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第35話 「灰の市場 ― 一時の休息」

第35話 「灰の市場 ― 一時の休息」


 ――港湾区外縁・市場区第三区。


 そこだけ、まだ人間が生きていた。


 崩れた高架道路の下。


 鉄骨と金属板を繋ぎ合わせた簡易屋台が、狭い通路の両脇に並んでいる。


 古い発電機が唸る。


 非常灯が青白く瞬く。


 魚を焼く匂い。


 焦げた油。


 安い煙草。


 潮風。


 そして、火薬。


 瓦礫と黒煙に沈んだ港湾区の中で、この市場だけは、奇妙なほど騒がしかった。


「値引きしろって言ってんだろ!」


「嫌なら他所行きな!」


「発電ケーブル一本、弾薬二箱と交換だ!」


「医療用アルコールあるぞ! 本物だ!」


 怒鳴り声。


 笑い声。


 泣く子供。


 鍋を叩く音。


 崩れた世界の中で、人間はまだ飯を食い、物を売り、喧嘩をしていた。


 ノアたちは、ヘリを少し離れた駐機場へ停め、市場へ向かって歩いていた。


 アシュレイが周囲を見回す。


「……まさか、こんな場所がまだ生きてるとはな」


 義手の整備屋。


 片目を失った少年。


 弾痕だらけの露店。


 配線を奪い合う男たち。


 崩壊した世界の“生活”が、そこにあった。


 ネロが煙草を咥えながら肩をすくめる。


「港湾区の戦線からギリ外れてたからな。非戦闘地帯扱いだ」


「非戦闘地帯にしちゃ、物騒だな」


「市場ってのは大体そういうもんだ。特に戦争後はな」


 ソフィアが全員を見る。


「各自十五分。必要な物資だけ確保して」


 銀の瞳が静かに動く。


「ネロは弾薬。カサンドラは通信端末更新。ノアは医療物資確認。アシュレイは――」


「俺は?」


「迷子にならないこと」


「子供扱いかよ」


 ネロが笑う。


「新入りだからな」


「ブラック企業の新人研修、雑すぎんだろ」


 カサンドラが端末を開きながら言った。


「文句を言う暇があるなら周囲警戒。右上、廃ビル三階。見られてるわ」


 アシュレイは目だけ動かした。


「……商人じゃねぇな」


「武器目当ての盗人よ。殺さなくていい」


「優しいな」


「弾がもったいないだけ」


「やっぱ怖ぇな、この組織」


 ソフィアは小さく息を吐く。


「十五分後、集合地点へ」


 彼らは、市場の喧騒へ散っていった。


     ◆


 ノアは人混みを歩いていた。


 肩がぶつかる。


 怒声が飛ぶ。


 遠くで瓶が割れる。


 だが、それらはすべて“日常”として流れている。


 ノアはふと足を止めた。


 小さな屋台。


 古びた鉄鍋。


 中では、薄いスープが静かに煮立っていた。


 湯気。


 野菜の匂い。


 焦げた肉の欠片。


 年老いた屋台主が顔を上げる。


「兄ちゃん。温かいの、食ってくかい?」


 ノアは鍋を見つめた。


 その匂いが、妙に記憶を揺らした。


「……二人分、もらえるか」


「おうよ」


 背後から声がした。


「おいおい、勝手に俺の分まで注文すんなよ」


 アシュレイだった。


 スコープケースを片手に、苦笑している。


「俺、金ねぇぞ」


「知ってる」


「奢り?」


「貸し一つだ」


「高ぇスープになりそうだな」


 屋台主が笑った。


「兄ちゃんら、仲良いな」


 アシュレイが椅子に腰を下ろす。


「腐れ縁だよ。戦場で死に損ね続けただけだ」


「そりゃ長い付き合いになるわけだ」


 錆びた金属カップが二つ、差し出される。


 湯気が立っていた。


 味は薄い。


 肉も少ない。


 でも、温かかった。


 アシュレイが一口飲む。


「……っはぁ」


 一拍。


「戦場の後に飲むスープって、なんでこんな沁みるんだろうな」


 ノアも口をつける。


 温かさが、冷えた身体へ落ちていく。


「……こういう匂い、昔は嫌いじゃなかった」


 アシュレイが横目で見る。


「昔?」


「戦争前」


 短い返答。


「誰かが料理してる匂いって、落ち着いた」


 一拍。


「今は、火薬の匂いの方が慣れてる」


 アシュレイは少し黙った。


 そして、小さく笑う。


「変わってねぇな、お前」


「何が」


「ちゃんと人間見てるとこ」


 ノアはスープを見つめる。


 市場の喧騒。


 子供の笑い声。


 鍋の音。


 人間が生きている音。


「俺たちは、壊すことばかり覚えた」


 一拍。


「だから、作る人間の場所を忘れたくない」


 アシュレイが目を細める。


「……やっぱ、お前変だよ」


「悪いか」


「いや」


 少し笑う。


「嫌いじゃねぇ」


     ◆


 少し離れた場所。


 ソフィアは、その二人を見ていた。


 隣ではカサンドラが端末を操作している。


「……昔から、あんな感じなの?」


「ええ」


 ソフィアは静かに答えた。


「戦場の真ん中でも、ノアは“人間”を見失わなかった」


「だから周囲が引っ張られる」


 カサンドラが呟く。


「アシュレイも、そのタイプね」


「似ているのよ。あの二人」


 一拍。


「壊れ方が」


 カサンドラが視線を向ける。


「情だけじゃ、組織は動かせない」


「分かってる」


 ソフィアは市場を見る。


 笑う人。


 飯を食べる人。


 瓦礫の横で眠る子供。


「だからこそ、こういう時間を大事にしたいの」


 一拍。


「守る価値を忘れたら、私たちはただの兵器になる」


 カサンドラは少しだけ目を伏せた。


「……あなたらしいわね」


 ソフィアは答えなかった。


 ただ、煙草を取り出しかけて――やめた。


     ◆


 十五分後。


 集合地点。


 ネロが工具箱を放り込みながら戻ってきた。


「弾薬、最低限確保。燃料二十リットル追加。あと、変な酒売ってたから買っといた」


 ソフィアが眉をひそめる。


「必要?」


「歓迎会には必要だろ」


「仕事中よ」


「戦場帰りだぞ。少しくらい許せ」


 アシュレイが笑う。


「この組織、意外と人間味あるな」


「幻覚だ」


 ネロが即答する。


 カサンドラが端末を閉じた。


「通信更新完了。ただ、この区域……妙にノイズが多いわ」


 ソフィアの目が細くなる。


「監視?」


「断定はできない。でも、“誰か”が回線を覗いてる」


 アシュレイが空を見る。


「市場にまで神様の目かよ」


 ノアも同じ方向を見る。


 灰色の雲。


 その奥。


 一瞬だけ、何かがこちらを見ているような感覚があった。


 だが、すぐに消えた。


『こちらカイン。離陸準備完了だ』


 通信が入る。


 ソフィアが頷く。


「戻るわよ」


     ◆


 ヘリが再び浮上する。


 市場区が小さくなっていく。


 灯り。


 人影。


 屋台の煙。


 壊れた世界の中で、それでも生き続ける街。


 ノアが窓の外を見ながら呟いた。


「……あの人たちが、俺たちの戦う理由なんだろうな」


 アシュレイがスコープを拭きながら返す。


「“守る”って言葉、俺はあんま好きじゃねぇ」


「じゃあ何て言う」


「壊されないようにする」


 一拍。


「それで十分だろ」


 ノアは小さく笑った。


「……らしいな」


     ◆


 数時間後。


 ヘリは、海沿いの断崖へ到着した。


 巨大な鉄扉。


 波に削られた岩壁。


 偽装された地下搬入口。


 重低音と共に、防壁が開いていく。


《Zero Bullet Sub Base/HANGAR–13》


 機体がゆっくり格納庫へ降下する。


 波の音が途切れる。


 分厚い隔壁が閉じる。


 そこは“帰る場所”ではない。


 “生き延びるための場所”だった。


 ネオンが端末を操作しながら顔を上げる。


「おかえり。戦闘ログは解析中」


 一拍。


「思ったより綺麗に片付けたじゃない」


 アシュレイが片手を上げる。


「初仕事だからな。見栄くらい張っとかねぇと」


 リリスが微笑む。


「あなたが正式に入るなんて、誰も予想してなかったわ」


「俺もしてねぇよ」


「今さら逃げる?」


 カサンドラが聞く。


「辞表って受理される?」


「されない」


 ソフィアが即答した。


「早ぇな」


「考える必要がないもの」


 機内に小さな笑いが流れる。


 そして、ソフィアが軽く手を叩いた。


「じゃあ――今日は歓迎会でもしましょうか」


 ネロが吹き出す。


「歓迎会?」


 カサンドラが珍しく口元を緩めた。


「ここで“宴”なんて単語、久しぶりに聞いたわ」


     ◆


 数分後。


 テーブルに並べられたのは――


 缶コーヒー。


 非常食。


 栄養バー。


 市場で買った怪しい酒。


 乾燥肉。


 どこかで余っていたクラッカー。


 質素だった。


 あまりにも質素だった。


 だが、戦場帰りの身体には十分すぎるご馳走だった。


 アシュレイが缶を開ける。


 プシュッ――。


「……悪くねぇな」


 一口飲む。


「命懸けで帰ってきて、缶コーヒー一本で笑えるってのは」


 ネロが怪しい酒の瓶を眺める。


「これ、飲んで大丈夫か?」


 カサンドラが匂いを嗅ぐ。


「消毒には使えそうね」


「飲み物じゃねぇのかよ」


「死にたいならどうぞ」


 アシュレイが笑う。


「新入り歓迎会で毒見とか、やっぱ怖ぇ組織だな」


 リリスが缶コーヒーを差し出す。


「こっちにしておきなさい。死なないから」


「ありがたいね」


 ノアは静かに缶を持つ。


 冷たい金属。


 小さな音。


 笑い声。


 誰も死んでいない時間。


 それだけで、少しだけ不思議だった。


 アシュレイがノアを見る。


「何だよ」


「いや」


 ノアが小さく微笑む。


「……そういう時間があるなら、まだ生きてる」


 静かな笑い声が、地下格納庫へ広がっていく。


 長い戦いの果て。


 ようやく訪れた、小さな休息。



――次回更新:明日17:30公開予定


ここまで読んでいただきありがとうございます。

少しでも面白いと感じていただけたら、ブックマーク・評価・感想で応援していただけると嬉しいです。


『ゼロバレット』続編、第36話「宴と砂の記憶」――


をお楽しみに。


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