第13話 前世を想う
厩舎。
西日が差し込む薄暗い通路で、激しい火花が散っていた。
「なんで降ろされるんですか! 勝ったじゃないですか!」
若手騎手の陣内は、目の前に立つ女性調教助手の稲葉に詰め寄っていた。
握りしめていた拳が、悔しさで小刻みに震えている。
先日、新馬戦をレコードで見事に1着でゴールさせたばかりだった。
「陣内君、声を落としなさい。ここがどこだと思っているの」
稲葉は、落ち着いた声を意識しながらも、その表情には苦渋の色が滲んでいた。
「えっと、先生からはどういう風に聞いてるの?」
「どうもこうもないっすよ! あいつ長距離の適性があるから長距離で結果出してるベテランに持ってくつってるんすよ! ひどいっすよね! 俺が勝ったんすよ! あのロードカイザーに勝ったんすよ! レコードですよ! こんなのおかしいっすよ! 稲葉さんからもおかしいって先生に言ってくださいよ!」
(あー、若いのがうるさいのう……)
ユメノワスレナグサ、通称じじいは、横になっていた体を起こした。
(まあ、元気があってええのう……じじいにはないエネルギーじゃて)
じじいは、暢気だった。
首を伸ばし、状況を確認する。
隣の馬房の馬もソワソワしだし、聞き耳を立てているようだ。
稲葉は、落ち着いた口調で言う。
「ここは厩舎よ。馬がいるの。大きな声を出さないで」
「でも!!」
じじいには、特技がある。
人間観察である。
じじいは、前世ヒーラーをしていた。
人との付き合いは豊富である。
そして、女性との交流も盛んだった。
ということは、人の噂話を聞きまくっていたのである。
だから、わかることがある。
(あの二人、出来ておる可能性が高いのう)
だって、体の距離が近いもん。
女性のほうが少し逃げ腰だが、それでもあの距離は、家族もしくは恋人の距離である。
(いいのう、儂も昔は若かった……)
このように、じじいとは他人の人間関係を邪推する生き物なのである。
そして、その正解率は、そんなに高くないのである。
結局、厩舎の事務所に連れていかれた陣内は、涙目で厩舎を立ち去ったのであった。
「……馬主に言ってやる!」
の捨て台詞を残して。
★
前世の世界。
じじいは、ヒーラーだった。
没した年齢は、五十半ばだった。
人間と魔物が、年中戦って殺し殺されする世界。
そういう世界であるから、平均寿命は結構短い。
男はぽんぽこ死ぬので、女ばかり余って、男はモテモテ大人気なのだ。
故に、みな若くして所帯を持ち、ぽんぽこ子供をつくる。
じじいも人並みに早くから家庭を持ち、孫の顔を見たのは、まだ二十八の時だった。
そして死んだころには、ひひ孫までいたのだ。
だから、競馬のレジェンドジョッキーを見てビビった。
(前世、今世足しても、儂より年上なのでは……)
レジェンドである。
五十七歳である。もちろん年上である。
じじいは、敬意を持つことに決めた。
彼は老いた老兵ではなく、生き残った戦士だと感じたからだ。
鷹。
日本一有名な、レジェンドジョッキーである。
「カイザーと被ったらあちらを優先させてもらいますけど、それは理解してもらえますか」
古谷調教師は、何度もうなずく。
(煽り馬のジョッキーが、儂の騎手になるのか……複雑な世界だな。今日の敵が明日の味方……ふむ)
じじいは、考えるふりをして、実は特に何も考えていない生き物である。
古谷は、あれこれ言っていた。
どうやら、何としてもお手馬になってほしいらしい。
寡黙な男と評価していた古谷も、ここが勝負どころと思っているらしく、必死だ。
天皇賞春、有馬、阪神大賞典、菊花賞、ステイヤーズ、ダイヤモンドステークス。
知らない言葉の多さに、じじいは考えることをやめた。
まあ、元から大して考えていなかったが。
★
次走が決まった。
芙蓉ステークスというレースらしい。
「間が3か月空くのが嫌ですね」
古谷調教師と稲葉調教助手が、話し合っている。
何気に、この二人も距離が近いのだ。
(ふむ。あの距離……必殺・胸当てを実行できる距離じゃな)
資料を覗き込むふりをして身を寄せれば、自然と胸が当たる。
前世の酒場で、若い連中が得意げに語っていた下世話な戦術である。
(むふー、いいのう)
ちなみに、三十代前半の稲葉。
(異世界の基準でいえば、孫がいてもおかしくない歳……いや、これは言うまい。乙女の心を持つお姉ちゃんが聞いたら、般若になるやつじゃ)
じじいは、賢明にも口をつぐんだ。
もっとも、馬なので、最初から喋れないのだが。
★
朝の光は、まだ薄い。冷たい霧が満ちている。
じじいの部屋の扉が開く。
いつもの人間相棒の、助手さんだ。
顔を撫でられる。手が温かくて、心地いい。
背中に重みが載る。お腹の帯が締まる。体がキュッと引き締まる。
よし、走る時間だ。
ゆっくりと歩き出す。じじいは、この引き運動が好きだ。
足元は柔らかい砂で、サクサクと音がする。
体を優しくほぐす。関節が滑らかに動く。
今日から、乗り手が新しい騎手の鷹に変わる。
「よろしく」
と一声かけて、首元をトントンと叩かれた。
坂道のコースへ入る。木の香りが漂う。
ウッドチップの床だ。
今日は特別な日、思い切り走れる日だ。
コースの入り口。じじいは身構える。
耳を前に向ける。重心を低く落とす。前をじっと見つめる。
「まだだ、我慢しろ」
新しい相棒の声が聞こえる。
手綱が引かれる。グッと力を溜める。
エネルギーが満ちていく。
目印の棒が見えた。あそこが合図の場所だ。
相棒の腰が浮く。手綱がふっと緩む。
「よし、行け!」
合図だ。じじいは大地を蹴った。
体全体が爆発する。四本の足が回転する。
地面が後ろへ流れる。風が顔を切り裂く。
横に、別の馬が見える。
心臓が激しく波打つ。相棒の鼓動も感じる。
息が白く弾ける。筋肉が限界まで伸びる。
――ヒール。
疲労も、呼吸の苦しさも、リセットされる。
目印を通り過ぎる。手綱が優しく引かれた。
少しずつ、速度を落とす。
首をポンポンと叩かれた。
「最高の走りだ」
どうやら、お眼鏡にかなったらしい。新しい相棒が、褒めてくれている。
あとは厩務員の佐々木に預けられ、クールダウンに歩かされる。
「必要なさそうだよな」
と、佐々木が呟いた。
正解である。
部屋へ戻ってきた。冷たい水が降る。
泥と汗が落ちていく。とても気持ちがいい。
冷たい氷が、足に巻かれる。
新しい服を着せてもらう。
全力疾走。そのために、馬は生きている。
大好物のご飯を食べる。
じじいは厩舎で寝ころび、周囲に微細な癒しをばら撒いた。
自身の魔力を増やす、いつもの修行を兼ねて。
おやすみなさい。




