第15話 芙蓉ステークスとその後
9月の京都競馬場。
天候は、雲一つない快晴。馬場状態は絶好の良馬場。
発走時刻は午後2時15分。芝の右回り2000メートル。
2歳限定のオープン競走、芙蓉ステークスが始まる。
パドックを周回する馬たちの中に、一頭の芦毛がいた。
馬名は、ユメノワスレナグサ。
中身は異世界の元大聖者、通称「じじい」である。
(ふむ。良い秋晴れじゃな)
じじいは、鼻息を鳴らす。
周囲の馬たちは緊張していた。
だが、じじいは冷静だった。
馬になっても美味しいカイバとお昼寝の生活、その極上の隠居ライフを楽しむじじいである。
メンタルは、つよつよなのだ。
(わしはただのサラブレッドじゃ、魔法など知りません、で行こう)
と、よそ事を考えるほどの余裕だった。
そこへ、一人の男が歩み寄ってきた。
競馬界の生ける伝説、鷹騎手。
数々のG1を制してきたレジェンドだ。
今日は彼が、ユメノワスレナグサの手綱を取る。
レジェンドが、じじいの背に跨がった。
その瞬間、じじいは目を見張った。
鞍上の男から、一切の無駄な力みが消えた。
馬の骨格と、完全に同調している。
重さを感じさせない、自然で完璧な騎乗。
(ほう……ピカイチじゃ。さすが、ただ者ではないのう。異世界の一流騎竜騎士にも劣らん技術じゃ)
じじいは、その卓越した技量に心から感心した。
なお、じじいは竜騎士の技術など見たこともないので、比較としては完全に適当なのだが――感心そのものは、本物であった。
そして、二人は静かに本馬場へと入場した。
ファンファーレが鳴り響く。
スタンドから、大きな拍手が湧いた。
ユメノワスレナグサは、5番ゲートに収まった。
誘導は、スムーズだった。
ガチャン、と前方の扉が開いた。
「スタートしました! ユメノワスレナグサは抜群の飛び出し!」
実況の声が響く。
ここから、鷹騎手の真骨頂が発揮される。
彼は、無理に馬の手綱を引かなかった。
馬の「走りたい」という意思。それを、拳の絶妙な柔らかさで受け流す。
(抑えぬか。話が分かるのじゃ)
馬の推進力を一切邪魔しない、完璧な手綱捌き。
じじいはストレスなく一気に加速し、先頭へ躍り出た。後続を、グングンと突き放していく。
「ユメノワスレナグサ、大逃げだ!」
実況のトーンが跳ね上がった。
向こう正面に入っても、鷹騎手は美しい前傾姿勢を崩さない。風の抵抗を、最小限に抑えている。
2番手との差は、20馬身以上。完全な一人旅だった。
他馬の動向を完全に遮断する、レジェンドの極めて自然な誘導。
それが、じじいの大逃げを最高のものにしていた。
しかし、この肉体はまだ2歳馬だ。
いくら名手が乗ろうと、ハイペースの限界が来る。
心臓が激しく波打ち始めた。四肢に、乳酸が溜まっていく。
(おお、少々飛ばしすぎたかのう)
じじいは、肉体のリミットを察知した。
だが、鷹騎手は慌てない。
馬の呼吸の乱れを察し、重心を僅かに後ろへ移す。
馬に「一息入れろ」と無言で伝える、芸術的な手綱捌き。
じじいは、その合図に合わせて魔法を編んだ。
(――『ヒール』)
体内で、極小の治癒魔法を発動する。
魔力は、外に一切漏らさない。
じわあ、と心地よい温かさが巡り、蓄積された疲労物質が瞬時に消えた。
スタミナは、完全に回復した。
レジェンドの絶妙なタメ。そこに、じじいの魔法が合わさる。
じじいの脚は、再びスムーズに伸びた。
「ペースが全く落ちません!」
解説席から、驚愕の声が漏れる。
普通なら、後半で力尽きる暴挙だ。
だが、鞍上の鷹騎手は完全に馬と一体化し、無駄な体力を1ミリも使わせない。
じじいは息を整え、3コーナーの坂を越えて最後の直線へ向かった。
4コーナーを回り、最後の直線。
残り400メートル。
ここで、この馬の弱点が出た。
末脚が、絶望的に遅いのだ。
(最後のキレ味だけは、どうにもならんのう)
じじいは、最高速度を維持していた。
だが、後方から猛然と他馬が迫る。
20馬身あった差が、一気に縮まる。
15馬身、10馬身。
残り200メートル。差は、わずか3馬身。
大外から、一頭が猛烈に迫ってくる。
普通ならここで焦って、激しくムチを入れる場面。
しかし、レジェンド鷹は違った。
彼は、まだムチを使わない。
馬の走るリズムを崩さないよう、体幹を固定して追い続ける。
風車鞭とは、ちがうのだ。
極めて自然で、力強い「追い」の技術。
「ユメノワスレナグサ捕まるか!」
実況と観客の絶叫が響く。
並ばれる、一歩手前。
だが、レジェンドの完璧なリード。
そして、元大聖者としてのプライドがあった。
(この素晴らしい騎乗、無駄にはできんのう)
じじいは、二度目の魔法を解禁した。
(――『ヒール』)
体内で、治癒魔法が炸裂した。
限界の筋肉が、強制的に覚醒する。
他馬がバテる領域。
そこで鷹騎手の追いに合わせ、最高速度を維持し続ける。
グンッ、と馬体がもう一伸びした。
猛追してきた他馬の脚が、わずかに鈍る。
じじいは、リードを保ち続けた。
残り50メートル。
完全に、勝負は決した。
鷹騎手は勝利を確信し、最後は優しく手綱を緩めた。
馬に無理をさせない、どこまでも自然な思いやり。
ユメノワスレナグサは、悠々とゴール板を駆け抜けた。
「逃げ切った! 見事な大逃げ!」
「芙蓉ステークスを制したのは、ユメノワスレナグサ!」
2馬身差の圧勝。
レコードタイムに迫る、衝撃的な勝利だった。
万雷の拍手が鳴り響く。
スタンドの歓声を浴びながら、じじいはゆっくりと芝を逆回りに進んだ。
鷹が、じじいの首筋を優しく撫でる。
掲げた鞭の先、夕日に染まるターフが、王者の帰還を祝福していた。
★
レース後、検量室前。
古谷調教師や佐々木厩務員たちに囲まれる。
鷹騎手はふわりと鞍から下りると、じじいの首をポンと叩いた。
「素晴らしい馬だ。自分の走りをよく分かっている」
鷹の顔に、満足げな笑みが浮かぶ。
じじいはその言葉を受け、大聖者としての矜持がもたげてきた。
調子に乗ってきた、ともいう。
鷹が完璧に乗ってくれたからこそ、自分の魔法も完璧に決まったのだ。
そう思うと、もう誇らしくて仕方がなかった。
(見たか。これがわしとレジェンドの、絶対王者の実力じゃ!)
じじいは、首をグッと高く掲げた。
威風堂々とした足取りで、ステップを踏む。
レンズを見据えて、カッと目を開く。
「フン!」と、力強い鼻息を放った。
誰が見ても、最高に調子に乗っている姿だった。
「ユメノワスレナグサ、完全に天狗だな」
「鷹さんの完璧なエスコートで、すっかりその気になってるぞ」
周囲の人間たちは、微笑ましく眺めていた。
鷹騎手もそれを見て、フッと優しく微笑んでいる。
まさか脳内で「わしを崇めるが良い!」と大威張りしているとは、誰も知らない。
平穏な隠居ライフの誓いは、どこへやら。
レジェンドの完璧な騎乗の心地よさ。そして、勝利の快感。
じじいは、それにすっかり魅了されていた。
じじい馬は、最高に不遜なドヤ顔で笑うのだった。
★
レース後の京都競馬場、共同記者会見場。
詰めかけた大勢の報道陣の前に、レジェンド鷹騎手が姿を現した。
芙蓉ステークスでの衝撃的な大逃げ劇に、記者たちの興奮は最高潮に達していた。
「鷹さん、見事な逃げ切り勝ちでした! 今日のレースを振り返っていかがですか?」
マイクを向けられたレジェンドは、穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「驚きましたね。正直、こちらの想像を遥かに超える走りでした。道中はかなりハイペースでしたが、彼は私が『ここで一息入れよう』と手綱をほんの少し緩めた瞬間、驚くほど自然にリラックスして息を整えたんです。そして最後の直線、後ろから猛追された時も、私が鞭を使わず姿勢を維持しただけで、自らもう一伸びしてくれました」
鷹騎手は手元の資料に目を落とし、さらに言葉を続けた。
「今までに数多くの名馬に乗ってきましたが、あそこまでこちらの意図を完璧に汲み取る賢い馬は、私の騎手人生でも初めてです。まるで、人間の言葉や戦術をすべて理解しているかのような……本当に恐ろしいほどの知性を持った馬ですね」
レジェンドの、この率直すぎる評価。
その言葉は瞬く間にニュースとして発信され、競馬界に大きな衝撃を与えた。




