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第3話|夕立

――狐視点


暑い。


朝からずっと暑かった。


空気そのものが肌へまとわりつくようで、立っているだけでも汗が滲む。


こんな日に人力車を引くのは馬鹿のやることだ。


そう思いながら、狐は今日も人力車を引いていた。


「……あっちい」


客を送り届けた帰り道。


狐が襟元をつまんで風を送り込むと、隣を歩いていた狸がちらりと見る。


「さっきからそればっかだな」


「暑いもんは暑いんだよ」


「夏だからな」


「見りゃ分かる」


「じゃあ言うなよ」


「うるせえ」


狸が小さく笑った。


それすら妙に腹が立つ。


「お前は暑くねえのかよ」


「暑い」


「全然そう見えねえ」


「暑い暑い言ったら涼しくなるのか?」


「ならねえ」


「じゃあ言わない」


「……そういうとこムカつくんだよ、お前」


「知ってる」


また笑う。


狐は舌打ちして前を向いた。


空はまだ明るい。


ただ、さっきまで白く眩しかった空の端に、いつの間にか灰色の雲が溜まり始めていた。


狐がそれを見上げる。


「降るんじゃねえの」


狸も空を見た。


「降らねえだろ」


「本当かよ」


「たぶん」


「たぶんじゃねえか」


「降ってもすぐ止む」


「適当だな」


そんな会話をしてから。


十分もしなかった。


ぽつり。


狐の鼻先に、水が落ちた。


「…………」


もう一滴。


頬。


肩。


そして。


ざあっ、と。


「おい!!」


一気に景色が白くなった。


「降ってんじゃねえか!」


「降ったな」


「降ったな、じゃねえ!」


二人で人力車を引きながら走る。


雨はあっという間に地面を叩きつけ、乾いていた道を黒く染めた。


「お前、降らねえって言っただろ!」


「たぶんって言った」


「逃げんな!」


「雨からは逃げてるだろ」


「そういう話じゃねえ!」


ようやく見つけた軒下へ人力車を入れる。


狐も狸も、すでにずぶ濡れだった。


「……最悪だ」


狐は濡れた髪を乱暴に掻き上げた。


袖から水が落ちる。


足袋までぐっしょりだ。


隣では狸が手拭いを絞っている。


「夏の雨なんて、すぐ止むだろ」


「お前が言うと信用できねえ」


「じゃあ濡れて帰るか?」


「嫌に決まってんだろ」


「なら待っとけ」


「偉そうに言うな」


狐は柱へ背中を預けた。


目の前では雨が地面を叩いている。


軒から落ちる水が細い幕を作り、その向こうが霞んで見えた。


暑かったはずなのに。


濡れた衣へ風が通ると、さすがに少し肌寒い。


狐は腕についた水滴を手で払った。


そのときだった。


雨音の、ずっと向こう。


――ごろ。


低い音がした。


雷だったのかもしれない。


ずいぶん遠い。


狐は一度だけ空を見た。


それだけだった。


次の瞬間。


ぐ、と肩を引かれた。


「うおっ」


身体が傾く。


気づけば額が、狸の胸へぶつかっていた。


「……は?」


狐は瞬きをした。


狸の腕が肩から背中へ回っている。


抱き寄せられていた。


「……何すんだよ!」


すぐに顔を上げる。


狸は答えなかった。


「おい」


「…………」


「狸?」


ほんの一瞬。


狸自身も、何をしているのか分かっていないような顔をしていた。


だが、それもすぐに消えた。


狐の肩へ触れていた手が、軽く肌を擦る。


「……お前、冷てえな」


「は?」


「冷えたんじゃねえの」


狐は眉を寄せた。


「雨に濡れりゃ冷たくもなるだろ」


「風邪ひくぞ」


「だからって抱き寄せんな! 暑苦しい!」


「温めてやってんだよ」


「頼んでねえ!」


狸の胸を押して離れようとする。


――はずだった。


けれど。


狐の手は、狸の胸元まで上がったところで止まった。


近い。


思った以上に。


狸の身体が近い。


濡れた衣越しでも、熱が分かる。


さっきまで雨に打たれていたはずなのに。


どうしてこいつは、こんなに熱い。


「……ほんと暑苦しい」


悪態だけは出た。


「じゃあ離れるか?」


「…………」


狐は答えなかった。


その代わり。


鼻から、ひとつ息を吸った。


雨の匂いがした。


濡れた土。


古い木。


熱を持った道へ落ちた雨の、むっとするような匂い。


それから。


濡れた狸の衣。


その下にある肌。


一日、人力車を引いた身体に残る汗。


雨に濡れたせいで薄くなるどころか。


湿った空気の中で、かえって近く感じる。


狐は無意識に、もう一度息を吸った。


知っている。


この匂い。


前にも、もっと近くで。


黒い足袋へ、こっそり顔を寄せたとき。


鼻の奥に残った、狸の匂い。


「…………」


気づいた途端。


どく、と胸が鳴った。


何だよ。


狐は眉を寄せた。


ただの汗だ。


仕事をしていれば誰だって汗くらいかく。


なのに。


もう一度。


狐は小さく息を吸った。


「……っ」


何やってんだ、俺。


この前だってそうだ。


狸の足袋の匂いなんか嗅いで。


見つかって。


あれだけ恥ずかしい思いをした。


なのに。


今度は狸本人の胸元で。


また同じことをしている。


離れろ。


そう思った。


けれど。


動かなかった。


狸の腕の中は熱い。


鬱陶しいくらいに。


雨で冷えた身体へ、その熱がゆっくり染み込んでくる。


狐は自分の手を見る。


別に。


自分が特別冷たいとは思わない。


濡れたんだから当然だ。


狸が熱すぎるだけだ。


そういうことにした。


また。


狸の匂いがする。


「…………」


狐は狸の胸へ頬をつけたまま、目を伏せた。


心臓はさっきから落ち着かない。


なのに。


身体の力は少しずつ抜けていく。


雨音。


狸の熱。


鼻先に残る匂い。


すぐそばにある呼吸。


狐は動かなかった。


「狐」


頭の上から声が落ちてくる。


「……何だよ」


「静かになったな」


「うるせえ」


「さっきまであんなに文句言ってたのに」


「疲れたんだよ」


「そうか」


「そうだ」


狸が笑った気配がした。


顔を上げたら、たぶん腹が立つ。


だから狐は上げなかった。


「……もう温まったか?」


「知らねえ」


「手、貸せ」


「何で」


「いいから」


狐は嫌そうな顔をしながら片手を出した。


狸が握る。


「さっきより温かい」


「だから何だよ」


「冷えてただけだったな」


「最初からそう言ってんだろ」


狐はすぐに手を引いた。


狸は何も言わない。


雨はまだ降っている。


けれど。


少しだけ弱くなっていた。


軒の向こうの景色も、さっきよりはっきり見える。


「そろそろ離すか」


狸が言った。


狐の身体が一瞬だけ強張った。


「…………」


何で。


分からない。


離してほしかったはずだ。


暑苦しいと文句を言った。


頼んでもいない。


それなのに。


狸の腕が緩む。


さっきまで触れていた熱が遠ざかる。


胸元の匂いも。


少し遠くなる。


「…………」


嫌だ。


そう思った。


狐は眉を寄せた。


――何が。


分からない。


「……何だよ」


狸が言った。


「何が」


「いや」


狸は狐を見る。


「まだ寒いかと思って」


「寒くねえ!」


即答した。


「じゃあ離すぞ」


「好きにしろ!」


「はいはい」


狸の腕が離れた。


狐は動かなかった。


掴まない。


追いかけない。


ただ。


さっきまで狸が触れていた肩へ、熱だけが残っていた。


狐はそこを手で擦った。


「……暑っ」


「どっちなんだよ」


「うるせえ!」


狸が笑う。


狐は睨みつけた。


けれど。


狸から離れると。


雨の匂いが強くなった。


さっきまであった狸の匂いは、薄くなった。


「…………」


狐は鼻を鳴らした。


やがて雨脚が弱まり。


空が明るくなり始める。


「行くか」


狸が人力車の柄を持った。


「お前、今度から天気のこと喋んな」


「まだ言うのか」


「二度と信用しねえ」


「はいはい」


「返事が軽いんだよ!」


二人で軒下を出る。


濡れた道を歩き出す。


少し前を行く狸の背中を、狐は見た。


雨に濡れた衣。


まだ乾いていない髪。


その背中から。


さっきの匂いがするような気がした。


狐は鼻を鳴らす。


「……ほんと、変な匂い」


「何か言ったか?」


「何も言ってねえ!」


狸が振り返る。


狐はその横をさっさと追い越した。


顔が少し熱い。


雨で冷えたはずなのに。


今はもう。


どこも冷たくなかった。


――狸視点


暑い。


そう思わないわけではない。


ただ、口にしたところで涼しくなるわけでもない。


だから狸は黙って人力車を引いていた。


隣では、さっきから狐が何度目か分からない文句を言っている。


「……あっちい」


「さっきからそればっかだな」


「暑いもんは暑いんだよ」


「夏だからな」


「見りゃ分かる」


「じゃあ言うなよ」


「うるせえ」


分かりやすい。


暑ければ暑いと言う。


腹が立てば睨む。


嬉しいときは隠しているつもりで口元が緩む。


最近は特に、狐のそういうところを見るのが面白かった。


「お前は暑くねえのかよ」


「暑い」


「全然そう見えねえ」


「暑い暑い言ったら涼しくなるのか?」


「ならねえ」


「じゃあ言わない」


「……そういうとこムカつくんだよ、お前」


「知ってる」


笑うと、狐がさらに不機嫌そうな顔をした。


それも面白い。


狸は前を向いた。


その少し先で、空の色が変わっていた。


「降るんじゃねえの」


狐も気づいたらしい。


「降らねえだろ」


「本当かよ」


「たぶん」


「たぶんじゃねえか」


「降ってもすぐ止む」


「適当だな」


狸としては、本当にその程度のつもりだった。


だから。


十分もしないうちに。


ざあっ、と空がひっくり返ったような雨が落ちてきたとき。


「おい!!」


狐の声に、狸は少し笑った。


「降ってんじゃねえか!」


「降ったな」


「降ったな、じゃねえ!」


二人で走る。


人力車を引きながら、近くの軒下へ飛び込む。


着いたころには、二人ともすっかり濡れていた。


「……最悪だ」


狐が濡れた髪を掻き上げる。


「夏の雨なんて、すぐ止むだろ」


「お前が言うと信用できねえ」


「じゃあ濡れて帰るか?」


「嫌に決まってんだろ」


「なら待っとけ」


「偉そうに言うな」


狐は本当によく喋る。


狸は手拭いを絞りながら、横目でその姿を見た。


衣が身体へ張りついている。


髪から水が落ちている。


袖も足袋も、すっかり濡れていた。


それでも狐は気にした様子もなく、腕についた水滴を乱暴に払っている。


風邪でもひかなければいいが。


そんなことをぼんやり考えていた。


雨はまだ強い。


軒先から流れ落ちる水が幕のようになって、向こう側を白く霞ませている。


そのとき。


遠くで。


――ごろ。


低い音がした。


狸は顔を上げなかった。


狐も、ちらりと空を見ただけだった。


それだけ。


だったはずなのに。


気づけば。


狸の手は狐の肩へ伸びていた。


ぐ、と引く。


「うおっ」


狐の身体が胸元へ飛び込んでくる。


額が軽くぶつかった。


「……は?」


狐が顔を上げる。


「……何すんだよ!」


「…………」


狸は答えられなかった。


何をしている。


自分でも、そう思った。


狐を引き寄せようと思った覚えはない。


呼ぼうともしていない。


気づいたときには、腕が動いていた。


それだけだった。


「おい」


「…………」


「狸?」


狐が怪訝そうにこちらを見る。


狸は一度だけ瞬きをした。


何だ。


妙な感じがした。


だが。


その正体を探すより先に、腕の中にある身体の感触へ意識が向いた。


狐の肩へ触れる。


「……お前、冷てえな」


「は?」


思っていたよりずっと冷たい。


「冷えたんじゃねえの」


狐が眉を寄せる。


「雨に濡れりゃ冷たくもなるだろ」


「風邪ひくぞ」


「だからって抱き寄せんな! 暑苦しい!」


「温めてやってんだよ」


「頼んでねえ!」


いつもの調子だ。


狸は少し安心した。


――何に。


そこまで考えて。


やめた。


雨で冷えた。


だから抱き寄せた。


実際、狐は冷たい。


このまましばらく温めておけばいい。


狐の手が狸の胸元まで上がってくる。


押されると思った。


いつもの狐なら。


何すんだ、と突き飛ばすか。


少なくとも狸の腕から抜けようとする。


だから狸は、狐がそうするなら離すつもりだった。


ところが。


狐の手は胸元で止まった。


「……ほんと暑苦しい」


口ではそう言う。


「じゃあ離れるか?」


「…………」


返事がない。


離れようともしない。


狸は狐を見下ろした。


狐は狸の胸へ頬を寄せたまま、妙に大人しい。


やがて。


すう、と。


小さく息を吸った。


「…………」


狸の眉が僅かに動いた。


もう一度。


狐が息を吸う。


鼻先が、ほんの少し狸の胸元へ寄った。


ああ。


思い出した。


前にもあった。


自分の黒い足袋を手にした狐。


顔を寄せて。


匂いを嗅いで。


見つかった途端、耳まで真っ赤になった。


あのときと。


よく似ている。


狸は何も言わなかった。


言えば確実に離れる。


それくらいは分かる。


だから。


黙っていた。


狐がまた。


小さく息を吸う。


自分の匂いを。


狐はどうして、こうして嗅ぐんだろう。


少し。


知りたくなった。


けれど。


聞かなかった。


腕の力も強めない。


逃げたければ。


いつでも逃げられるくらいにしておく。


それでも。


狐は離れなかった。


しばらくすると。


胸元へ預けられる重みが、ほんの少し増した。


「…………」


さっきまで。


あれだけうるさかったのに。


今は妙に大人しい。


「狐」


「……何だよ」


「静かになったな」


「うるせえ」


「さっきまであんなに文句言ってたのに」


「疲れたんだよ」


「そうか」


「そうだ」


少し笑った。


狐は顔を上げない。


狸の胸元へ寄せたままだ。


その身体へ触れているうちに。


ふと気づく。


最初に抱き寄せたときより。


温かい。


「……もう温まったか?」


「知らねえ」


「手、貸せ」


「何で」


「いいから」


渋々差し出された手を握る。


やはり。


さっきより温かい。


「さっきより温かい」


「だから何だよ」


「冷えてただけだったな」


「最初からそう言ってんだろ」


狐はすぐ手を引っ込めた。


狸はその手を目で追った。


雨に濡れて冷えて。


こうして触れているうちに温かくなった。


ただそれだけだ。


なのに。


狐の身体へ。


自分の熱が移ったように思うと。


なぜか少しだけ。


気分がよかった。


狸は雨を見る。


さっきより弱くなっている。


もう少しすれば出られるだろう。


「そろそろ離すか」


そう言って。


狐を囲っていた腕の力を抜いた。


その瞬間。


腕の中の身体が。


ほんの僅かに強張った。


「…………」


狸は狐を見る。


狐は動かない。


けれど。


さっきまで力の抜けていた肩が、ほんの少しだけ固くなっている。


狸は何も言わず、さらに腕を緩めた。


狐の手が動く。


ほんの少しだけ。


こちらへ伸びかけたように見えた。


けれど。


その指は何も掴まなかった。


すぐに握られて。


拳になる。


「……何だよ」


声をかけると。


狐が狸を見る。


「何が」


「いや」


一瞬迷ってから。


「まだ寒いかと思って」


「寒くねえ!」


「じゃあ離すぞ」


「好きにしろ!」


「はいはい」


今度こそ腕を離した。


狐も何もしなかった。


離れていく狸を掴まない。


追いかけない。


ただ。


狸が触れていた肩を、自分の手で擦っている。


「……暑っ」


「どっちなんだよ」


「うるせえ!」


狸は笑った。


狐が睨む。


いつもの狐だ。


なのに。


狸の腕には。


さっきまで抱いていた身体の冷たさと。


その冷たさが。


少しずつ消えていった感覚が残っていた。


雨脚が弱まる。


遠くの空が明るくなってきた。


「行くか」


狸が人力車の柄を握る。


「お前、今度から天気のこと喋んな」


「まだ言うのか」


「二度と信用しねえ」


「はいはい」


「返事が軽いんだよ!」


軒下から出る。


雨上がりにはまだ少し早い。


濡れた道を二人で歩く。


狐は隣にいる。


何か言えばすぐ噛みついてきて。


放っておけば勝手に文句を言う。


やがて。


狐が少し前へ出た。


狸は一度だけ。


その背中を見た。


理由もなく。


少しのあいだ。


目で追った。


「……ほんと、変な匂い」


小さな声が聞こえた。


「何か言ったか?」


「何も言ってねえ!」


狐がさっさと前へ行く。


狸はその背中を見ながら、また少し笑った。


遠くで鳴った音のことなど。


もう忘れていた。


ただ。


狐を抱き寄せた腕には。


まだ。


あの冷たさが残っている気がした。


それも。


歩いているうちに。


少しずつ。


自分の熱と混じって。


分からなくなっていった。


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