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空が白みがかってきた。谷底から昇ってくる煙はわずかになり、焦げ臭いにおいも感じなくなってきた。燃え尽きた黒焦げのハイラックスは、無残な姿で底に蹲っている。
私は腕時計を見る、予定時刻の『5:40』を示している。
顔を上げると同時に爆音が轟いた。強烈な轟音で一瞬耳が聞こえなくなった。内圧で一度膨張した古屋敷の右半分が吹っ飛ぶ。放散する破壊エネルギーは想像以上に凄まじく、爆風とともに火のついた築材やガラスや金属が四方八方に飛散する。衝撃の熱波はここまで届いた。
屋敷の内部からは一気に火の手が上がり、屋根の素材である乾いた萱に燃え移っていく。まるで凶悪な意思を持った化け物のように、炎が屋根を這い上がっていく。
椿本の居住空間だったあたりは真っ黒な煙に閉ざされ、内部のなにもかもが粉砕、あるいは焼け崩れる激しい破裂音が飛び交っている。空高く飛ばされた残骸が、私の足元まで届いた。
雑木林に潜んでいた鳥たちが悲鳴を上げ、一斉に飛び立っていった。…時限発火装置は予定通りの仕事をした。
私はレンタカーに乗り込むと、悪路をゆっくり降りていく。車の腹下を突き上げぬよう路面に気を配りながら、この20年という月日を回想しはじめた。
…藤松勇市殺害後、慶城湖畔で遭遇した楢崎からその晩に電話があった。当時住んでいた実家の黒電話にだ。
なんの前置きもなく明日東京へ来てくれとの内容だった。私は強引な要求と感じたが、勇市殺害の一部始終を目撃されていることと、それ以上にただ者ではない雰囲気を持つ楢崎の要求を断る勇気がなかった。
翌日、松本から特急列車に乗り東京に向かった。鉄道に乗るのは修学旅行以来だが、憂鬱な気分が先立って、窓外の景色など見ることもなく都内に入った。
昨夜の会話中にメモした紙切れを頼りに、東京都杉並区にある『高円寺駅』に降り立ち、目的のマンションを探す。蒸し暑い都会の空気と雑踏の多さに辟易したが、駅からさほど移動せずにそのマンションは見つかった。
まだ新しい20階建てのマンションのエレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。無音で上昇していく箱の中で、楢崎の素性について考えた。会社を経営している金銭的に裕福な部類の人間だと思うが、それ以外は想像できない。ただ、あの戦慄を覚える『眼』の鋭さは、まともな一般人のそれではないことはわかる。
チャイム音で最上階の扉が開き、私は通路を進む。手すりの向こうに、真夏の『東京』がどこまでも拡がっていた。ビル風が吹きあがる眼下に目をやると、豆粒状の人間たちが往来しているのが見えた。それは『蟻の行列』を想起させた。
部屋番号を確認しながら進む、一番奥が楢崎の住居と思われる部屋だった。私は少し緊張した気分で玄関前に立った。
無機質で頑丈そうな玄関に表札などは示されていない、メモの部屋番号を一度確認してからチャイムを押した。チャイムの上にはカメラ付きのインターホンがあった。ふと見上げると、玄関の上に防犯カメラらしきものも設置されている。…都会の暮らしとはこういう感じか、と思う。
内部で鍵を解除する気配があり、重そうなドアが開く。顔を出したのは若い女性だった。私は自らを名乗ろうと構えた時に、
「どうぞ」
と抑揚のない言葉で出迎え、女性はそのまま背を向けて歩きだした。装飾品もなにもない玄関でスニーカーを脱ぎ、廊下を歩く。まるで生活感を感じない住居だ。女性は突き当りの部屋に入っていったので、私も続いた。
入った広いリビングルームは住居ではなく、事務所兼応接室のようだった。窓の向こうの『東京』を背後にした大きなデスクにあの男が座っていた。机上の書類らしきものから顔を上げると、
「遠いところからわざわざ来てもらって申し訳なかったね」
あの時と同じ薄茶色のサングラスをかけた楢崎が微笑んだ。あの時はハンティング帽を被っていたが、今は白髪混じりの髪を後ろになでつけている。




