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第2話|でっかい海老天

――狐視点


夕餉の膳が運ばれてきた瞬間、俺の目はひとつのものへ吸い寄せられた。


狸の膳に載った、巨大な海老天。


俺の皿にも海老天はある。だが、比べるのも馬鹿らしいほど大きさが違った。


狸のものは太く、長く、膨らんだ黄金色の衣をまとっている。皿の端から堂々とはみ出し、揚げたての湯気を立ち昇らせていた。


ぱち、と衣の中で油が弾ける。


その音に合わせるように、香ばしい匂いが鼻先へ届いた。


「……でかい」


無意識に呟いてから、俺は慌てて味噌汁の椀を持ち上げた。


狸に聞かれていないだろうな。


ちらりと向かいを見る。


狸はいつもの気怠げな顔で座っていた。笠の下の目は半分閉じられ、何も気づいていないように見える。


その腰前には膳が置かれ、例の海老天が鎮座している。


俺はもう一度だけ盗み見た。


大きい。


近くで見ると、ますます大きい。


衣のひと粒ひと粒まで立っていて、箸を入れればさぞ軽快な音を響かせるだろう。中の海老も、俺のものよりずっと肉厚に違いない。


――別に羨ましくなんかない。


自分の膳にもあるのだから、それを食えばいい。


そう思って自分の海老天をひと口かじったが、どうにも物足りなかった。味は悪くない。衣だって十分にさくさくしている。


それでも目は、狸の膳へ戻ってしまう。


海老天のすぐ向こうには、狸の太い腰がある。


膳や前垂れに隠れて、その辺りはよく見えない。俺が気にしているのは、あくまで膳の上の海老天だ。


そのつもりだった。


「さっきから、これ見てるだろ」


不意に声をかけられ、肩が跳ねた。


狸は半分眠そうな目のまま、こちらを見ていた。


口元だけが、うっすら笑っている。


「見てねぇ!」


反射的に言い返し、腕を組んで横を向く。


頬が熱い。


見られていたのか。


俺が何度も海老天を盗み見ていたことに、最初から気づいていたらしい。


「じゃあ、いらねぇのか」


狸が巨大な海老天を箸で持ち上げた。


黄金色の衣が、行灯の光を受けて輝く。


熱と香りがふわりと広がり、俺の鼻をくすぐった。


思わず目で追いかける。


狸が箸を右へ動かせば、俺の視線も右へ。


左へ戻せば、また左へ。


まるで餌を目の前に吊られた獣のようで、腹立たしい。


だが、どうしても目を逸らせなかった。


狸は海老天を俺の方へ向けた。


それから、妙にゆっくりと身を乗り出してくる。


「俺の海老天が欲しいって、ちゃんと言ったら――」


声が低くなる。


言葉の途中で、狸はわざと間を置いた。


俺を見つめる目には、食い物を分けるだけとは思えない、妙な含みがあった。


「やるよ」


囁くような声だった。


海老天の先が、俺の唇へ触れそうな距離まで近づく。


揚げたての熱が伝わってくる。


ただ海老天を寄こすだけだ。


それなのに、狸の言い方が妙に耳へ残った。


"俺の海老天"。


わざわざ「俺の」を強調したように聞こえた。


何だ、その言い方は。


俺が眉を寄せると、狸の視線がほんの一瞬だけ下へ動いた。


自分の膳。


その奥の、腰元。


そして俺の目へ戻る。


口元には、面白がるような笑みが浮かんでいた。


そこで、ようやく気づいた。


こいつ――俺がどこを見ていたと思っていた?


俺の視線は、何度も狸の腰辺りへ落ちていた。そこに膳と海老天があったからだ。


だが、狸からすれば、俺が見ていたのは別のものに見えたのかもしれない。


「……お前」


急に顔が熱くなる。


耳の奥まで焼けるようだった。


「まさか俺が、さっき『でかい』って言ったのを……」


最後まで口にできなかった。


狸の笑みがわずかに深くなる。


否定しない。


それが答えだった。


「なっ……!」


俺は勢いよく狸を睨んだ。


「違う! 海老天のことだ!」


「俺は何も言ってねぇけどな」


「その顔が言ってるだろ!」


恥ずかしさと腹立たしさが一気に込み上げる。


俺が見ていたのは海老天だ。


間違いなく、最初から海老天だけだった。


そう自分へ言い聞かせた、その瞬間。


視線が、また狸の腰元へ落ちた。


今度は海老天ではない。


その奥。


膳と前垂れに隠され、はっきりとは見えない場所。


ほんの一瞬だった。


けれど、さっきまでとは違う。


狸が勘違いしていたと知ったせいで、俺まで意識してしまった。


"でかい"と聞いて、狸はすぐ自分のことだと思った。


なら、こいつにはそう思えるだけの自信があるのか。


太い腿の間。腰へ巻かれた帯。赤い前垂れの下に隠れた輪郭を、俺は無意識に想像しかけた。


胸の奥が、妙にざわつく。


慌てて視線を逸らす。


――何を考えてるんだ、俺は。


海老天だ。


俺が欲しいのは、あの海老天だけだ。


だが一度意識すると、見ないようにする方が難しかった。


狸の大きな手。


厚い胸板。


少し柔らかさのある腹。


胡座をかいた太い脚。


その中心へ、意識が引かれそうになる。


俺は奥歯を噛み締めた。


見るな。


見たら、あいつは絶対に気づく。


そう思ったときには、すでに遅かった。


「今度は、ちゃんと見てるな」


狸の低い声が落ちてきた。


心臓が跳ねる。


「見てねぇ!」


「まだ、何をとは言ってねぇぞ」


「……っ」


狸は海老天を箸で持ったまま、俺の顔をのぞき込んだ。


気怠そうな目の奥に、明らかな愉悦がある。


からかわれている。


分かっているのに、顔の熱が引かない。


「どっちが気になる?」


「海老天だ!」


即答した。


狸は喉の奥で笑う。


「そうかよ」


「当たり前だろ!」


「なら、ちゃんとそう言え」


海老天が、また唇の近くへ運ばれる。


狸は俺の反応を味わうように、ひどくゆっくり動かした。


俺は黄金色の衣だけを見る。


その向こうの腰元は見ない。


見ないようにしていること自体を悟られないよう、必死に海老天へ意識を集中させる。


「ほら」


狸が囁く。


「俺の、でかい海老天が欲しいんだろ?」


あまりにもわざとらしい言い方だった。


頭では食い物の話だと分かっている。


けれど、先ほどの勘違いに気づいた後では、別の意味まで勝手に重なって聞こえてしまう。


「言い方を変えろ!」


「どう変えりゃいい?」


「普通に言え!」


「普通に、欲しいか聞いてるだけだ」


狸の目が細くなる。


「欲しいなら、欲しいって言えよ」


海老天の香り。


低い声。


真正面から向けられる視線。


隠された腰元を意識してしまった自分への恥ずかしさ。


全部が混ざり合い、胸の中を落ち着かなくさせる。


「……別に」


強がってみたが、声に力がなかった。


狸は海老天を少し引いた。


「あっ」


思わず身を乗り出す。


狸の眉が、愉快そうに上がった。


「いらねぇなら、俺が食うけど」


「待て」


「なんだ?」


海老天がまた遠ざかる。


俺は膝の上で拳を握った。


欲しい。


海老天が欲しい。


それだけのことなのに、口にすれば狸の思うつぼだ。


しかも今は、別の意味まで意識させられている。


"狸のものが欲しい"。


そう言わされるようで、ひどく恥ずかしかった。


「……ほしい」


ようやく絞り出した声は、情けないほど小さかった。


狸は聞こえているはずなのに、首を傾げた。


「何が?」


「分かってるだろ」


「ちゃんと言わねぇと分からねぇな」


絶対に楽しんでいる。


俺は狸を睨んだ。


狸はまったく動じず、海老天をこちらへ差し出している。


その姿勢のせいで、膳の下にある太い腿と腰の存在が、かえって意識へ浮かび上がる。


俺は慌てて海老天だけを見た。


「お前の……」


言葉が喉に引っかかる。


狸が待っている。


半分閉じた目で、俺が続きを言うまでじっと。


「お前の、でかい海老天がほしい」


言ってしまった。


顔から火が出そうだった。


狸は満足そうに笑う。


「どっちの?」


「海老天だって言ってるだろ!」


俺が怒鳴ると、狸はとうとう声を立てて笑った。


「分かってるよ」


「この野郎……!」


殴ってやろうかと思った。


だが、その前に海老天がまた口元へ近づいてくる。


俺は自分の箸を伸ばした。


狸は渡さない。


「食わせてやる」


「自分で食える」


「欲しいって言ったら、やるって約束しただろ」


「そういう意味じゃ……」


「ほら、口開けろ」


低い声で言われ、胸の奥がまたざわついた。


命令される筋合いなどない。


そう思うのに、差し出された海老天から離れられない。


俺はしばらく抵抗したあと、ほんの少し身を乗り出した。


狸の大きな手が箸を支えている。


その手の向こうに、余裕のある顔。


さらに下へ視線を落とせば――。


また意識しそうになり、俺は目を閉じた。


そして、大きく口を開く。


海老天へかぶりついた。


さくっ、と衣が砕けた。


中から現れた海老は熱く、肉厚だった。


噛めば強い弾力が返り、すぐに濃い甘みが広がる。軽い衣の香ばしさと塩気が重なり、思わず息が漏れた。


「うまい……!」


さっきまでの恥ずかしさが、一瞬だけ全部消えた。


夢中で噛む。


目を閉じたまま、もうひと口欲しいと思ってしまう。


狸の視線を感じる。


目を開くと、あいつは頬杖をつき、満足そうに俺を眺めていた。


「素直じゃねぇな」


「海老天がうまかっただけだ」


「そうか」


「そうだ」


言い切ったのに、狸の笑みは消えなかった。


俺は口元についた衣を払いながら、残った海老天を見る。


まだ半分以上ある。


狸が箸を持ち直す。


俺の目は、その動きを追った。


そして一瞬だけ、また膳の奥へ落ちそうになる。


狸がすぐに気づく。


「今度は、どっち見てる?」


「海老天だ!」


「本当に?」


「本当だ!」


即答したものの、胸の奥は正直だった。


「……もう一口」


俺は狸の腰元を見ないようにしながら呟いた。


「俺のが欲しいのか?」


また、その言い方だ。


俺は顔を真っ赤にして狸を睨んだ。


「海老天の方だ!」


「分かってるよ」


狸は笑いながら海老天を差し出す。


俺はそれへかぶりつきながら、今度こそ余計なところを見ないよう、固く目を閉じた。


*



――狸視点


夕餉の膳が運ばれてきたとき、俺はまず味噌汁の匂いを吸い込んだ。


炊きたての飯に、煮物と漬物。主役は、皿へ豪快に盛られた天ぷらだ。中でも俺の膳に載った海老天は、ずいぶん立派だった。


太く、長く、衣も景気よく膨らんでいる。


俺は特に驚かなかった。


腹が減っていたし、でかいならでかいほどありがたい。その程度に思って箸を取ろうとしたところで、向かいに座る狐が妙に静かなことに気づいた。


いつもなら、料理が並ぶなり何かしら文句をつける。


「野菜が多い」だの、「俺の方が飯が少ない」だの。大抵は本気で怒っているわけじゃない。黙って食い始めるのが照れ臭くて、わざわざひとつ難癖を探しているだけだ。


だが、今夜の狐は何も言わない。


俺は半分閉じた目で、そっと様子をうかがった。


狐の視線が、ちらりとこちらへ落ちる。


俺の腹を通り過ぎ、膳の辺りへ。


すぐに逸れる。


しばらくすると、またちらり。


今度は俺の腰元で止まった――ように見えた。


「……でかい」


狐が、小さく呟いた。


俺は箸を持つ手を止めた。


その顔を見る。


狐は何事もなかったように味噌汁をすすっている。だが、白い頬はうっすら赤い。耳も妙に立っていた。


また視線が来る。


俺の胸元から腹へ。


さらに下へ落ち、膳で隠れた腰の辺りに吸い込まれていく。


そして、気まずそうに逸らされる。


――こいつ、どこを見て「でかい」なんて言った?


思わず自分の腰元を見下ろした。


もちろん、膳と前垂れに隠れて何も見えない。


見えないはずだが、狐の座る位置からなら、こちらが思っているより目に入るのかもしれない。


俺はもう一度、狐を見た。


あいつは味噌汁の椀に口をつけたまま、またこちらを盗み見ている。


目が合いそうになると、さっと横を向いた。


分かりやすい。


まさか狐が、そんなところを気にしていたとは思わなかった。


昨日は。俺の足袋を嗅いでいた。


今日は。そっちか。


いつも喧嘩腰で、触れれば噛みつきそうな顔をしているくせに、興味だけは隠せないらしい。


その反応が妙に面白くて。もう少し見ていたくなった。


俺は知らないふりをして飯をひと口食い、また狐の視線を待った。


やはり来る。


ちらり。


逸らす。


もう一度、ちらり。


そのたびに頬の赤みが増していく。


俺が気づいていないと思っているのだろう。


――さて、どうからかってやるか。


そう考えながら箸を伸ばしたとき、俺はようやく妙なことに気づいた。


狐の目は、俺の腰元だけを見ているのではない。


俺が箸を動かすたび、そちらへついてくる。


試しに箸を右へ寄せる。


狐の目も右へ動いた。


左へ戻す。


また、ついてくる。


俺は皿の上の巨大な海老天へ箸を近づけた。


狐の耳が、ぴくりとこちらを向く。


鼻先までわずかに動いた。


そこで、ようやく分かった。


「ああ」


こいつが見ていたのは、俺の腰元じゃない。


海老天だ。


俺の膳がちょうど腰の前に置かれていたせいで、視線の先を勘違いしたらしい。


そう分かれば、狐の呟いた「でかい」の意味も明らかだった。


少しだけ拍子抜けした。


だが同時に、別の面白さが湧いてきた。


何度も盗み見るほど食いたいくせに、欲しいとは言えない。


しかも俺は、ほんの少し前まで、とんでもない勘違いをしていた。


そのことをこいつが知ったら、どんな顔をするだろう。


きっと耳の先まで真っ赤にして怒鳴る。


下手をすれば、本気で殴りかかってくる。


だから、勘違いの中身を教えてやるつもりはなかった。


ただし、その名残くらいは、からかいに使わせてもらう。


「さっきから、これ見てるだろ」


俺が言うと、狐の肩が目に見えて跳ねた。


「見てねぇ!」


間髪入れずに返してきた。


声が大きい。


図星を突かれたときほど威勢がいいのも、いつものことだ。


狐は腕を組み、ぷいと横を向いた。


だが、その目はまだ海老天から離れきれていない。


「じゃあ、いらねぇのか」


俺は皿から巨大な海老天を持ち上げた。


衣の重みが箸へ伝わる。


揚げたての香りと一緒に、湯気がゆっくり立ち昇った。


狐の鼻が小さく動く。


視線がこちらへ戻りかけ、途中で止まる。


見たい。


でも、見ていると思われたくない。


そんな迷いが顔中に出ていた。


俺は海老天を狐の方へ向けた。


黄金色の先が、あいつの口元へ近づいていく。


狐は腕を組んだまま動かない。


けれど、逃げもしなかった。


さて、ここからだ。


俺は少し身を乗り出した。


声を落とす。


さっきまでの勘違いを思い出しながら、わざと急がず、狐の目を見つめた。


「俺の海老天が欲しいって、ちゃんと言ったら――」


そこで言葉を切る。


狐の顔が、見る間に赤くなった。


ただ海老天の話をしているだけだ。


それでも俺が低い声で、間を置いて言うと、別の意味まであるように聞こえたらしい。


俺自身が先ほどまでしていた勘違いを、今度は狐にもさせているようで、可笑しかった。


海老天の先を、あいつの唇すれすれへ寄せる。


熱と香りが届く距離だ。


「言ったら、やるよ」


囁くように告げると、狐の耳がぴんと立った。


「なっ……!」


目を見開き、俺と海老天を交互に見る。


やはり、思ったとおりの反応だった。


「何を……お前、その言い方……!」


「俺は海老天の話をしてるだけだけどな」


「分かってる!」


分かっているなら、そこまで赤くなる必要はない。


だが、それを指摘すれば本当に殴られそうだったので、俺は黙って海老天を差し出していた。


狐はしばらく睨んできた。


その間にも、目だけが海老天へ向かっている。


唇がわずかに開く。


閉じる。


また開きかける。


欲しいと言えばいい。


たったそれだけなのに、あいつにとっては随分と難しいらしい。


俺は試しに海老天を少し引いた。


「あっ」


狐が身を乗り出した。


すぐに姿勢を戻したが、もう遅い。


「いらねぇなら、俺が食うけど」


「待て」


「なんだ?」


「……それは」


「それは?」


狐は膝の上で拳を握った。


尻尾が畳を掃くように、落ち着きなく揺れている。


白い頬はすっかり赤くなり、視線は俺から外れたままだった。


俺は急かさずに待った。


こういうときは、追い詰めすぎると意地を張る。


逃げ道をひとつだけ残し、自分から踏み出すのを待つのがいい。


やがて狐の口が動いた。


「……ほしい」


かすかな声だった。


聞こえていたが、俺は首を傾げる。


「何が?」


狐が勢いよくこちらを向いた。


「分かってるだろ!」


「ちゃんと言わねぇと、分からねぇな」


「お前な……!」


怒っている。


でも。


今は恥ずかしさの方が勝っている。


分かりやすい。


もう少し。


からかってみたくなった。


俺は笑いを堪えながら、海老天をもう一度口元へ寄せた。


狐の瞳が、吸い寄せられるようにその先を追う。


「ほら。俺の何が欲しいんだ?」


わざと曖昧に聞くと、狐の顔がさらに赤くなった。


尾が大きく膨らむ。


「お前の、でかい海老天がほしい!」


とうとう狐が叫んだ。


俺は危うく吹き出しそうになった。


"でかい"をそこまで強調されると、最初の勘違いがまた頭をよぎる。


なるほど。


やはり、あの呟きは海老天のことだったらしい。


少し残念なような、安心したような。


「俺の海老天を、どうしたい?」


「食いたい!」


「そうか」


「これで満足か!」


「十分だ」


俺が笑うと、狐は恥ずかしさを隠すように顔を背けた。


「さっさと寄こせ」


狐が箸を伸ばしてくる。


俺は海老天を渡さず、箸を少し持ち上げた。


「なんだよ」


「食わせてやる」


「自分で食える」


「欲しいって言ったら、やるって約束しただろ」


「そういう意味じゃ……」


「ほら」


狐の言葉を待たずに、海老天を口元へ運ぶ。


あいつはまだ不満そうだった。


だが、香ばしい匂いに負けたのか、やがて諦めたように身を寄せてきた。


瞳が伏せられる。


赤くなった頬。


少しだけ迷ったあと、大きく開かれる口。


狐が海老天へかぶりついた。


さくっ、と衣の砕ける音がした。


狐の耳が震える。


閉じた目元が、ふっと緩んだ。


噛むたびに表情から意地が抜けていく。さっきまで俺を睨んでいた顔が、すっかり幸せそうになっていた。


尻尾まで正直だ。


畳の上で、嬉しそうに何度も揺れている。


「うまい……!」


狐の口から、素直な声が漏れた。


俺はその顔を眺めながら、思わず笑った。


「素直じゃねぇな」


狐は口元についた衣を払い、急いでいつもの険しい顔へ戻ろうとした。


「海老天がうまかっただけだ」


「はいはい」


「その言い方やめろ」


「何も言ってねぇだろ」


俺は頬杖をつき、残った海老天を箸で持ち直した。


狐の視線が、その動きへぴたりと吸いつく。


今度は、もう見間違えない。


こいつが見ているのは、間違いなく俺の海老天だ。


それでも俺は、先ほどの勘違いを思い出し、少しだけ意地悪な気分になる。


海老天をゆっくり上下させてみる。


狐の目も一緒に動いた。


可笑しくて仕方がない。


「まだ欲しいのか?」


「……別に」


「そうか。じゃあ俺が食うか」


俺が自分の方へ運ぼうとすると、狐の手が伸びた。


俺の手首を掴む寸前で止まり、また膝へ戻る。


「待て」


「今度はなんだ?」


狐は唇を結び、しばらく黙っていた。


さっきよりも深く顔を赤らめ、俺を上目で見る。


「……もう一口」


俺は海老天を狐へ向けた。


「俺のが欲しいのか?」


「海老天の話だぞ!」


「もちろん、俺も海老天の話しかしてねぇよ」


狐は真っ赤な顔で俺を睨んだ。


それでも差し出した海老天からは離れない。


俺は笑いながら、今度は焦らさず、その口元へ運んでやった。


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