第14話 じじい考察する
「ブルルルッ」
(ふむっ……)
冷たい霧の流れる早朝。
茨城県稲敷郡美浦村──美浦トレーニングセンターの南馬場。
芦毛の2歳牡馬ユメノワスレナグサは、美しく整備されたウッドチップコースの片隅で、自身の白い鼻息を見つめながら深く唸っていた。
かつて異世界で「大聖者」と崇められ、皆から「じじい」と親しまれた男は、いま日本の競馬界の心臓部で、競走馬ライフを絶賛やり直し中である。
馬として生まれ変わってから二年余り、広大な敷地で行われる過酷な調教や、坂路コースを駆け上がる毎日に必死すぎたせいか、彼は今さら重大な事実に気づきかけていた。
(もしかしてこの世界……魔法を使える人間も、馬も、わし以外に一人もいないのではないか?)
きっかけは昨日、厩舎の休憩所で担当の若い厩務員が、スマホで『世界のオカルト超能力動画』を観ていたのを窓越しに盗み見たことだった。
画面の中では、スプーンを曲げる男や、触れずにコップを動かす超能力者が大真面目にポーズを決めていた。
厩務員は「マジかよ、超能力って本当にあるんだな!」と興奮していた。
しかし、大聖者としての目は誤魔化せない。
(どれどれ……ふむ、低位魔法『サイコキネシス』じゃな……くだらぬ。騙されるな若者よ、あれはただの初級魔法じゃ)
その時はフンと鼻を鳴らしたが、その動画には続きがあって、最後にネタバレしたのだ。
ワイヤーと死角を使った手品じゃった。
じじいは、恥ずかしかった。
どや顔して「魔法じゃぞ」などと言える体でなくてよかったと、心から思った。
だが、今になって冷や汗が馬の背中を伝っていた。
よく考えれば、美浦トレセンという、2000頭以上のトップクラスのサラブレッドと、数千人の競馬関係者がひしめく大コミュニティに身を置きながら、一度も「自分以外の魔力」を感じたことがない。
じじいは、調教の合間の輪乗り(順番待ちの円運動)の最中、どさくさに紛れて右の前脚をそっと見つめた。
精神を集中し、馬の細胞の奥底に眠る魔力を編み込む。
(──『灯火』)
ぽつん、と。
泥に汚れた蹄の先端に、オレンジ色の小さな魔法の火が灯った。
大聖者と呼ばれた彼にとっては、呼吸よりも簡単な初級の生活魔法。
馬の体になろうとも、魂に刻まれた魔力回路は完全に機能していた。
(……やっぱり、出るのう。わしの感覚は狂っておらん。まあ今さらか)
つまり、この世界にマナ(魔力)が存在しないわけではないのだ。
美浦の豊かな自然と、霞ヶ浦から吹き抜ける涼しい風には、薄いながらも確かに純粋なマナが含まれている。
土地の結界が歪んでいるわけでもない。
いたって健康的な、自然のエネルギーだ。
問題は、この世界の住人の側にある。
じじいは、ウッドチップを蹴立てて疾走する他の有力馬たちや、鋭い眼光でストップウォッチを構える調教師たちに目を向けた。
しかし、誰一人として、何一匹として、魔力の気配を纏っていない。
(異世界の人間や魔獣は、全員が体内に『魔力溜まり』を持っておった。しかし、この世界の生物は、肉体の構造がそもそも違う。魔力を通すための『経絡』が完全に退化しとる。全員が『魔力不感症』の状態で生まれてきとるわけじゃな)
すべての辻褄が合った。
魔法が存在しないからこそ、この世界の人間たちは「科学」という別のハシゴを死に物狂いで登り、美浦トレセンのような、馬の超近代的なデータ管理や医学的ケアのシステムを築き上げたのだ。
人間の知恵と執念だけでここまで来たのは、それはそれで凄まじい。
(それは素晴らしい努力じゃが……問題はわしじゃ)
じじいは、蹄の火をウッドチップにこすりつけて、ふっと消した。
もしも、だ。
もしも自分が、この美浦でうっかり魔法を使っているのを見つかってしまったらどうなるか。
(……確実に『新種のUMA』として捕まるのう)
異世界であれば、馬が空を飛ぼうが「あそこの天馬は気性が荒いな」で済んだ。
だが、この世界では違う。
原理不明の現象は、国家レベルの研究対象になる。
もし魔法がバレたら、JRAから永久追放されるだけでは済まない。
厳重な研究所に閉じ込められ、毎日「ちょっと蹄から火を出してみてください」と言われながら、怪しい注射を何本も打たれるかもしれない。
(恐ろしい。そんなことになったら、わしの平穏な『美浦の美味しい寝ワラの上で、毎日たっぷりお昼寝する』という隠居ライフが崩壊してしまうではないか)
中身はじじい、体は駿馬。
過酷な勝負の世界に身を置いてはいるが、幸いにも美浦の厩舎のスタッフたちは優しく、ご飯も美味しい。
この極上の生活を脅かされることほど、嫌なことはない。
(よし、決めた。わしはただの、ちょっと走るのが早いだけの、大人しくて賢いサラブレッドじゃ。魔法? ブルルル(何それ美味しいの?)、で行こう)
その時、調教助手の乗る誘導馬が近づいてきた。
「よし、ワスレナグサ、調教終わりだ。厩舎に戻るぞ」
ワスレナグサは従順に首を下げ、お利口な馬のフリをして歩き出す。
厩舎に戻ると、待っていた厩務員の佐々木が「お疲れ、ワスレナグサ」と、角砂糖を手のひらに乗せて差し出した。
じじいは唇を器用に使い、それをハグハグと口に放り込む。
(うむ、美味い。この世界の甘味は素晴らしいのう)
幸せを噛み締めながら、じじいは佐々木の肩にそっと大きな頭を擦りつけた。
だがその瞬間、佐々木の体が、連日の午前3時起きという美浦のハードワークでボロボロになっているのを感じ取った。
(いつも美味い飯をくれる恩返しじゃ。少しだけ、な……)
じじいは、鼻先からほんの微量の魔力を流し込んだ。
一気に治す『ヒール』か、じわじわ効く『リジェネ』か。
迷わず、コスパ最強のリジェネにした。
「ん……? あれ? 急に肩が軽くなったような……。気のせいか。よし、来週は京都競馬場でオープン戦だからな。頑張ろうぜ!」
(気のせいじゃて、若者よ。それとオープン戦、うっかり勝ち過ぎて魔法がバレんように気を付けて使わんとな)
元大聖者のサラブレッドじじいは、今日も美浦トレセンの片隅で、規格外の魔法を隠し持ちながら、馬としての特権を全力で満喫するのだった。
(いや待てよ……前世も、魔法使いやヒーラーは希少じゃった。この世界にも、わしが知らんだけで、どこかにおるのかもしれん……まあ、考えてもわからんか)
じじいは、考えることをやめた。




