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前世ヒーラーのじじい馬、隠居したいのに長距離レースで無双する 〜こっそり全員癒やしてたら、伝説のステイヤーになってました〜  作者: 猫の造形美


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第12話 馬のお医者様

 新馬戦が終わって数日が経った。


 トレセンの夜は早い。


 午後八時を回ると、静寂が支配する。


 厩舎の灯りは落とされ、かすかな月光が通路を照らしていた。


 馬たちは皆、藁の上で横になっている。


 寝息と咀嚼の音だけが響く。


 その中で、一頭だけが目を覚ました。


 芦毛の牡馬、ユメノワスレナグサ。


 中身は、前世の記憶を持つ大聖者――じじいである。


 じじいは静かに立ち上がった。


 首を振り、周囲の様子をうかがう。


 じじいは馬房の扉に近づいた。


 馬栓棒の隙間から外を見る。


 厩務員たちの気配は、もうない。


 見回りも終わった時間だ。


 じじいは鼻先で、馬栓棒を器用に押し上げた。


 カチャリ、と小さな音が響く。


 慣れた動作で、扉を鼻先で押し開ける。


 足音を忍ばせて、通路へ出た。


 蹄の音を気にして、そろりそろりと歩む。


 無音の歩行。これぞヒーラーの隠密術だ。


 つまり、無音だと思っているのはじじいだけである。


 まずは、左隣の馬房へ向かう。


 そこには、同期の牡馬がいた。


 名前は、タキオンダッシュ。


 期待の素質馬だ。


 だが、先日の調教で脚を痛めていた。


 じじいは馬房の前で立ち止まる。


 格子越しに、中を覗き込んだ。


 タキオンダッシュは、苦しそうに横たわっている。


 右前脚をかばうように、丸めていた。


 じじいは、ヒーラーの眼で彼の脚を視る。


 肉の下、腱の状態が手に取るように分かった。


 右前脚の腱が、赤く腫れ上がっている。


 軽度の腱周囲炎だ。


 放置すれば、競走生命に関わる。


(大丈夫、今治してあげるわい)


 心の中で、そう語りかける。


 じじいは、鼻先をタキオンダッシュの脚へ向けた。


 今夜使うのは、ただのリジェネではない。


 効果の速さと持続を、丁寧に編み込んだ特別製だ。


 こういう特殊な術式を組む時だけ、じじいは心の中で、前世の正式な詠唱を紡ぐ。


『大いなる大地の息吹よ、永続せし癒やしを与えよ』


 持続回復魔法、「リジェネ」。


 一気に治すのではない。


 細胞の自己治癒力を、極限まで高める魔法だ。


 急激な変化は、人間の獣医に怪しまれる。


 じわじわと、自然に治すのが鉄則である。


 目に見えない癒しの波が、タキオンダッシュの脚を包み込む。


 波は、皮膚に静かに染み込んでいった。


 タキオンダッシュが、ふう、と深い息を吐く。


 痛みが和らいだのだろう。


 彼の表情から、緊張が消えていく。


 リジェネの効果は、これから数か月持続する。


 毎秒、少しずつ炎症が引いていく。


 数日後には、獣医も驚くほど回復しているはずだ。


 じじいは満足して、次の馬房へ歩を進めた。


 通路の奥へと進む。


 突き当たりにある、一番広い馬房だ。


 そこには、厩舎の看板馬がいた。


 六歳の牡馬、キングオーシャン。


 オープンまで上り詰めた、我が厩舎きっての名馬だ。


 しかし、最近は極度のスランプに陥っていた。


 年齢による衰えだけではない。


 じじいは、彼の前に立つ。


 キングオーシャンは、起きていた。


 暗闇の中で、虚ろな目をして佇んでいる。


 肉体に、大きな怪我はない。


 問題は、内臓だった。


 過酷なレースの連続で、体が悲鳴を上げていたのだ。


 その影響もあって、燃え尽き症候群に近い状態だった。


(偉大な先輩よ。お前さんには、まだ輝きが必要じゃ)


 じじいは、そっと鼻先を寄せた。


 格子の隙間から、彼の額に触れる。


 馬同士の愛撫のように見せて、魔力を流す。


 今回使うのも、リジェネだ。


 ただし、腹部に重点的に作用する特殊な術式にする。


『天上の静謐よ、疲れ果てた魂に絶え間なき活力を』


 優しい癒しの波が、キングオーシャンの腹部を包んだ。


 このリジェネは、内臓の疲労を少しずつ取り除く。


 幸福感とやる気を司る物質も、持続的に分泌させる。


 キングオーシャンの耳が、ピクリと動いた。


 虚ろだった瞳に、かすかな光が戻る。


 彼は、じじいを見つめた。


 不思議そうな顔をしている。


 温かい何かが、胸の奥で湧き上がっているのを感じているはずだ。


 この魔法も、数か月かけてじわじわと効く。


 朝を迎えるたび、彼は走る喜びを思い出していく。


(よし、これで大丈夫じゃ)


 じじいは、鼻を離した。


 二頭の治療を終え、深い息を吐く。


 馬の肉体での魔法行使は、それなりに体力を消耗する。


 心地よい疲労感が、じじいを包んだ。


 自分の馬房へ、戻らなければならない。


 足音を消したまま、静かに通路を引き返す。


 タキオンダッシュの馬房の前を通る。


 彼は、すでに健やかな寝息を立てていた。


 脚の赤みは、もう少しずつ引き始めている。


 じじいは、自分の馬房に入った。


 鼻先で扉を閉める。


 馬栓棒を、正確に元の位置に落とした。


 カチャリ。


 完全犯罪の成立だ。


 藁の上に、ゆっくりと巨体を横たえる。


 数日前、じじいは新馬戦を快勝した。


 あの一戦で、この世界で何が行われているのか、おおまかに理解した。


 馬たちは皆、同じ勝負の世界を走る仲間だ。


 ならば、ここにいるのは同志であろう。


 前世で救えなかった命も、たくさんあった。


 今生、同僚くらいは助けても、ばちは当たるまい。


 リジェネを使えば、調教の疲れは一晩で完全に消える。


 だから、じじいの肉体は常に万全だ。


(明日の朝の飼い葉が楽しみじゃて)


 じじいは、目を閉じた。


 体内を巡る魔力の残滓を感じながら、深い眠りに落ちていく。


 厩舎には、ただ穏やかな夜の音が満ちていた。


 救われた馬たちの未来が、静かに回り始めていた。


       ★


 翌朝、厩舎は早くから活気に満ちていた。


 担当の厩務員が、じじいの馬房を開ける。


「おい、ワスレナグサ。朝飯だぞ」


 じじいは愛想よくいななき、顔を寄せた。


 厩務員はじじいの体をブラシで梳かしながら、感嘆する。


「お前は本当にタフだな。新馬戦の疲れが全く残っていない」


 当然だ、と心の中でじじいは微笑む。


 その時、隣の馬房から驚きを帯びた声が上がった。


 タキオンダッシュの担当厩務員だ。


「あれ? タキオンの脚、腫れが引いてるぞ」


 すぐに、古谷調教師と獣医が駆けつけてきた。


 獣医が、タキオンダッシュの右前脚を触診する。


「おかしいな。昨日の段階では、全治一ヶ月と踏んでいたんだが」


 獣医は、首を傾げている。


「熱感もほとんどない。細胞の再生速度が異常だ。これなら来週から軽い調整を再開できるぞ」


 古谷調教師が、嬉しそうに声を上げた。


「奇跡の回復力だな! さすが我が厩舎の期待馬だ」


 タキオンダッシュは、何が起きたか分からず、ただ嬉しそうに鼻を鳴らしている。


 じじいは、馬房の隙間からその様子を見て、密かに胸を撫で下ろした。


 リジェネの術式は、完璧に機能している。


 さらに、通路の奥からも、どよめきが聞こえた。


 キングオーシャンの馬房だ。


「おい、キングの目が違うぞ!」


 いつも元気がなく、うつむいていた老雄が、力強く壁を蹴っていた。


 朝日に向かって、高く、鋭くいななく。


「あの覇気が戻ってきた。全盛期の輝きだ!」


 スタッフたちが、歓声を上げる。


 キングオーシャンの心に宿った持続回復の波は、失われていた闘争心を、ゆっくりと呼び覚ましていた。


 彼はもう、スランプの馬ではない。


 じじいは、与えられた飼い葉をのんびりと食み始めた。


 周囲の騒ぎを、他人事のように聞き流す。


 昨夜の患者が、二人とも元気だ。


 医者にとって、これに勝る朝はない。


 じじいは満足感に浸りながら、甘いニンジンを噛み砕いた。


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