第7話|お前じゃないと
――狐視点
朝から、狸の顔をまともに見られなかった。
別に、何かされたわけじゃない。
いや。
された。
昨夜。
自分から狸の部屋へ行って、左脚まで揉んで。
終わったと思ったら、不意に足で押されて。
畳へ尻餅をついた自分の膝から、太腿、腹、胸へ。
狸の足裏が、ゆっくり這い上がってきた。
そこまではいい。
よくないが、狸が勝手にやったことだ。
問題は、そのあとだった。
狸が足を引いたとき。
自分は――。
「…………」
狐は荷台を拭いていた手を止めた。
思い出しただけで、掌が妙に熱い。
――掴んだ。
離れていく狸の足首を。
自分から。
怪我の手当てでもない。
再発予防でもない。
狸に頼まれたわけでもない。
ただ。
離れていく足を見たら。
身体が勝手に動いた。
「……何やってんだ、俺」
小さく吐き捨て、布巾を握り直す。
考えるな。
昨日のことは忘れろ。
仕事をしていれば、そのうちどうでもよくなる。
そう思っていた。
なのに。
昼を過ぎた頃には、別のことを考えていた。
――今日は、どうする。
右脚はもう治っている。
左脚だって何ともない。
だから、今日こそ本当に揉む理由はない。
ないのだが。
昨日もそうだった。
理由なんてなかったのに、結局やった。
狸も嫌がってはいなかった。
「……知らねえ」
誰に言うでもなく呟く。
別に。
今日もやると決めたわけじゃない。
ただ。
狸が「やれ」と言うなら。
仕方なく。
本当に仕方なく。
少しくらいなら――。
「狐」
背後から声がして、肩が跳ねた。
振り返る。
狸がいた。
「……何だよ」
「何怒ってんだ」
「怒ってねえ」
「そうか」
相変わらず、気の抜けた顔。
昨夜あんなことをしたくせに。
狸はいつも通りだった。
それが。
少し腹立たしい。
「今日なんだけど」
狸が言った。
胸が。
ほんの少し鳴った。
今日。
その一言だけで。
昨夜の熱が掌へ戻ってくる。
けれど。
狸の口から出たのは、考えていたものとは違った。
「今日はいい」
「……は?」
「毎日やらせるのも悪いしな」
狸は少し離れたところへ目を向けた。
そこには。
うさぎとカラスがいた。
「カラスに頼む」
一瞬。
意味が分からなかった。
「……何を」
「脚」
「…………」
狸を見る。
カラスを見る。
もう一度、狸を見る。
「なんで」
口から勝手に出た。
狸がこちらを見る。
「なんでって」
「だから、なんでカラスなんだよ」
「誰でもいいだろ」
誰でも。
その言葉が。
妙に引っかかった。
「……俺がやる」
「いい」
あっさり返された。
胸の奥に。
何かが刺さった。
「何がいいんだよ」
「もう怪我も治ってる。毎日お前にやらせる理由もない」
「…………」
正しい。
自分でも。
何度もそう思っていた。
怪我は治った。
再発予防だって、もう言い訳にならない。
だったら。
誰がやっても同じだ。
狐じゃなくても。
――同じ。
「……勝手にしろ」
顔を逸らした。
別に。
どうでもいい。
狸の脚だ。
誰に触らせようが、狸の勝手だ。
自分には関係ない。
そう思った。
本当に。
そう思ったはずだった。
*
「では、ここですか」
「その辺」
少し離れたところから、カラスの声が聞こえる。
狐は人力車の車輪を点検するふりをしていた。
必要以上に。
同じところを拭いている。
見なければいい。
狸が誰に脚を触らせようが、自分には関係ない。
分かっている。
なのに。
気づけば。
視線がそちらへ向いていた。
狸が腰掛けている。
片脚を伸ばして。
その前に。
カラスがしゃがんでいる。
黒い足袋へ。
カラスの手が伸びた。
狐の指が止まる。
紐が解かれる。
昨日。
自分が解いた紐。
布が踵から抜ける。
昨日。
自分の手で包んだ足首が露わになる。
そこへ。
カラスの手が触れた。
「…………」
胸の奥が。
ざらついた。
何だ。
これ。
カラスがふくらはぎを押す。
狸が何か言う。
カラスが返す。
普通だ。
何もおかしくない。
ただ。
脚をほぐしているだけ。
自分がやってきたことと。
何も変わらない。
――変わらない。
それなのに。
嫌だった。
狐は強く布巾を絞った。
何が嫌なのか。
分からない。
カラスが嫌いなわけじゃない。
狸が嫌がっているわけでもない。
自分がやらなきゃいけない理由だってない。
なのに。
カラスの指が狸の脚を押すたび。
腹の奥が。
むずむずする。
いや。
違う。
もっと。
嫌な感じだ。
「……何なんだよ」
思わず漏れた。
狸の脚へ触れている手を見る。
そこは。
昨日。
自分が触った。
その前も。
その前も。
狸の足首の太さも。
ふくらはぎの硬さも。
膝の裏を押したときの反応も。
太腿のどこが張りやすいかも。
知っている。
なのに。
今は。
そこへ別の奴が触っている。
――俺がやってたのに。
そう思った瞬間。
今度は。
自分に腹が立った。
何だ、それ。
狸は。
自分のものじゃない。
そもそも。
自分は狸の何なんだ。
相棒。
仕事仲間。
それだけだ。
だったら。
カラスが触ったところで――。
「狐」
「っ」
顔を上げる。
狸と目が合った。
見られていた。
反射的に視線を逸らす。
「何だよ」
「いや」
それだけ。
狸はまた前を向いた。
胸が。
余計にざわついた。
何なんだ。
何で今こっちを見た。
俺が見てたの。
気づいてたのか。
狐は乱暴に車輪を拭いた。
もう見ない。
絶対に見ない。
そう決めた。
十秒も保たなかった。
また見た。
カラスの手が。
狸の膝へ近づいている。
「…………」
そこから先。
自分は知っている。
膝の裏。
太腿。
狸の熱。
触っているうちに。
冷たかった自分の手まで。
温かくなっていく。
昨夜。
狸の足が自分の身体へ触れたときも。
熱かった。
その熱を。
今は。
別の奴が触っている。
胸の奥が。
強く縮んだ。
「……やっぱ駄目だ」
気づけば。
歩き出していた。
「カラス」
呼ばれたカラスが顔を上げる。
「はい」
「もういい」
「?」
「俺がやる」
カラスが瞬きをした。
狸も狐を見る。
「狐」
「何だよ」
「さっき勝手にしろって言ってなかったか」
「言った」
「じゃあ――」
「気が変わったんだよ!」
思ったより。
大きな声が出た。
少し離れたところにいたうさぎまで振り返る。
狐は構わず。
カラスの隣まで来た。
「代われ」
「まだ途中ですが」
「いいから」
「しかし狸さんは――」
「俺がやる!」
カラスが狐を見る。
ほんの一瞬、その視線が妙に長かった。
「……何だよ」
「いえ」
「何だよ」
「何でもありません」
本当に。
何でもなさそうな顔で。
カラスはまた狸の脚へ視線を戻した。
それが。
余計に腹立たしい。
すると。
「へえ」
うさぎの声がした。
「なんやカラス。お前でも他人に興味あるんやな」
「ありませんよ」
「今めっちゃ狐のこと見とったやん」
「見ていただけです」
「それを興味ある言うんちゃうんか」
「違います」
「何が違うねん」
「分かりません」
「自分でも分からんのかい」
うさぎが呆れたように笑う。
今は。
そのやり取りすら耳障りだった。
「とにかく代われ」
カラスが狸を見る。
「どうしますか」
狐も。
狸を見る。
狸は少し黙っていた。
それから。
「なんでだ」
「……は?」
「カラスでも同じだろ」
また。
同じ。
胸の奥が。
強く反発した。
「同じじゃねえ」
言ってから。
自分で驚いた。
狸の目が。
まっすぐ狐を捉える。
「何が?」
「…………」
何が。
分からない。
カラスの方が下手だから。
違う。
力加減が分からないから。
違う。
怪我が心配だから。
もう治っている。
口を開く。
何も出てこない。
狸が。
静かに待っている。
「狐?」
「…………」
腹が立つ。
狸に。
カラスに。
何より。
答えられない自分に。
「……分かんねえよ」
やっと。
それだけ出た。
「分かんねえけど……」
言いたくない。
言ったら。
何かが変わる気がする。
でも。
カラスの手が狸に触れているのを見る方が。
もっと嫌だった。
拳を握る。
「……嫌なんだよ」
空気が止まった。
言ってしまった。
何が嫌なのか。
そこまでは。
分からない。
ただ。
嫌だった。
それだけは。
分かった。
狸は何も言わない。
カラスも。
そして。
「ほなカラス、行くで」
突然。
うさぎが言った。
「どこへですか」
「ええから」
「まだ終わってませんが」
「もう終わった終わった」
「狸さんの脚が?」
「ちゃうわ。お前の仕事がや」
うさぎがカラスの腕を掴む。
「待ってください。なぜ私まで行くんです?」
「お前がおったら話進まへんからや」
「何の話ですか」
「……ほんま、そういうとこやぞ、お前」
「どういうところですか」
「後で説明したるから、とりあえず来い」
引っ張られていくカラスは。
本当に分かっていないらしい。
途中で一度だけ。
振り返った。
また。
狐を見る。
何かを考えるような目。
けれど。
「前見て歩け!」
うさぎに引かれ。
そのまま二人は行ってしまった。
急に。
静かになった。
そこで初めて。
取り返しのつかないことを言った気がした。
狸と。
二人きり。
さっきまで。
あれほど腹が立っていたのに。
今度は。
別の意味で顔を上げられない。
――嫌なんだよ。
自分の声が。
頭の中で繰り返される。
何が嫌なんだ。
カラスが狸に触ること。
どうして。
狸は。
自分のものじゃない。
誰に触らせようが。
狸の自由だ。
それなのに。
「……悪かった」
狸が言った。
顔を上げる。
「……何が」
狸は。
少しだけ黙った。
「いや」
「何だよ、それ」
意味が分からない。
狸が。
何を謝っているのか。
悪いことなんてしていない。
カラスに頼んだだけだ。
勝手に腹を立てて。
勝手に割って入って。
勝手に嫌だと言ったのは。
自分だ。
なのに。
狸の「悪かった」を聞いたら。
胸の奥にあったものが。
少しだけ。
静かになった。
俺は。
狸の前へ座った。
「……脚」
「ん?」
「出せ」
狸がこちらを見る。
「狐」
「いいから出せ」
少し間があって。
狸が脚を伸ばした。
さっきまで。
カラスが触れていた脚。
それを見て。
胸の奥が。
また少しざわついた。
だから。
手を伸ばした。
足首を包む。
温かい。
昨夜と。
同じ熱。
掌へ触れた瞬間。
さっきまでの落ち着かなさが。
少しずつ。
静まっていく。
「……」
これだ。
そう思った。
何が。
とは。
分からない。
ただ。
カラスが触っていたときとは。
違う。
今は。
自分の手が。
狸に触れている。
それだけで。
落ち着く。
黙って。
ふくらはぎへ手を滑らせる。
しばらくして。
「狐」
狸が呼ぶ。
「何だよ」
「手、また冷たいぞ」
自分の掌を見る。
「……うるせえ」
「昨日はすぐ温かくなった」
「だったら黙ってろ」
指に。
少し力を入れる。
狸の熱が。
掌へ移ってくる。
じわじわと。
昨日と同じように。
小さく。
息を吐いた。
分からない。
なんで。
カラスが触っているのが。
あんなに嫌だったのか。
でも。
もう一度。
同じものを見たいか。
そう聞かれたら。
答えは。
すぐ出る。
嫌だ。
絶対に嫌だ。
狐は。
狸の脚を揉む。
誰でも。
同じじゃない。
俺が。
触りたい。
自分の手で。
狸に。
俺は。
少しだけ狸へ近づいた。
温かくなり始めた掌を。
離さなかった。
――狸視点
昨夜。
狐の手が、自分の足首を掴んだ。
頼んでいない。
怪我の手当てでもない。
再発予防でもない。
こちらから触れた足を引いただけだった。
それなのに。
離れていこうとした自分を。
狐の方から掴んだ。
狸は朝から何度も、その感触を思い出していた。
温かくなった狐の手。
足首へ食い込んだ指。
何も言えないくせに。
離そうとしなかった手。
思い出すたび。
胸の奥が満たされる。
そして。
同じところから。
別のものが湧いてくる。
――もっと。
「…………」
狸は一人、人力車の柄を握ったまま目を伏せた。
何を。
もっと。
狐の方から掴んだことが嬉しかった。
なら。
もう一度。
狐の方から。
自分を選んでほしい。
そういうことだろうか。
「……よくねえな」
小さく呟く。
狐を困らせるのは好きだ。
赤くなって怒る顔も。
言い訳を探して目を泳がせる顔も。
見ていて面白い。
けれど。
本当に傷つけたいわけではない。
怖がらせたいわけでもない。
昨夜。
狐がこちらから触れられるのを待っているように見えたとき。
もう少し。
試してみたいと思った。
そのまま続けていたら。
狐がどうするのか。
見てみたいと思った。
それが。
少し。
嫌だった。
自分のことなのに。
どこまで行くのか。
分からなかった。
少し。
離れた方がいい。
そう考えた。
*
「カラス」
声をかけると、カラスが振り返った。
「はい」
「今日、仕事終わったあと空いてるか」
「特には」
「じゃあ、ちょっと脚ほぐしてくれ」
カラスが狸の脚を見る。
それから。
狸を見る。
「狐さんではないんですか?」
思ったより早く、その名前が出た。
狸は一瞬黙った。
「……毎日あいつにやらせるのも悪いだろ」
「そうですか」
それで終わるかと思った。
だが。
カラスは少し考えてから。
「狐さん、別に嫌そうには見えませんでしたが」
と言った。
「…………」
「違いましたか?」
「いや」
違わない。
だから。
困っている。
嫌がっていない。
それどころか。
こちらが手を引けば。
狐の方から掴んだ。
それが。
嬉しかった。
思っていたより。
ずっと。
「今日はいいんだ」
「分かりました」
カラスは。
それ以上聞かなかった。
助かったような。
少し腹立たしいような。
狸自身にも。
よく分からなかった。
*
狐へ伝えたとき。
案の定。
顔が変わった。
「今日はいい」
そう言った瞬間。
ほんの僅かに。
狐の目が揺れた。
「……は?」
俺は。
気づかないふりをした。
「毎日やらせるのも悪いしな」
カラスの方を見る。
「今日はカラスに頼む」
狐が黙る。
そして。
「なんで」
胸の奥で。
何かが動いた。
――なんで。
その一言が。
妙に嬉しかった。
「なんでって」
「だから、なんでカラスなんだよ」
狐の声に。
苛立ちが混じる。
狸は。
それを聞いていた。
「誰でもいいだろ」
口にしてから。
自分でも分かった。
余計な一言だった。
狐のために。
少し離れる。
そのためにカラスへ頼んだはずだった。
なのに。
狐がどんな顔をするのか。
見たくなった。
「……俺がやる」
胸の奥が。
熱くなる。
「いい」
拒んだ。
狐の顔が。
強張った。
「もう怪我も治ってる。毎日お前にやらせる理由もない」
間違ったことは言っていない。
だから。
狐は何も返せない。
やがて。
「……勝手にしろ」
顔を逸らした。
その横顔を見て。
胸の奥が。
少し痛んだ。
これで少し離せる。
そう思った。
それなのに。
狐が本当に離れていくのを見ていると。
妙に。
落ち着かなかった。
*
カラスの手が足袋へ触れる。
紐を解く。
狸はぼんやりと、それを見ていた。
妙な感じだった。
狐以外に触れられること自体は。
どうでもいい。
手当てなら。
誰でもできる。
実際。
カラスの手つきに問題はない。
けれど。
何かが違う。
冷たくもない。
温かくもない。
ただの手だ。
狐の手とは。
違う。
そう思って。
狸は狐を探した。
少し離れたところ。
人力車の車輪を拭いている。
――見てる。
一瞬。
視線が合った。
狐がすぐに逸らした。
胸の奥が。
ぞくりとした。
嫌なんだ。
そう思った。
狐は。
俺に他の奴が触るのが。
嫌なのか。
嬉しかった。
そのことに気づいて。
狸は。
眉を寄せた。
何を喜んでる。
そのために。
カラスへ頼んだわけじゃない。
なのに。
また。
狐を見る。
狐は。
見ないふりをしている。
しばらくすると。
またこちらを見る。
そのたび。
胸の奥が。
満たされる。
もう少し。
見ていたい。
そう思った。
カラスの手が。
ふくらはぎを押す。
狐が見る。
膝へ近づく。
狐の表情が。
さらに険しくなる。
どこまでなら。
我慢する。
そんな考えが。
浮かんだ。
俺は。
すぐには止めなかった。
狐が。
どうするのか。
見たかった。
「……やっぱ駄目だ」
狐が歩いてきた。
その瞬間。
胸の奥が。
大きく跳ねた。
「カラス」
「はい」
「もういい」
「?」
「俺がやる」
狸は狐を見る。
嬉しい。
どうしようもなく。
「狐」
「何だよ」
「さっき勝手にしろって言ってなかったか」
「言った」
「じゃあ――」
「気が変わったんだよ!」
大きな声。
狸は。
その顔を見つめた。
怒っている。
焦っている。
困っている。
その全部が。
自分へ向いている。
また。
もう少し。
見たいと思った。
カラスが狸へ尋ねる。
「どうしますか」
狸は答えず。
狐を見た。
「なんでだ」
狐が止まる。
「……は?」
「カラスでも同じだろ」
本当は。
もう。
同じではないと分かっていた。
少なくとも。
狐にとっては。
それを。
狐自身がどう言うのか。
聞きたかった。
「同じじゃねえ」
胸の奥が。
跳ねた。
「何が?」
狐が黙る。
怪我は治っている。
再発予防も使えない。
カラスが下手なわけでもない。
狐自身も。
それが分かっている。
「狐?」
もう一度。
呼ぶ。
狐の拳が。
握られる。
「……分かんねえよ」
狸は。
黙って待った。
「分かんねえけど……」
その顔を見て。
今度は。
胸の奥に。
別のものが刺さった。
もう。
いい。
そう思った。
けれど。
その前に。
狐が言った。
「……嫌なんだよ」
俺は。
何も言えなかった。
欲しかった。
たぶん。
その言葉が。
聞きたかった。
だから。
止めなかった。
狐が困っていると。
分かっていたのに。
自分を選ぶところを。
見たかった。
その結果。
狐は。
傷ついた顔をしている。
「ほなカラス、行くで」
うさぎの声が割って入った。
「どこへですか」
「ええから」
「まだ終わってませんが」
「もう終わった終わった」
「狸さんの脚が?」
「ちゃうわ。お前の仕事がや」
カラスが。
本気で分からない顔をしている。
「なぜ私まで行くんです?」
「お前がおったら話進まへんからや」
「何の話ですか」
「……ほんま、そういうとこやぞ、お前」
引っ張られながら。
カラスが一度。
狐を振り返った。
何かを見るように。
けれど。
「前見て歩け!」
うさぎに引かれていった。
二人になる。
静かだった。
狐は俯いている。
俺は。
その顔を見ていられなかった。
何をしてるんだ。
狐を傷つけたいわけじゃない。
それなのに。
嫌がっていると分かったら。
嬉しくなった。
試した。
狐がどうするのか。
見たくなった。
「……悪かった」
口から出た。
狐が顔を上げる。
「……何が」
俺は。
少し黙った。
全部説明したところで。
狐には。
余計に分からないだろう。
「いや」
「何だよ、それ」
狐は。
分かっていない。
説明できるほど、狸自身も分かっていなかった。
狐が狸の前へ座る。
「……脚」
「ん?」
「出せ」
狸は狐を見る。
「狐」
「いいから出せ」
それでも。
戻ってきた。
狸は。
ゆっくり脚を伸ばした。
狐の両手が。
足首を包む。
冷たい。
やっぱり。
狐の手だ。
カラスとは。
違う。
触れられた瞬間に。
分かる。
狐が。
ふくらはぎへ手を滑らせる。
狸は。
その横顔を見下ろした。
「狐」
「何だよ」
「手、また冷たいぞ」
「……うるせえ」
「昨日はすぐ温かくなった」
「だったら黙ってろ」
狐の指へ。
力が入る。
少しずつ。
手が温かくなっていく。
自分の熱が。
移っていく。
昨日と。
同じ。
俺は。
その感触を確かめた。
狐が。
自分の前にいる。
カラスではなく。
狐の手が。
自分に触れている。
それだけで。
妙に。
落ち着いた。
そして。
また。
嬉しいと思った。
「…………」
さっき。
後悔したばかりなのに。
それでも。
嬉しい。
狐が。
戻ってきたことが。
狐の方から。
自分を選んだことが。
俺は。
目を伏せた。
狐は物じゃない。
自分のものでもない。
そんなことは。
分かっている。
だから。
狐が嫌がることをしてまで。
確かめるのは。
もうやめようと思った。
それでも。
胸の奥に残ったものまでは。
消えなかった。
狐が自分を選ぶと。
嬉しい。
一度だけじゃなく。
また。
選んでほしい。
その気持ちが。
どこまで大きくなるのか。
俺には。
まだ分からなかった。
「……狸?」
狐が顔を上げる。
「何?」
「何でもねえ」
「そう」
狐は。
また脚へ目を戻した。
その手は。
もう。
随分温かくなっている。
俺は。
その熱を感じながら。
何も言わなかった。
今は。
これ以上。
確かめなくていい。
狐が。
俺の前にいる。
自分の手で。
俺に触れている。
そのことが。
ただ。
嬉しかった。




