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前世ヒーラーのじじい馬、隠居したいのに長距離レースで無双する 〜こっそり全員癒やしてたら、伝説のステイヤーになってました〜  作者: 猫の造形美


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11/13

第11話 新馬終わって

 初めての本番の芝を走り終えた。


 息は乱れていない。心臓の鼓動も静かだ。


 全く疲れていなかった。


 観客の数はそこまで多くないが、熱気は確かにあった。


 検量室の前を見る。


 白髪の調教師の古谷が、小走りで近寄ってくる。


 その顔は涙で濡れていた。


「本当に勝ってしまった……」


 酷い言いようである。


 彼は、すべての馬が未勝利で終わるかもしれないと身構える男なのだ。


 そして、最初の一勝を何より喜ぶ男でもあった。


 厩務員の青年、佐々木もやってくる。


 彼はボロ布でじじいの肌を拭う。


「嘘だろ、全く汗をかいていない」


 青年は呆然と呟く。


 他の新馬たちは泡を吹いて喘いでいるのに、じじいだけは平然と佇んでいる。


「優芽ちゃん、こっちだ!」


 調教師が手招きをする。


 人混みの向こう。車椅子に座った少女が見えた。


 大切な、病弱な馬主。デビュー戦に駆けつけてくれたのだ。


 顔色は白く、体は細い。


 それでも彼女は精一杯の笑顔を浮かべていた。


 目から、大粒の涙をこぼしながら。


(古谷といいお嬢ちゃんといい、なんで泣いとるんじゃ。ちと歩いて一番に戻っただけじゃぞ)


 じじいには、まだこの世界の「一勝」の重さが分かっていない。


 が、そこは年の功。分からずとも、全力で合わせる。


 彼女に近づき、定期健診と魔法の延長を試みようとした。


 しかし、周囲の人間がそれを遮る。


「口取り写真、急いでお願いします!」


 係員の声が響く。


(口取り写真……なんぞそれ?)


 芝生の上の特設エリアに誘導される。


 知ってる顔が並ぶ。


 その中に、牧場関係者の姿はなかった。


 遠く北海道の牧場は、じじいの勝利を予想していなかったのだろう。


 期待されていなかったから、今日、ここに彼らはいない。


 寂しさは、なかった。


(いや、おんぼろ牧場じゃし、単に交通費がないだけかもしれんの)


 貧しい者の懐事情には、優しくありたい。


 偉大なヒーラーとは、そういうものである。


 それに、じじいには優芽がいる。


 随分と好いてくれているようだ。表情でわかる。


 撮影の準備が進む。


 古谷調教師と佐々木厩務員が、じじいの両脇に立つ。


 中央に、車椅子の優芽が導かれた。


 彼女の小さな膝の上に、優勝のプラカードが置かれる。


 重賞ではない、新馬戦の小さな盾だ。


 それでも彼女にとっては、宝物のようだった。


 その手が、震えていた。


 興奮と、体力の限界。両方だろう。


(ふむ。診察の時間じゃな)


 じじいは、静かに魔力を練り上げた。


 温かい癒しの波が、じじいから溢れ出る。


 それは誰の目にも見えない、微細な波動。


 その波を、優芽に向けて放つ。


 優しい癒しが、彼女の小さな体を包み込んだ。


 使ったのは、コスパ最強魔法のリジェネだ。


「あったかい……」


 彼女はこちらを見て、愛おしそうに微笑んだ。


(ふむ、察しが良いのう)


「はい、撮ります!」


 カメラマンの声が響く。


 じじいは、首を高く掲げた。


 耳をピンと前に向ける。


 最高に凛々しい立ち姿を決めた。


 新馬とは思えない風格が、そこにあった。


 最初の、大切な一枚が撮られた。


 古谷調教師は、また泣いている。


 佐々木厩務員は、誇らしげに胸を張っている。


 撮影が終わり、付き添いの大人が優芽の車椅子を押す。


 優芽は、名残惜しそうに振り返った。


「次も応援するね」


 じじいは、小さくいなないて応えた。


(大丈夫じゃ、お嬢ちゃん。わしの癒やしがあれば、まだまだ長生きできるわい)


 前世では、人を癒すために生きた。


 今世では、あの子を救う。


 それが、まずは最初の目標じゃ。


(……さて、寝るか。魔力が切れて、もう限界じゃて)


       ★


 レース後の厩舎は静かだった。


 夕方の光が、西の窓から差し込む。


 じじいは馬房の中で、首を下げて完全にダレきっていた。


 走った後のリラックスは、格別である。


「おい、ご褒美だぞ」


 厩務員の佐々木が、バケツを持ってきた。


 中には、細かく刻まれたリンゴ。


 甘い香りが鼻腔をくすぐった。


 鼻先を近づけ、サクサクと音を立てて食べる。


 口いっぱいに果汁が広がった。


 馬の味覚は、意外と鋭い。


 じじいは目を細め、だらしなく口を動かした。


 リンゴを噛み砕く音が、厩舎に響く。


 馬房の前の通路に、二人の男女が立っていた。


 白髪の古谷調教師。そして、女性調教助手の稲葉だ。


 二人は難しい顔で、資料を見ている。


 彼らの会話が、じじいの耳に届いた。


「次の鞍上、どうする」


 稲葉が低い声で切り出した。


「新馬戦の若手、悪かったですね……」


 古谷が顎をさする。


「ああ、次は別の騎手がいい」


 稲葉が首を縦に振った。


 それだけで、次戦の騎手交代が決定した。


「この馬は、まだまだ奥が深いですよ」


「新馬戦は馬の力だけで勝ったようなものだ」


「上のクラスでは、技術のある鞍上が必要だと思います」


 二人の意見は一致していた。


 じじいは、リンゴを咀嚼しながら聞く。


 誰が乗っても、じじいの力は変わらない。


 だが、上手な騎手の方が、背中が楽なのは確かだ。


「目標は、ホープフルステークスだ」


 古谷が強い口調で言った。


「2歳の中距離G1レース。暮れの中山競馬場で行われる。準備してくれ」


 だが、稲葉の顔は曇る。


「そこに行くには、賞金が足りません」


「もう一勝して、賞金を積まねばならん」


 古谷の目は本気だった。


 彼は、大きな期待を寄せている。


 しかし、その古谷が、ため息をついた。


「問題は、次走の番組だ」


 古谷は、開催表を指でなぞる。


「この馬のスタミナは異常だ」


「新馬戦の距離では短すぎましたね」


「もっと長い距離を走らせたい」


 稲葉が深く頷いた。


「同感です。2000メートルは欲しいわ」


「できれば2400メートルでもいいくらいだ」


 古谷の顔が、さらに曇る。


「だが、今の時期の2歳戦を見てみろ」


「短距離のレースばかり……」


「1200や1400が主流だ」


「長距離のレースが、本当に無い」


 日本の競馬は、若い馬には短い距離を用意する。


 それが一般的なローテーションだ。


 長距離向きの馬には、厳しい世界である。


「1600の重賞に突っ込みますか?」


 稲葉が提案する。


「いや、マイルの流れは忙しすぎる」


 古谷は否定した。


「この馬のゆったりした走りを崩したくない」


「2歳秋の長距離不在、これほど悩むとは思いませんでした」


 贅沢な悩みだと、古谷は苦笑した。


 普通は、距離が持たなくて悩む。


 じじいは逆に、距離が短すぎて困られている。


 息を切らすことなく、永遠に走り続けられる馬。


 直線の短い競馬場は、舞台として狭すぎるのだ。


「いっそ、地方の交流重賞に行きますか」


「いや、芝の長距離にこだわりたい」


 二人の議論は白熱していく。


 なかなか結論は出そうにない。


 じじいは、最後のリンゴの一片を飲み込んだ。


 ペロペロとバケツの底を舐める。


 甘い味が消えていくのが、名残惜しい。


 大きなあくびをした。涙が少しだけ目に浮かぶ。


 人間たちの悩みは、尽きない。


 だが、じじいにできることは一つだけだ。


 馬房の隅で、静かに目を閉じた。


 余った魔力を、こっそり厩舎中にばら撒きながら。


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