第6話|熱のうつる場所
――狐視点
もう、やらない。
少なくとも俺は、そのつもりだった。
昨日、休憩所を出てから何度そう言い聞かせたか分からない。
狸の脚はもう治っている。
最初は怪我の手当てだった。
次は再発予防。
硬くなった筋肉をほぐしておけば、仕事にも差し支えない。
そうやって理由をつけているうちに、いつの間にか狸の脚へ触れることが当たり前になっていた。
昨日は、その理由も少しおかしくなった。
目を逸らした俺の顎へ。
狸の足先が入り込んだ。
軽く持ち上げられた。
ただ。
それだけだった。
なのに。
思い出すたび。
触れられた場所が。
熱くなる。
だから。
今日はやらない。
そう決めていた。
はずだった。
「昨日は右だったろ」
夜。
仕事を終え、湯を浴びたあと。
なぜか俺は。
また。
狸の部屋にいた。
行灯の火が。
狭い部屋を淡く照らしている。
壁にもたれた狸が、片脚を伸ばした。
右じゃない。
左だった。
「今日はこっち」
俺は眉間に皺を寄せた。
「……左は怪我してねえだろ」
「右だってもう治ってる」
「だったらどっちもやる必要ねえじゃねえか!」
正論だ。
なのに。
狸は少しも困った顔をしない。
「片方だけほぐすと釣り合い悪いんじゃなかったか?」
「……」
言った。確かに、俺が言った。
何日か前、右脚ばかり気にしていた狸へ、それらしい理屈として。
「……あれは」
「違ったのか?」
「違わねえけど」
「なら頼む」
「…………」
狸の左脚が。
俺の目の前にある。
黒い足袋に包まれた。
大きな足。
狸は。
それ以上。
何も言わない。
ただ。
待っている。
それが。
妙に腹立たしい。
「……今日だけだからな」
結局。
俺の方から。
膝をついた。
狸の口元が。
ほんの少し。
緩んだ。
「何笑ってんだ」
「笑ってない」
「笑っただろ」
「気のせいだ」
舌打ちして。
足袋へ手をかける。
紐を解く。
布を。
踵からゆっくり下ろす。
何度もやっている。
それなのに。
素足が出た瞬間。
胸の奥が。
少し。
騒いだ。
湯上がりだからか。
狸の足は。
温かかった。
両手で。
足首を包む。
その瞬間。
「冷てえ」
「……は?」
狸が。
俺の手元を見る。
「お前の手」
「お前が熱いんだよ」
「そうか?」
「湯上がりだろ」
そう返して。
ふくらはぎへ。
手を滑らせる。
固い筋肉を。
掌で押す。
右脚を手当てしたときと同じように。
指で張りを確かめて。
ゆっくり。
力を加える。
怪我をしていないから。
どこを押しても。
狸は平気そうだった。
「痛くねえか」
「全然」
「ここは」
「平気」
「……じゃあ本当にやる意味ねえじゃねえか」
「お前が始めたんだろ」
「お前がやれって言ったんだ!」
狸が。
低く笑った。
その振動が。
脚を支えている掌へ。
伝わってくる。
腹が立つ。
なのに。
手は止まらない。
足首。
ふくらはぎ。
膝の裏。
そして。
太腿。
「……」
手が止まった。
昨日も。
ここまで。
触った。
怪我はない。
痛みもない。
ここまでやる必要は。
ない。
「……硬えな」
「仕事した後だからな」
「ここもほぐしといた方がいい」
「怪我したの、足首じゃなかったか?」
「脚は全部繋がってんだよ」
また。
同じことを言った。
自分でも。
分かっている。
それでも。
手が。
離れない。
「狐」
「何だよ」
「手」
「手が何だ」
「温かくなったな」
「……」
自分の掌を見る。
言われてみれば。
さっきまでの冷たさは。
もうなかった。
狸の熱が。
移っただけだ。
ずっと触っていた。
当然だ。
「触ってりゃ移るだろ」
「そういうもんか」
「そういうもんだ」
言い切って。
また。
手を動かした。
狸の脚は。
まだ熱い。
その熱が。
指に移る。
掌に移る。
腕まで。
少し。
温かい気がする。
「……」
変な感じだ。
落ち着く。
でも。
胸だけ。
うるさい。
考えると。
昨日のことが。
また浮かんでくる。
だから。
考えるのをやめた。
しばらくして。
太腿から手を離した。
「……終わり」
「もうか」
「怪我してねえ脚をいつまで揉ませる気だ」
薬油を脇へ置く。
「これで左右同じだ。もう文句ねえだろ」
「ああ」
妙に。
素直だった。
立ち上がろうとした。
そのとき。
胸元へ。
何かが当たった。
「――うわっ」
ぐ、と。
押される。
強くはない。
でも。
不意を突かれた。
身体が後ろへ傾く。
そのまま。
畳へ尻餅をついた。
両手を後ろについて。
すぐに顔を上げる。
「何すんだよ!」
狸を睨む。
でも。
途中で。
声の勢いがなくなった。
狸が。
こっちを見ている。
行灯から。
少し外れた場所。
大きな身体の半分が。
闇に沈んでいる。
その中から。
狸の目だけが。
俺を見ていた。
いつもの。
眠そうな目。
――のはずなのに。
なんか。
違う。
怒ってるわけじゃない。
睨んでもいない。
ただ。
見ている。
「……狸?」
返事はない。
代わりに。
狸が脚を伸ばした。
裸足の足裏が。
俺の膝へ触れる。
「おい」
押されない。
ただ。
触れている。
それから。
ゆっくり。
動いた。
膝から。
上へ。
太腿を。
辿ってくる。
「……何、してんだよ」
声が。
思ったより。
小さくなった。
退けばいい。
足を払えばいい。
立ち上がって。
部屋を出ればいい。
できる。
なのに。
畳についた両手が。
動かない。
狸の足裏が。
太腿から。
腹へ届く。
薄い布越しに。
熱が伝わる。
「……冷たいな」
狸が。
ようやく口を開いた。
「は?」
「お前」
「だから、お前が熱すぎんだよ」
いつもみたいに。
返した。
つもりだった。
少し。
声が掠れた。
狸の足が。
動く。
腹から。
ゆっくり。
上へ。
どこに触れられているのか。
全部。
分かる。
腹から。
胸へ。
狸の熱が。
追いかけてくる。
「……もう温かい」
「知らねえよ……」
心臓が。
うるさい。
何してんだ。
こいつ。
それから。
俺は。
何してんだ。
止めればいい。
なのに。
止めない。
「……」
なんで。
考えようとした。
でも。
狸が近い。
湯を浴びても。
少しだけ残っている。
仕事終わりの匂い。
暗いところから。
俺だけを見ている目。
胸元にある。
足裏の重み。
一つ。
気づくたび。
頭の中が。
うるさくなる。
分からない。
だから。
今は。
考えない。
狸の足裏が。
胸元で止まった。
息を。
浅くする。
目が合う。
狸は。
何も言わない。
俺も。
何も言えない。
耐えられなくなって。
顔を横へ逸らした。
その瞬間。
昨日のことが。
浮かんだ。
休憩所。
狸から。
目を逸らした。
顎へ。
足先が入った。
顔を。
持ち上げられた。
狸と。
目が合った。
喉が。
小さく鳴る。
――来る。
そう思った。
胸にある足が。
上がってくる。
そう。
思った。
「……」
待つ。
でも。
何も。
来なかった。
胸元から。
重みが消えた。
「……え」
狸の足が。
離れていく。
さっきまで。
そこにあった熱まで。
一緒に。
遠ざかる。
俺は。
それを見た。
――なんで。
なんで。
やらない。
そこまで考えて。
固まった。
「……」
今。
俺。
何考えた。
分からない。
分かりたくない。
その間にも。
狸の足は。
離れていく。
熱が。
なくなる。
身体が。
先に動いた。
「――」
手を伸ばす。
狸の足首を。
掴んだ。
狸の動きが。
止まる。
俺も。
止まった。
自分の手を見る。
さっきまでとは。
違う。
治療じゃない。
再発予防でもない。
狸に。
頼まれてもいない。
ただ。
離れていく足を。
俺が。
掴んだ。
「……狐」
低い声で。
名前を呼ばれる。
顔を上げられない。
何か。
言わないと。
違う。
何でもない。
たまたま。
そういうつもりじゃない。
いつもなら。
何か言える。
なのに。
「…………」
何も。
出てこない。
足首を掴んだ手も。
離れない。
狸も。
動かなかった。
問い詰めない。
からかわない。
ただ。
俺に掴まれたまま。
そこにいる。
掌の中の。
狸の足首は。
熱い。
その熱が。
また。
少しずつ。
指へ移ってくる。
さっきまで。
冷たかった手。
今は。
温かい。
「……」
理由は。
分からない。
今は。
分からなくていい。
俺は。
狸の足首を。
掴んだまま。
ほんの少し。
指に力を込めた。
熱は。
まだ。
掌の中にあった。
*
――狸視点
狐は。
今日は来ないと思っていた。
昨日。
休憩所から逃げるように出ていった背中を思い出す。
「もうやらねえ」
あれだけ。
大きな声で言っていた。
だから。
夜になって戸が開き。
狐がいつもの不機嫌そうな顔を覗かせたとき。
少しだけ。
笑いそうになった。
結局。
来た。
理由をつけて。
言い訳を抱えて。
それでも。
俺のところへ。
そのことが。
妙に。
心地よかった。
「昨日は右だったろ」
左脚を伸ばす。
「今日はこっち」
案の定。
狐の眉間に皺が寄った。
「……左は怪我してねえだろ」
「右だってもう治ってる」
「だったらどっちもやる必要ねえじゃねえか!」
もっともだ。
俺も。
そんなことは分かっている。
もう。
手当てなんて必要ない。
右も。
左も。
関係ない。
ただ。
狐が。
それでも俺に触れるのか。
少し。
確かめてみたかった。
「片方だけほぐすと釣り合い悪いんじゃなかったか?」
前に。
狐自身が言ったことを返す。
狐の口が止まった。
俺は。
何も言わず待った。
嫌なら。
帰ればいい。
やらないと言えば。
それで終わりだ。
「……今日だけだからな」
そう言って。
狐が。
自分から膝をつく。
胸の奥に。
小さな満足が落ちた。
また。
俺を選んだ。
「何笑ってんだ」
「笑ってない」
「笑っただろ」
「気のせいだ」
狐の指が。
足袋の紐を解く。
布が。
踵を抜ける。
やがて。
狐の両手が。
俺の足首を包んだ。
「冷てえ」
「……は?」
「お前の手」
狐が。
気に入らなそうに睨む。
「お前が熱いんだよ」
「そうか?」
「湯上がりだろ」
そういうものなのか。
前から。
狐は少し冷たい。
夏場に。
肩が触れたときなんかは。
むしろ。
気持ちいいくらいだった。
でも。
今日は。
妙に気になった。
俺に触れている。
狐の手。
その冷たさが。
はっきり分かる。
掌が。
ふくらはぎを押す。
相変わらず。
丁寧だ。
痛むところなんて。
もうない。
それでも狐は。
時々。
俺の様子を見る。
足首。
ふくらはぎ。
膝の裏。
そして。
太腿。
昨日より。
自然に。
手が上がってくる。
途中で。
止まった。
また、考えているらしい。
必要なのか。ここまでやるのか。
たぶん、そんなところだろう。
少しすると、また手が動いた。
「……」
やっぱり。
戻ってくる。
それを見るのが面白かった。
可愛いとも思った。
もっと。
困らせてみたい。
最近、そんなことを考えるようになった。
俺が何か言うと。
狐が怒る。
俺が近づくと。
赤くなる。
離れようとして。
また。
戻ってくる。
そのたび。
胸の奥が。
少し。
満たされる。
「狐」
「何だよ」
「手」
「手が何だ」
「温かくなったな」
最初の冷たさが。
消えている。
俺の脚に触れていた。
狐の掌。
狐も。
気づいたらしい。
「触ってりゃ移るだろ」
「そういうもんか」
「そういうもんだ」
当然みたいに。
狐が言う。
――移る。
俺の熱が。
狐へ。
それだけのことなのに。
なぜか。
その言葉が。
残った。
やがて。
狐が手を離した。
「……終わり」
熱が。
なくなる。
自分の左脚を見る。
「もうか」
「怪我してねえ脚をいつまで揉ませる気だ」
狐が。
薬油を片づける。
「これで左右同じだ。もう文句ねえだろ」
「ああ」
ここで終わり。
いつものように少しからかって、狐を怒らせて。
明日になれば、また会う。
そう思っていた。
狐が。
立ち上がろうとするまでは。
「……」
――行くのか。
胸の奥が。
一瞬。
冷えた。
隣の部屋へ。
戻るだけだ。
明日になれば。
また会う。
分かっている。
なのに。
背を向けられることが。
妙に。
嫌だった。
理由は。
分からない。
ただ。
そのまま行かせるのが。
嫌だった。
気づけば。
脚を伸ばしていた。
足裏で。
狐の身体を押す。
「――うわっ」
狐が。
尻餅をついた。
「何すんだよ!」
睨み上げてくる。
俺は。
答えなかった。
暗がりの中から。
狐を見る。
怒る。
睨む。
いつもの狐だ。
それなのに。
今日は。
それだけでは。
足りなかった。
――それでも。
俺を見るのか。
そんなことを。
確かめたくなった。
脚を伸ばす。
狐の膝へ。
足裏を置いた。
狐の身体が。
わずかに強張る。
でも。
逃げない。
足裏を。
上へ滑らせる。
膝。
太腿。
最初は。
もう少し。
強く押してやろうと思っていた。
嫌なら。
払いのければいい。
そう思っていた。
でも。
実際に。
狐へ触れると。
できなかった。
力が抜ける。
太腿の輪郭を。
ゆっくり。
確かめる。
腹へ。
届く。
「……何、してんだよ」
狐の声が。
弱い。
答えない。
足裏へ伝わる身体は。
やっぱり。
少し冷たい。
「……冷たいな」
「は?」
「お前」
「だから、お前が熱すぎんだよ」
悪態が。
返ってくる。
いつもの。
狐の声。
なぜか。
少し。
安心した。
さらに。
足を上へ。
腹から。
胸へ。
ゆっくり。
狐は。
退かない。
両手を。
畳についたまま。
俺の足を。
払いのけない。
「……」
なら。
もう少し。
そう思った。
もう少し。
俺を見ればいい。
もう少し。
俺のことで。
困ればいい。
そう思うたび。
胸の奥にあるものが。
少しずつ。
大きくなる。
「……もう温かい」
足裏へ伝わる。
狐の身体。
最初より。
温かい。
「知らねえよ……」
呼吸が。
浅い。
顔も。
熱を帯びている。
俺が触れている場所から。
狐が。
温かくなっていく。
それを。
見ていると。
妙に。
満たされた。
「……」
でも。
同時に。
少し。
怖くなった。
何が。
とは。
うまく言えない。
ただ。
このまま。
もう少し。
もう少し。
そうやって進んだら。
どこまで行くんだろう。
狐が。
顔を逸らした。
昨日と。
同じだった。
休憩所で。
狐が目を逸らしたとき。
俺は。
足先で。
顎を上げた。
こちらを。
向かせた。
だから。
今日も。
同じように。
足を動かそうとした。
そのとき。
狐が。
ほんの少し。
動きを止めた。
「……」
待っている。
そんなふうに。
見えた。
胸の奥が。
大きく鳴った。
もう一度。
顎を上げたら。
狐は。
どうする。
また。
俺を見るのか。
それとも。
今度こそ。
逃げるのか。
知りたい。
もっと。
見たい。
そう思った。
でも。
足が。
動かなかった。
「……」
ここで。
俺が動かしたら。
また。
狐は。
俺に合わせる。
それが。
急に。
嫌になった。
俺は。
足を引いた。
狐の胸から。
足裏を離す。
熱が。
途切れる。
狐が。
自分で。
どうするのか。
見たかった。
ただ。
それだけだった。
脚を。
自分の方へ戻す。
そのとき。
足首に。
何かが触れた。
「――」
狐の手。
動きが。
止まった。
狐も。
驚いたように。
自分の手を見ている。
掴んでいる。
俺の。
足首を。
頼んでいない。
理由も。
与えていない。
さっきまでの。
手当てとも違う。
俺が。
離れようとした。
だから。
狐が。
自分から。
手を伸ばした。
「……狐」
名前を呼ぶ。
狐は。
何も言わない。
悪態も。
言い訳も。
出てこない。
ただ。
俺の足首を。
掴んでいる。
「……」
胸の奥が。
騒いだ。
嬉しい。
たぶん。
そうなんだと思う。
俺が。
何もしなくても。
狐の方から。
掴んだ。
そのことが。
どうしようもなく。
嬉しかった。
狐の手を見る。
温かい。
最初は。
あんなに冷たかったのに。
今は。
俺の足首を包んでいる。
その熱を。
感じながら。
俺は。
動かなかった。
振りほどこうとも。
思わない。
むしろ。
このままで。
いいと思った。
「……」
狐の指に。
ほんの少し。
力が入る。
何も。
言わない。
でも。
手は。
離れない。
俺も。
足を引かなかった。
手を伸ばして。
狐へ触れることもしなかった。
今度は。
俺が。
待つ。
狐が。
自分で。
この手を離すまで。
それで。
いい。
今夜は。
狐の方から。
俺を掴んだ。
それだけで。
十分だった。




