第16話 気付いてないし忘れている
じじいは、レベルが上がっている。
新馬戦で勝って、レベルが2に。
芙蓉ステークスに勝って、レベルが3に。
レベルが上がるたび、身体能力と知能と運が、それぞれ2%ずつ向上する。
そして魔力に至っては、9しかなかったものが、105まで増えていた。
実に、10倍以上である。
これは、前世でカンストのレベル99まで到達した大聖者の頃と、全く同じ上昇ペースだった。
だが、じじいは気がつかない。
レベルが上がったことも、魔力が増えていることも。
その気になれば、馬主の優芽ちゃんを最高位回復魔法ハイヒールで完治させられる魔力が、すでにあることも。
(コスパ最強魔法で延命じゃ、ふぉっふぉっふぉ)
と、お戯れをしてきたばかりである。
じじいは、鈍いのだ。
そんなじじいだが、競馬村では話題になっていた。
賢い馬がいる。
あのレジェンド、天才ジョッキーの鷹が褒めちぎったのだ。
その評判は、一人の実力派女性ジョッキー、駿河紗季を呼び寄せていた。
「是非、調教を付けさせてください!」
美浦トレセンの馬場脇で、駿河紗季は調教師の古谷に向かって頭を下げていた。
鷹が褒めた新馬、ユメノワスレナグサ。
新馬戦と芙蓉ステークスを連勝したその馬に、プロとしての興味が抑えきれなかった。
(ふぉっふぉっふぉ。元気なジョッキーじゃな。どれ、少し背中を貸してやろうかね)
じじいは、のんきに鼻を鳴らした。
レベルが3になり、能力が上がっていることなど、じじい自身は全く自覚していない。
ただ、いつもより少しだけ体が軽い、という程度の感覚だった。
「……よし、紗季。軽くウッドチップコースを馬なりで流してこい」
古谷の指示で、紗季はじじいに跨った。
手綱を握り、常歩で馬場へ向かう。
その段階で、紗季は小さな違和感に気づいた。
(……すごく、歩きやすいな)
じじいは、知能が上がったことで、「歩きやすいコースの端」を自分で選んで進んでいた。
紗季が細かく手綱で誘導しなくても、馬体が一切ブレずに真っ直ぐ進む。
コースに入り、紗季は軽く手綱を緩めて促した。
じじいは、前世のお散歩感覚で、のんびりと走り出す。
だが、身体能力が2%向上したじじいの走りは、確実に変化していた。
2%の向上。それは、劇的な変化ではない。
しかし、競馬の世界における2%の差は、走破タイムをコンマ数秒縮めるだけの、明確なアドバンテージだった。
(……無駄な動きが全くない)
紗季は、じじいの背中で冷静にその走りを分析していた。
時速60キロ超のスピード。
上がった筋力とバランス感覚により、着地の衝撃が綺麗に吸収され、鞍上の紗季への負担が驚くほど少ない。
(走りのリズムが完全に一定だわ。これなら、距離が伸びても体力が持つ)
じじいは、ハミをほんの少しだけ自分で動かし、走りやすい位置を探っていた。
じじいにとってはただの「微調整」だが、知能の上がった馬が行うそのハミ受けは、非常にスムーズだった。
その結果、紗季の腕にかかる引っ張る力が、スッと綺麗に抜けた。
(ハミの受け方が上手い。人間の指示を待つ前に、自分で折り合いをつけてる……)
調教を終え、馬場から戻ってきたじじいから、紗季は静かに降りた。
大袈裟な興奮はない。
ただ、プロとしての確かな手応えが、そこにはあった。
「どうだった」
古谷の問いかけに、紗季は真剣な表情で頷いた。
「あの馬、ものすごく乗りやすいです。能力が高いだけでなく、とにかく競馬が上手い。チャンスがあれば、本番でも是非乗せてください」
「そうか。お前がそこまで言うなら考えておこう」
古谷は、小さく笑った。
実力派の紗季が、その「折り合いの良さ」を評価した。
じじいの見えない成長は、確実にプロの目を引きつけていた。
(ふぉっふぉっふぉ。楽しく走れたようで何よりじゃ。さて、ご褒美のニンジンを貰いに行こうかね)
周囲の評価がまた一歩上がったことなど気にせず、じじいはのんきに厩舎へと歩いていくのだった。
★
美浦トレセンの古谷厩舎。
居並ぶ馬房の奥で、じじいはのんきに藁を食んでいた。
その姿を少し離れた場所から見つめながら、調教師の古谷と、調教助手の稲葉は腕を組んで話し合っていた。
「紗季の乗った今朝の追い切り、時計以上の内容だったな」
古谷が、手元のタブレットに目を落としながら呟く。
「ええ。上がりの歩様も、全く乱れていません」
稲葉が頷いた。
「芙蓉ステークスを勝った後も、カイ食いは落ちるどころか、むしろ上がってるくらいです。ワスレナグサ、とにかく元気なんですよ。疲れというものが、まるで見当たらない」
二人の視線の先で、じじいは「ふぉっふぉっふぉ、今日の飼葉は美味いのう」とでも言いたげに、のんびりと尾を振っている。
レベルが上がったことで、じじいの肉体は目に見えないレベルでタフになっていた。
「年内の最大目標を、GⅠのホープフルステークスにするのは確定でいい。問題は、その前だ」
古谷が、顎をさすった。
「中休みの期間を、どうするか」
「ホープフルへ直行するのも手ですが……」
稲葉が、少しだけ声を潜める。
「状態がこれだけ良いなら、もう一戦、重賞を挟む選択肢もあります。例えば、京都2歳ステークス(GⅢ)とか」
「京都2歳か」
古谷の眉が動いた。
「芙蓉ステークスからの中四週。間隔としては悪くない。ただ、初の関西圏への遠征、初の右回りコースになる」
「あの賢さと、今の充実ぶりなら、輸送のストレスも最小限で済む気がするんです。今朝の紗季の評価を聞いても、競馬の立ち回りがとにかく上手い。経験を積ませる意味でも、ここで初の重賞タイトルを獲りに行きませんか」
稲葉の熱のこもった提案に、古谷はしばらくじじいの様子を観察していた。
じじいは、相変わらず一ミリの緊張感も醸し出していない。
これなら遠征に行っても、自分の家と勘違いして熟睡しそうな図太さがある。
「……よし、京都2歳ステークスを使う方向で内定しよう。この馬がこれだけ元気なら、挑戦しない手はない」
古谷が、決断を下した。
「となると、あとは馬主さんへの相談だな」
「優芽ちゃんですね」
稲葉の表情が、少し和らぐ。
「名義はお父様ですが、あの子が本当のオーナーですから。お父様も、基本的にはこちらへの信頼が厚く、ほぼお任せというスタンスです。今回も大丈夫でしょう」
「本当に、良い馬主に当たったよ」
古谷は、しみじみと息を吐いた。
「若くて純粋な優芽ちゃんはもちろん、お父様も競馬の現場を尊重して口を出さない。プロを信じて任せてくれる馬主というのは、今の時代、本当にありがたい存在だ」
「ですね。ワスレナグサがこれだけ走るとなれば、これから先、大舞台での選択肢も増えます。陣営の意見を最優先に聞いてくれるお二人とは、できるだけ長い付き合いにしたいものです」
稲葉が、未来を見据えるように言った。
「ああ。そのためにも、まずは初の重賞挑戦、しっかり結果を出して信頼に応えないとな」
古谷はそう締めくくると、馬主への連絡を入れるために事務所へと歩き出した。




