは、やはりおすすめはできません。学校という環境は刺激が強すぎます。興奮や緊張が、そのデリケートな心臓にどんな負担をかけるか……。現状維持ができている今だからこそ、無理をしてリスクを冒す必要はない、というのが私の本音です」
その言葉が、決定打となった。
大人たちの話し合いを、部屋の隅で静かに聞いていた優芽は、そっと俯いた。
「……ごめんなさい。わたし、贅沢を言っちゃった」
ぽつりと言った優芽の声は、今にも消え入りそうだった。
「優芽……」
「お父様もお母様も、先生も、わたしのことを心配してくれているのに。学校に行きたいなんて言って、困らせちゃった。……もう、大丈夫です。もう少し、もっと元気になったら……」
自分で自分を納得させるように、健気に微笑む優芽。
そのしょんぼりとした笑顔は、かえって両親の胸を締め付けた。
生まれた時から我慢ばかりを強いてきた娘に、また一つ、諦めることを覚えさせてしまったのだから。
重苦しい空気が部屋を支配しそうになったその時、父親が何かを思い出したようにポンと手を打った。
「そうだ、優芽。……ワスレナグサのことで、古谷調教師から連絡が入っているんだ」
「ワスレナグサ……?」
俯いていた優芽の顔が、少しだけ上がった。
その様子に手応えを感じた父親は、努めて明るい声を意識しながら、スマートフォンを開いた。
「ああ、そうさ。お前がオーナーになってから、あの馬、思いもよらぬ2連勝だろう? 新馬戦を勝ったと思ったら、この前の芙蓉ステークスまで勝ってしまって。競馬村じゃあ、ちょっとした有名犬らしいぞ」
「ふふ、ワスレナグサは馬だよ、お父様」
わざと間違えたのが、すぐにわかった。
優芽の唇に、小さな灯火のような笑みが戻る。
父親は、娘のこの笑い方を引き出す方法を、誰よりも知っているのだ。
実はこの時、当のじじいは美浦の馬房で「ふぉっふぉっふぉ、今日の飼葉も美味いのう」と、のんびり尾を振っていた。
じじいが継続してかけている持続回復魔法『リジェネ』が、優芽の体を根底から支えていることなど、この部屋にいる誰も知らない。
「それでね、優芽。次のレースの話が来ているんだ」
父親は、古谷調教師から送られてきた資料を優芽に見せた。
「名義の上では馬主はお父様だがね、あいつの本当のオーナーは優芽、お前だ。お前の承諾が欲しいんだが……聞いてくれるかい?」
「うん! 次のレース、どこを走るの?」
優芽の目が、目に見えて生き生きとし始めた。
先ほどまでの、学校に行けなくて落ち込んでいた暗い表情はどこへやら。
彼女にとってじじいの話題は、どんな最先端の医療よりも即効性のある特効薬だった。
「次はね、京都2歳ステークスというレースだ。これに勝つと『重賞』という、とても名誉なタイトルが貰えるらしい。あの馬にとっては、初めての大きな挑戦だな」
「きょうと……? 遠いところに行くんだね」
「そうだね。美浦から専用のトラックに乗って行くんだ。古谷さんも稲葉さんも、今のワスレナグサはとにかく元気で、疲れが全くないから挑戦させたいと言っていた。どうだい、オーナー。許可を出してくれるかい?」
父親が冗談めかして頭を下げると、優芽は嬉しそうに胸を張った。
「はい! ワスレナグサが元気に走りたいなら、わたし、全力で応援します! お父様、古谷先生に『おねがいします』って伝えてください!」
「よし、分かった。すぐに返事をしておこう。……本当に、良い馬主に当たったと古谷さんたちも喜んでいたよ。ワスレナグサとは、これから先も長い付き合いにしたい、とな」
その言葉を聞いて、優芽は誇らしげにニコニコと微笑んだ。
自分が選んだ馬が、たくさんの大人たちを笑顔にしている。
それが、彼女にとって何よりの喜びだった。
「あ、そうだ。お父様」
優芽が、思い出したように人差し指を立てた。
「京都の次のレースは、もう決まっているの?」
「気が早いな、オーナー」
父親は苦笑しながらも、資料の次のページをめくった。
「京都2歳ステークスのあとは、年内の大目標として、12月の終わりにある『ホープフルステークス』というレースを使う予定だそうだ。これは『GⅠ(ジーワン)』といって、日本で一番格の高い、最高峰のレースなんだよ」
「じーわん……! ワスレナグサ、そんなにすごいレースに出るの?」
優芽は、パチパチと小さな手を叩いた。
「ああ。もしそこでも良い走りができれば、来年の春には『クラシック』と呼ばれる、一生に一度しか出られない最高の舞台も見えてくる。……まぁ、まずは京都を無事に走ってからだがね」
「わたし、両方見に行く!」
優芽の突然の宣言に、両親は一瞬、お互いの顔を見合わせた。
京都への遠征。そして12月末の中山競馬場。どちらも病気療養中の体には、決して軽い移動ではない。
しかし、主治医は優芽のその弾けるような笑顔を見て、優しく微笑んだ。
「お父様、お母様。学校は毎日のことですからリスクがありますが、競馬観戦のような『特別なイベント』であれば、万全の準備をして車で向かえば、十分に可能です。むしろ、こうして目標を持ってワクワクしていること自体が、今の彼女の免疫力を驚くほど高めているようですよ」
「先生……」
「ワスレナグサ君、でしたか。あの馬は、優芽ちゃんにとって最高のドクターなのかもしれませんね」
医師の言葉に、父親も母親も、ようやく心の底から安堵の息を漏らすことができた。
「分かったよ、優芽。京都も、その次のGⅠも、家族みんなでワスレナグサの応援に行こう。特等席を用意させるからね」
「わあい! ワスレナグサ、待っててね。わたし、絶対に現地で応援するからね!」
窓の外では、秋の穏やかな風が木々を揺らしていた。
学校へ行くという夢は少しだけお預けになってしまったけれど、優芽の心は、遠く離れたトレセンで暮らす愛馬の元へと飛んでいた。
一方、美浦の厩舎。
じじいは、ブフフと一つ大きな鼻鳴らしをして、飼い葉桶の隅に残ったニンジンの破片を器用に舌で巻き取っていた。
(ふぉっふぉっふぉ。何やら遠くから、優しい気配が応援してくれとる気がするのう。お嬢ちゃんのためにも、次ものんびりお散歩するとしようかね)
じじいは、水バケツに口をつけ、ずずずっと水を飲む。
優芽の主治医(自称)は今日も、まったりとした時間を過ごすのだった。




