第32話 「取引の影 ― 灰の市場にて」
――東部経済圏、バルディア旧港区。
夜霧が港を覆っていた。
海鳴り。
遠くで軋む貨物船。
濡れた鉄の臭い。
潮風に混じる火薬と油の匂い。
この街には、“表”と“裏”の境界がない。
あるのは――価値だけだ。
かつて交易都市として栄えたバルディア。
だが戦争が終わった今、この街で流通しているのは食料でも資源でもない。
兵器。
情報。
臓器。
人格データ。
そして、“神の残骸”。
裏市場。
そこでは国家ですら、一つの顧客に過ぎなかった。
法も秩序も意味を持たない。
現金。
沈黙。
恐怖。
それだけが、この街の通貨だった。
霧の中を、一台の黒い装甲車が滑るように進む。
ライトを消したまま、静かに停車。
数秒後。
後部ドアが開いた。
最初に降り立ったのは、一人の女。
漆黒のスーツ。
銀色の長髪。
鋭く冷たい瞳。
ソフィア・ヴァレンタイン。
《Zero Bullet》統括責任者。
そして裏社会で、“銀の女帝”と呼ばれる存在。
ヒールが濡れた地面を鳴らす。
コツ。
コツ。
その背後から、男が降りる。
白リネンのシャツ。
ラフに開けられた襟元。
だが目だけは獣みたいに鋭い。
ネロ。
《Zero Bullet》戦闘統括。
さらに最後。
白いコートを翻しながら、一人の女が姿を現した。
長い銀髪。
冷たい横顔。
薄く笑う口元。
カサンドラ・リース。
“内部粛清官”。
組織内では、《白き天秤》の名で恐れられている。
三人が並ぶ。
その瞬間。
港の空気が変わった。
見えない緊張が走る。
周囲の監視員たちが、一斉に息を呑んでいた。
ソフィアが銀のライターを弾く。
カチッ――。
青白い火が灯った。
「……時間ぴったりね」
煙草へ火をつける。
紫煙が夜霧へ溶けた。
ネロは無言のまま周囲を見渡していた。
視線だけで、配置を読む。
屋上。
クレーン上。
コンテナ影。
ドローン。
逃走経路。
射線。
全部、頭の中へ叩き込んでいく。
「監視ドローン三機」
低い声。
「狙撃位置は北東二。
港側に車両待機。
……逃がす気はねぇな」
「そういう場所よ」
カサンドラが静かに答える。
「この街で“歓迎”されるのは、死人だけ」
ネロが笑う。
「違いねぇ」
ソフィアは煙を吐きながら言った。
「バルディアは、“死体の上に成り立った経済圏”だもの」
一拍。
「むしろ礼儀正しい方よ」
三人は倉庫街を歩く。
霧。
鉄。
沈黙。
遠くで誰かが悲鳴を上げた。
だが誰も気にしない。
この街じゃ、“死ぬ側”が悪い。
◆
巨大倉庫の奥。
無骨な鉄机。
薄暗い照明。
そこに、一人の男が座っていた。
灰色のスーツ。
細い眼鏡。
右手の指には、企業ロゴ入りのリング。
ミロス・トン。
表向きはエネルギー企業《ヴァルナ社中》の取締役。
だが裏では、
“神兵計画”関連データを闇市場へ流す仲介人。
戦争後の世界で、最も危険な情報ブローカーの一人だった。
ミロスが乾いた笑みを浮かべる。
「……これは驚いた」
視線がソフィアへ向く。
「まさか、“銀の女帝”と“白き天秤”が揃って来るとはな」
ネロが椅子を引いた。
「歓迎は無しか?」
「歓迎できる相手じゃない」
ミロスが笑う。
「君らは“交渉”じゃなく、“結論”を持ってくる連中だ」
ソフィアが静かに腰を下ろした。
「交渉は好きよ」
一拍。
「無駄が嫌いなだけ」
ミロスの目が細くなる。
「秤の掃除屋が、わざわざ裏市場に来るとはな」
「掃除も事業の一環よ」
ソフィアの声は静かだった。
「あなたたちが撒いた灰を、誰かが片付けるだけ」
カサンドラが腕を組む。
「Prototype系列の流通経路」
机へデータ端末を投げた。
「リスボニア自治区からバルディアへ。
その仲介が《ヴァルナ社中》」
一拍。
「否定する?」
ミロスは煙草へ火をつける。
「否定はしない」
紫煙。
細い笑み。
「だが俺たちは、“運んだ”だけだ」
「送り主は?」
「……《設計者》だ」
空気が変わる。
ネロの目が細くなる。
「ザラキエルか」
「そう呼ぶ奴もいる」
「本名は?」
ミロスが笑った。
「そんなもん知ってる奴が、生き残れると思うか?」
カサンドラが静かに呟く。
「つまり、“知ってる”のね」
ミロスの笑みが止まった。
「……怖ぇ女だな」
「よく言われる」
ソフィアがライターの火を吹き消す。
「じゃあ、取引成立ね」
「……は?」
ミロスが眉をひそめる。
「俺、まだ何も――」
「十分よ」
ソフィアが微笑む。
「あなたの“沈黙”が、一番価値ある情報だった」
その瞬間。
――パァン!!
乾いた銃声。
倉庫外で火花が散った。
空気が凍る。
ネロが即座に動いた。
椅子を蹴り飛ばし、入口横へ滑り込む。
拳銃抜刀。
「……外だ」
低い声。
「五。
いや六」
一拍。
「装備軽い。
軍じゃねぇ」
カサンドラの目が冷える。
「抹消部隊」
「ザラキエル側か」
「ええ」
ソフィアはミロスを見た。
「あなた、通報した?」
「してねぇ!!」
ミロスが青ざめる。
「俺も消される側だ!!」
その瞬間。
倉庫入口が吹き飛んだ。
閃光。
突入。
黒装束の男たち。
だが。
ネロの方が速かった。
パシュッ――!!
サプレッサー音。
先頭の男の額が弾ける。
続けて二発。
喉。
胸。
崩れ落ちる。
カサンドラがコート内側から仕込み銃を抜いた。
乾いた三連射。
侵入者二人が倒れる。
ソフィアは座ったまま煙草を吸っていた。
「……遅いわね」
ネロが笑う。
「最近の殺し屋、質落ちたな」
残った一人がナイフを投げる。
瞬間。
カサンドラが横へズレる。
同時に、首筋へ銃口。
「さよなら」
パァン。
血が壁へ散った。
静寂。
ミロスが震えていた。
「お、お前ら……
本当に化け物だな……」
ソフィアがゆっくり立ち上がる。
「違うわ」
一拍。
「“慣れてる”だけ」
彼女はミロスへ歩み寄った。
ヒール音だけが響く。
コツ。
コツ。
ミロスが後ずさる。
「ま、待て……!」
「安心して」
ソフィアが耳元で囁く。
「あなたを殺しに来たわけじゃない」
一拍。
「今はまだ」
ミロスの喉が鳴る。
ソフィアは机へ視線を落とした。
「《ザラキエル通信暗号》」
静かな声。
「持ってるわね?」
「知らねぇ……!」
「嘘」
「本当だ!!」
「あなた、嘘つく時だけ呼吸が浅くなるの」
ミロスの顔色が変わった。
ネロが笑う。
「終わったな、おっさん」
「や、やめ――」
カサンドラが机裏からUSBチップを引き抜いた。
小さな銀色の媒体。
だが。
そこには、“神の座標”が詰まっていた。
ソフィアが煙を吐く。
「……取引終了」
◆
三人が倉庫を出る。
ネロが歩きながら、小型起爆端末を親指で弾いた。
その瞬間。
背後で爆発。
炎が夜霧を赤く染めた。
海風が吹く。
冷たい霧が街灯を滲ませる。
カサンドラがUSBを見ながら呟く。
「“神の工場”……」
一拍。
「まさか、本当に実在するなんて」
ネロが肩をすくめる。
「最近、“まさか”ばっかだな」
「神兵。
人格模倣。
END計画」
カサンドラの目が細くなる。
「……全部、繋がってる」
ソフィアは煙草を咥えたまま空を見る。
灰色の雲。
その奥。
見えない“何か”。
「秩序を作ったのが人なら――」
ライターの火が灯る。
「神もまた、“製造物”よ」
ネロが苦笑した。
「だったら壊せるな」
「ええ」
ソフィアの銀の瞳が細くなる。
「壊せるわ」
三人は霧の街を歩き去る。
その背後。
燃え上がる倉庫の炎だけが、夜の港を赤く照らしていた。
――次回更新:今日12:00公開予定
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『ゼロバレット』続編、第33話「灰の契約 ― 天秤の上で」――
をお楽しみに。




