第5話|触れる理由
――狐視点
怪我は、もう治っている。
見たところ、腫れもない。
歩いても普通だし、人力車を引いていても問題なさそうだった。
それでも。
「……まだ少し張ってるな」
俺は狸の前にしゃがみ込み、足首を掴んだ。
「そうか?」
「そうだ」
「俺には分からんが」
「自分じゃ分からねえこともあるんだよ」
言い切って、足首を押す。
別に嘘じゃない。
怪我は治ったように見えても、また痛めることはある。
車夫は脚が商売道具だ。
念入りに見ておくに越したことはない。
「狐」
「なんだよ」
「今日で何日目だ?」
手が止まった。
「……何が」
「再発予防」
「数えてねえよ」
「昨日もやったな」
「昨日は昨日だろ」
「一昨日も」
「だからなんだよ」
「その前もだった気がする」
「うるせえな!」
顔を上げると、狸がこっちを見ていた。
笑ってはいない。
でも、なんか分かってるみたいな顔をしている。
「嫌ならやめるぞ」
手を離しかける。
「嫌とは言ってない」
「……」
「続ければ?」
「だったら黙ってろ」
もう一度、足首を掴む。
掌に熱が伝わる。
狸は熱い。
前から知っている。
怪我をした夜もそうだった。
肩を貸したときも。
脚を揉んだときも。
俺よりずっと熱かった。
指を動かす。
足首。
ふくらはぎ。
ゆっくり押していく。
触っていると。
なんとなく。
落ち着く。
それなのに。
胸の奥だけ。
少し。
落ち着かない。
「ここは?」
「平気だ」
「じゃあ、ここ」
「何ともない」
「……」
もう少し上。
膝の裏へ指を入れる。
狸の脚が動いた。
「痛いか?」
「いや」
「なら動くな」
「くすぐったい」
「我慢しろ」
狸が小さく笑った。
「何だよ」
「いや」
「言えよ」
「狐、真剣だなと思って」
「当たり前だろ。脚は大事なんだから」
「怪我は治ってるけどな」
「……」
また。
それを言う。
「再発したらどうすんだよ」
「そのときは狐に診てもらう」
「そういう話じゃねえ」
指を動かす。
膝の裏。
その上。
太腿。
そこで。
一度。
手が止まった。
「……」
ここまで。
やる必要。
あるのか。
一瞬。
そう思った。
でも。
「……硬えな」
「仕事した後だからな」
「ここもほぐしといた方がいい」
「怪我したの、足首じゃなかったか?」
「脚は全部繋がってんだよ」
すぐに答えた。
狸が。
こっちを見る。
「何だよ」
「別に」
「言いたいことあるなら言え」
「ないよ」
その言い方が、なんか腹立つ。
理由を探しながら。
指を動かす。
足首は。
もう痛くない。
ふくらはぎも。
膝も。
それでも。
ここも。
もう少し。
そう思って。
手が上へ動く。
「……」
なんで。
俺。
こんなとこまで触ってんだ。
狸の太腿は硬い。
仕事のあとだから。
熱もある。
掌で押す。
指をずらす。
もう一度。
押す。
「……っ」
急に。
自分が何をしているのか分からなくなった。
手を離す。
「どうした」
「なんでもねえ」
「顔、赤いぞ」
「暑いんだよ」
「日陰だが」
「夏なんだから暑いだろ!」
狸が。
また。
こっちを見る。
やめろ。
その顔。
俺は目を逸らした。
「狐」
「なんだよ」
「もう終わり?」
「……」
終わり。
そう言えばいい。
怪我は治ってる。
もう。
触る必要はない。
「……まだ」
気づけば。
また。
足首を掴んでいた。
触れていない方が落ち着かない。
けれど。
触れると。
もっとおかしくなる。
意味が分からない。
「狐」
「うるせえな」
「こっち見ろ」
「今やってんだろ」
「脚と話してるのか?」
「うるせえ」
顔を上げたくない。
今。
狸と目が合うのは。
なんか。
まずい。
「狐」
「……」
何がまずいのか。
自分でも分からない。
でも。
見られたくなかった。
そのとき。
狸の脚が動いた。
「……え」
足先が。
顎の下へ入る。
「おい」
少し。
押される。
顔が上がる。
「何すんだよ」
「顔見ようと思って」
「足でやるな!」
「手、塞がってるから」
「知らねえよ!」
そう言いながら。
俺は。
狸の足首を掴んだままだった。
足先が。
顎に触れている。
少し硬い。
でも。
熱い。
「……」
顎には。
狸の足先。
俺の手には。
狸の足首。
お互いが。
お互いに触れている。
「人の脚にあれだけ触っといて」
狸の声が。
少し低くなる。
「今さら目ぇ逸らすのか」
「……っ」
心臓が。
大きく鳴った。
やめろ。
そう言えばいい。
足を退けろって。
言えばいい。
なのに。
口が。
動かない。
それどころか。
狸の足首を掴んでいる手に。
力が入った。
「……」
狸も。
何も言わない。
目が合ったまま。
動かない。
「……狸」
やっと。
名前だけ出た。
「なんだ」
「……」
続きが。
出ない。
足先は。
まだ。
顎に触れている。
俺の手も。
まだ。
狸を掴んでいる。
このまま。
何か言わないと。
そう思うのに。
何を言えばいいのか。
分からない。
「何しとんねん!」
突然。
外から大声が響いた。
「っ!」
肩が跳ねる。
狸の足が下りた。
「取るつもりはありませんでした。少し近くで見ようとしただけです」
カラスの声。
「手ぇ伸ばした時点で同じや! お客さんのもんに触ったらあかんって、何べん言わせるんや!」
うさぎ。
声が近づいてくる。
俺は慌てて狸の脚から手を離した。
「終わり!」
「急だな」
「休憩がだよ!」
「まだ――」
「終わりったら終わりだ!」
道具を片づける。
早く。
とにかく。
早く。
「狐」
「なんだよ!」
「薬」
「あ」
落としかけていた薬を拾う。
後ろで。
狸が足袋を履いている。
見ない。
絶対。
見ない。
「早くしろ!」
「さっきまであんなに念入りだったのにな」
「……!」
振り返る。
狸が。
少し笑っていた。
「うるせえ!」
道具を抱える。
狸が横を通った。
そのとき。
小さな声で。
「明日も再発予防、頼むわ」
「――やらねえ!」
即答した。
絶対。
やらない。
明日なんか絶対やらない。
怪我はもう治った。
再発の兆しもない。
手当てする理由なんて、どこにもない。
それなのに。
歩きながら。
さっきのことが。
頭から離れない。
顎にはまだ。
狸の足先の感触が残っていた。
掌には。
あいつの脚の熱が残っていた。
「……」
明日は。
やらない。
絶対。
やらない。
――明日はやらない。
そう何度も繰り返している時点で。
明日のことを考えている自分が。
一番。
どうしようもなかった。
*
――狸視点
怪我は、もう治っていた。
歩いても痛まない。
人力車を引いても問題ない。
仕事終わりに多少張ることはあるが、それは怪我をする前から同じだ。
だから。
狐に脚を揉んでもらう必要なんて、本当はもうなかった。
「……まだ少し張ってるな」
俺の足首を掴みながら、狐が言う。
「そうか?」
「そうだ」
「俺には分からんが」
「自分じゃ分からねえこともあるんだよ」
言い切った。
ずいぶん便利な言葉だと思う。
俺は縁台に腰掛けたまま、目の前にしゃがんでいる狐を眺めた。
怪我をしていた頃は、本当に心配していた。
それは分かる。
俺が少しでも脚を庇えば、すぐに気づいた。
他の奴が手を貸そうとすれば、自分がやると言って譲らなかった。
宿へ戻ってからもそうだった。
足袋を脱がせ。
脚を揉み。
何度も痛くないかと聞いてきた。
あの頃なら、理由はあった。
だが。
今はない。
それでも狐は。
俺の前にしゃがんでいる。
「狐」
「なんだよ」
「今日で何日目だ?」
手が一瞬止まった。
分かりやすい。
「……何が」
「再発予防」
「数えてねえよ」
「俺は数えてる」
狐の耳がわずかに動いた。
顔は上げない。
「昨日もやったな」
「昨日は昨日だろ」
「一昨日も」
「だからなんだよ」
「その前もだった気がする」
「うるせえな!」
ようやく顔を上げた。
怒っている。
いや。
怒った顔を作っている。
その下にあるものが。
最近は少し。
見えるようになってきた。
焦って。
恥ずかしがって。
何かを隠そうとしている。
本人にも。
何を隠しているのか。
よく分かっていないように見える。
面白い。
そう思った。
こいつは分かりやすい。
からかえばすぐ赤くなる。
突けば怒る。
逃げ道を塞ぎすぎれば黙る。
そうやって狐の反応を見るのが、最近、妙に楽しかった。
「嫌ならやめるぞ」
狐が手を離しかける。
「嫌とは言ってない」
反射的に答えていた。
狐の手が止まった。
それから。
また。
俺の足首へ戻ってくる。
「……だったら黙ってろ」
「はいはい」
掌が触れる。
少し。
冷たい。
仕事のあとの脚には。
その冷たさが。
ちょうどよかった。
――戻ってきた。
俺が。
引き留めたから。
それだけのことなのに。
妙に。
気分がよかった。
狐の指が足首を押す。
「ここは?」
「平気だ」
「じゃあ、ここ」
「何ともない」
少しずつ。
手が上がってくる。
ふくらはぎ。
膝の裏。
そこへ指が入ったとき。
少しくすぐったくて脚が動いた。
「痛いか?」
すぐに狐が顔を上げる。
「いや」
「なら動くな」
「くすぐったい」
「我慢しろ」
命令しているのは。
狐の方なのに。
なぜか。
俺には逆に思えた。
俺が動けば。
気にする。
俺が何か言えば。
顔色が変わる。
俺が黙れば。
今度は不安そうになる。
俺の動きひとつで。
狐は。
ころころ変わる。
そのことに気づいてから。
少し。
試したくなることが増えた。
もう一言言ったら。
どうするんだろう。
もう少し近づいたら。
どんな顔をするんだろう。
良くない遊びだとは思う。
でも。
やめようとも。
あまり思わなかった。
狐の手が。
太腿へ上がってくる。
そこで。
一度止まった。
迷っている。
そのままやめるかと思った。
けれど。
狐の親指が。
俺の太腿へ沈んだ。
「……硬えな」
声が小さい。
「仕事した後だからな」
「ここもほぐしといた方がいい」
「怪我したの、足首じゃなかったか?」
「脚は全部繋がってんだよ」
早い。
あまりにも早い。
思わず笑いそうになった。
でも。
やめた。
ここで笑えば。
狐は手を離す。
それは。
嫌だった。
「……」
自分で思って。
少し引っかかった。
嫌。
なんだな。
俺は。
狐に手を離されるのが。
でも。
今は。
それ以上考えなかった。
好きなように。
触らせる。
太腿を掴む手。
押す指。
場所を変えるたび。
狐の呼吸が。
少しずつ浅くなっていく。
怪我を確認している顔じゃない。
本人も。
そろそろ。
何かがおかしいとは。
気づいているらしい。
「……っ」
突然。
狐が手を離した。
「どうした」
「なんでもねえ」
「顔、赤いぞ」
「暑いんだよ」
「日陰だが」
「夏なんだから暑いだろ!」
まただ。
俺の言葉で。
赤くなる。
目を逸らす。
逃げようとする。
「狐」
「なんだよ」
「もう終わり?」
「……」
狐が。
俺の脚を見る。
それから。
また。
足首を掴んだ。
その瞬間。
胸の奥へ。
黒い満足感が落ちた。
――戻ってきた。
一度。
手を離したのに。
また。
俺へ。
それが。
どうしようもなく。
嬉しかった。
もっと。
俺のことで困ればいい。
もっと。
俺のことで赤くなればいい。
一瞬。
そんなことを思った。
「……」
我ながら。
あまり優しい考えじゃない。
狐を傷つけたいわけじゃない。
本当に嫌がることを。
したいわけでもない。
ただ。
俺が何かをしたとき。
狐が俺を見て。
俺のことで。
困って。
怒って。
それでも。
また俺へ戻ってくる。
それが。
思っていたより。
ずっと。
気分がよかった。
「狐」
「……なんだよ」
「こっち見ろ」
「今やってんだろ」
「脚と話してるのか?」
「うるせえ」
顔を上げない。
俺は。
しばらくその頭を見下ろした。
逃げている。
俺から。
なのか。
自分から。
なのか。
そこまでは。
分からない。
でも。
少しくらい。
逃げ道を狭くしてみたくなった。
脚を動かす。
足先を。
狐の顎の下へ入れた。
狐の身体が。
固まった。
「……え」
その反応に。
胸が騒ぐ。
足先へ。
ほんの少し。
力をかける。
ゆっくり。
顔を上げさせる。
「おい」
狐の声に。
焦りが混じる。
本気で嫌なら。
退ける。
こいつなら。
そうする。
俺の脚を掴んでいる手を離して。
払いのければいい。
だから。
急がなかった。
嫌なら。
やめる。
そのつもりだった。
けれど。
狐は。
俺の足を払わなかった。
目が合う。
顔が赤い。
困っている。
怒っている。
恥ずかしがっている。
それでも。
俺を見ている。
「人の脚にあれだけ触っといて」
自分でも驚くほど。
低い声が出た。
「今さら目ぇ逸らすのか」
「……っ」
狐の喉が動く。
そして。
俺の足首を掴んでいる手に。
力が入った。
「……」
そこで。
笑えなくなった。
いつもなら。
もっとからかう。
分かりやすい奴だと言って。
さらに赤くさせる。
でも、今回は違った。
狐の指が。
俺を掴んでいる。
逃げるためじゃない。
少なくとも。
今は。
離そうとしていない。
そのことが。
妙に。
胸に残った。
「……狸」
掠れた声で。
名前を呼ばれる。
「なんだ」
狐は。
何かを言おうとしている。
でも。
言わない。
俺も。
動かなかった。
足先は。
狐の顎に触れたまま。
狐の手は。
俺の足首を掴んだまま。
このまま。
もう少し。
そう思った。
何をしたいのか。
自分でも。
まだ。
はっきりとは分からない。
ただ。
ここで終わるのが。
少し。
惜しかった。
「何しとんねん!」
突然。
外から声が響いた。
狐の肩が。
大きく跳ねる。
俺も。
我に返った。
足を下ろす。
「取るつもりはありませんでした。少し近くで見ようとしただけです」
別の。
静かな声。
「手ぇ伸ばした時点で同じや! お客さんのもんに触ったらあかんって、何べん言わせるんや!」
うさぎとカラスか。
声が。
近づいてくる。
狐は。
俺の脚から。
勢いよく手を離した。
「終わり!」
「急だな」
「休憩がだよ!」
「まだ――」
「終わりったら終わりだ!」
さっきまで。
俺の脚を。
あれほど丁寧に扱っていた手で。
今度は。
慌てて道具をかき集めている。
耳まで。
赤い。
その様子を見て。
また。
少し。
あの黒いものが。
胸の奥から顔を出した。
可愛い。
もう少し。
見ていたい。
でも。
今は追わなかった。
狐が。
本気で逃げたくなるところまで。
追い込むのは。
違う。
それくらいは。
分かっている。
俺は。
ゆっくり足袋を履いた。
「早くしろ!」
「さっきまであんなに念入りだったのにな」
「……!」
振り返った顔が。
また赤くなる。
俺の一言で。
それが。
妙に嬉しい。
立ち上がって。
狐の横を通る。
「明日も再発予防、頼むわ」
小さな声で言った。
「――やらねえ!」
即答。
思わず。
笑った。
やらない。
そう言っている。
でも。
明日になったら。
どうするんだろう。
また。
何か理由を見つけるのか。
それとも。
本当に。
やめるのか。
「……」
どっちだろう。
そう考えている自分に。
気づいた。
隣を歩く狐を見る。
俺とは。
目を合わせない。
まだ。
少し赤い。
明日も。
また。
来ればいい。
理由なんて。
何でもいい。
そう思った。
そして。
そのことが。
どうしてこんなに嬉しいのか。
今はまだ。
考えなくてもいい気がした。




