第1話|夏陰の秘密
――狐視点
昼下がりの休憩所には、蝉の声と、熱を孕んだ風だけが流れていた。
仕事を終えた人力車は軒下へ寄せられ、その座席では狸が大きな身体を預けて眠っている。
笠を顔に乗せ、腕を組んだまま微動だにしない。
車の外へ投げ出された両脚だけが、無防備に陽を浴びていた。
厠から戻った狐は、そこで足を止めた。
黒い足袋の先が、人力車の縁から突き出している。
仕事の汗を吸った布は色濃く湿り、足首の辺りにまで汗の跡が広がっていた。
風が吹く。
熱気に混じって、重い匂いが届いた。
「……」
狐は鼻を動かした。
もう一度、風が吹く。
やっぱり。
狸の匂いだ。
「……こんなところで寝やがって」
小声で悪態をつく。
それなのに、視線は足袋から離れなかった。
最近、こういうことが増えた。
狸が近くにいると、すぐ分かる。足音でも分かる。声でも分かる。
それに、匂いでも分かる。
仕事を終えたあとの、熱を含んだ匂い。
乾いた布。
土と埃。
汗。
その奥にある、狸の匂い。
どうしてなのかは分からない。
ただ、気になる。
一度気になると、もっと確かめたくなる。
前に狸に腕を掴まれたときも、そうだった。
大きな手が離れたあと。
しばらくそこだけ熱が残っている気がして、何度も自分の腕を触った。
狸は何も気にしていなかった。狐も、そのときはそれで終わった。
なのに。
今も、ときどき思い出す。
別の日。
仕事の合間に狸が笠を外して汗を拭っていた。
額から首筋へ流れる汗。
荒い呼吸。
陽に焼けた身体。
狐は何となく見ていた。狸がこちらを向いたから、顔を背けた。
別に。見ていて悪いことはない。
それでも。見ていたことを知られるのは、なんとなく嫌だった。
洗濯物の中に狸の黒い足袋を見つけたときも。
気づけば手に取っていた。
誰もいない。
狐は布へ顔を近づけた。
狸の匂いがした。
「……」
一度嗅いだ。
もう一度嗅いだ。
それから。
自分が何をしているのか気づいた。
「何やってんだ、俺」
すぐに足袋を離した。
勝手に人のものの匂いを嗅ぐ。
たぶん、普通はやらない。
狸に知られたら、怒られるかもしれない。
だから、そのことは黙っていた。
それだけだった。
なのに。
今日の匂いは。
あのときよりずっと濃い。
朝から人力車を引き続けたせいだろう。
日差しと埃と、狸自身の熱。
それらが狭い布の中へ閉じ込められている。
狐は眠る狸を見た。
笠の下から、静かな寝息が聞こえる。
寝ている。
狐は。
もう一度、足袋を見る。
少しだけ。
近くで確かめたい。
そう思った。
思ったなら。
気になる。
気になるなら。
確かめればいい。
狐は周囲を見た。
誰もいない。
「……ちょっとだけだからな」
誰に言うでもなく呟いて。
人力車の前へしゃがみ込んだ。
黒い足袋へ顔を近づける。
鼻先へ届いた熱気を吸い込んだ瞬間、思わず目を細めた。
「……濃っ」
顔を離す。
でも。
嫌ではない。
もう一度。
今度は少しだけ近づいて、息を吸う。
知っている匂いだった。
狸が一日働いたあとの匂い。
近くにいると、いつもする匂い。
それが今日は、はっきり分かる。
なぜか。
少し落ち着いた。
「……なんでだ?」
分からない。
分からないから。
もう一度嗅いだ。
やっぱり。
落ち着く。
変なの。
そう思う。
でも。
嫌じゃない。
だったら。
もう少しくらい。
そう思ったところで、ふと狸を見る。
まだ寝ている。
たぶん。
狐は少しだけ安心した。
これを見られるのは。
まずい。
何がどうまずいのかと聞かれたら、うまく説明できない。
ただ。
狸の足元にしゃがんで、足袋の匂いを何度も嗅いでいた。
それを本人に知られるのは。
まずい。
絶対にからかわれる。
狐はまた顔を寄せた。
そのとき。
ふと視線を上げる。
投げ出された脚の向こう。
眠る狸の腰元が見えた。
短い前掛けが、風に合わせてわずかに揺れている。
「……」
狐の目が止まった。
その奥が。
少し気になった。
手を伸ばしかける。
そこで。
止まった。
「……いや」
さすがに。
これは違う。
匂いを嗅ぐのとは。
たぶん。
違う。
狐は手を引こうとした。
その瞬間。
「……もういいだろ」
頭上から。
低い声が落ちた。
「――っ!?」
身体が跳ねた。
心臓が大きく鳴る。
恐る恐る顔を上げる。
狸が。
笠を少しだけ持ち上げていた。
眠たげな目で。
こちらを見下ろしている。
「い、いつから起きて……」
「お前が、俺の足元で妙な息遣いを始めた辺りからだな」
「ち、違う!」
反射的に言った。
狸が黙る。
狐も黙る。
何が違う。
分からない。
実際。
嗅いでいた。
「……」
バレた。
まずい。
やっぱり。
まずい。
勢いよく立ち上がろうとして。
ごん、と。
頭を人力車の縁へぶつけた。
「いっ……!」
頭を押さえてしゃがみ込む。
痛い。
目に涙が浮かぶ。
狸が大きなため息をついた。
「何やってんだ、お前」
「うるせぇ……!」
恥ずかしい。
痛い。
しかも。
全部見られていた。
狐は頭を押さえたまま俯いた。
耳まで熱い。
「別に……変なつもりじゃ……」
言ってから。
自分でも苦しいと思った。
狸の足袋を嗅いでいた。
しかも一回ではない。
前掛けにも手を伸ばしかけた。
どう見ても。
変だ。
狸は怒るだろうか。
勝手に嗅ぐなと。
当たり前だ。
狐だって、自分のものを勝手に嗅がれたら。
……いや。
どうだろう。
分からない。
でも。
たぶん怒る。
「そうか」
狸が言った。
狐は少しだけ顔を上げた。
怒っているのか。
いないのか。
分からない。
「信じてねえだろ」
「信じろというほうが難しい状況だったぞ」
「……」
返す言葉がない。
狐はまた俯いた。
どうする。
謝るか。
でも。
なんて謝る。
足袋嗅いで悪かった。
そんなことを口にする方が恥ずかしい。
黙って逃げるか。
それも。
なんか嫌だ。
狐が考えていると。
狸が笠を顔から外した。
「まあ、気づいていたけどな」
「……え?」
狐は顔を上げた。
狸は。
いつもと同じ顔をしていた。
「お前が近くをうろうろしてたのは前からだ。今日は休憩が終わる時間だったから、起こしに来てくれたんだろ?」
狐は瞬きをした。
違う。
いや。
完全に違うとも言えない。
でも。
狸が何を言っているのかは分かった。
狐はしばらく狸を見る。
怒っているようには見えない。
からかっているような気もする。
でも。
追及する気はないらしい。
「……怒ってねえのか」
気づけば聞いていた。
狸が少し目を丸くする。
「怒る理由があるのか?」
「だって、俺……」
狐は口を閉じた。
言いたくない。
絶対に言いたくない。
狸は少し待った。
でも。
狐が続けないと分かると、それ以上聞かなかった。
「……そうだよ」
狐は呟いた。
「起こしに来ただけだ」
「なら、そういうことにしておくか」
狸が身体を起こす。
狐の横を通る。
そのとき。
大きな手が。
ぽん、と。
狐の頭へ乗った。
「次からは普通に声をかけろ」
「……」
頭に。
狸の手がある。
温かい。
前にも。
こんな熱を感じた気がした。
狐は一瞬。
動けなかった。
手は。
すぐに離れた。
狸は何事もなかったように人力車から降りる。
狐は。
自分の頭へ手を置いた。
さっき狸が触ったところ。
「……分かったよ」
少し遅れて答えた。
狸はもう前を歩いている。
狐も立ち上がった。
秘密は。
バレた。
たぶん。
かなりバレた。
それなのに。
何も変わらなかった。
狸は狸のまま。
いつも通り。
前を歩いている。
狐はその背中を見る。
それから。
鼻を動かした。
さっきまで。
あんなに近くで嗅いでいた匂いがする。
やっぱり。
狸の匂いだ。
なぜ気になるのか。
まだ。
分からない。
でも。
分からなくても。
匂いは分かる。
狸がいることも。
分かる。
それで。
今はいい。
「おい、狸!」
狐は声を上げた。
「置いてくな!」
「お前が勝手に遅れてるんだろ」
「うるせぇ!」
狐は。
狸の背中を追いかけた。
蝉の声が。
また大きく聞こえた。
*
――狸視点
昼下がりの休憩所には、蝉の声が絶え間なく降り注いでいた。
朝から人力車を引き続けた身体は、さすがに重い。
俺は車の座席へ深く腰を下ろし、両脚を外へ投げ出した。
笠を顔へ乗せる。
強い日差しが、少しだけ遠くなった。
狐は厠へ行ったきり、まだ戻ってこない。
あいつが帰ってくるまで、少しだけ眠るつもりだった。
腕を組み、背中を座席へ預ける。
遠くで風鈴が鳴った。
意識が浅い眠りへ沈みかけた、そのときだった。
石畳を踏む足音が聞こえた。
狐だ。
歩幅と速さで分かる。
声をかけてくるかと思った。
だが、足音は人力車の前で止まった。
それから、妙に長い。
何をしてるんだ。
そう思ったが、声を出すのはやめた。
笠の下で目を閉じたまま、様子をうかがう。
衣擦れの音がした。
どうやら、しゃがんだらしい。
次の瞬間。
足先へ、生温かな吐息が触れた。
「……」
危うく脚を引きそうになった。
何をしている。
もう一度。
吐息。
さっきより近い。
ゆっくりと。
足袋の辺りへかかる。
まさか。
笠の隙間を指先で、ほんの少しだけ開けた。
白い耳が見えた。
狐は俺の足元へ身を屈めていた。
仕事の汗を吸った黒い足袋へ。
顔を寄せている。
そして。
鼻を動かした。
俺はしばらく黙った。
冗談だろう。
そう思ったが。
どう見ても。
匂いを嗅いでいる。
しかも。
一度ではない。
狐が少し顔を離す。
何か考えて。
また近づく。
「……」
前から。
妙だとは思っていた。
こちらを見ることが増えた。
仕事のあと、汗を拭っていると。
顔はそっぽを向いているくせに、目だけこっちを見ていることがある。
洗濯を任せた足袋や衣類も。
妙に丁寧になって戻ってくる。
俺が適当に畳むより。
よほどきれいだ。
何をそんなに気にしてるんだとは思っていた。
だが。
まさか。
こういうことだったとは。
狐はまた。
俺の足袋へ顔を寄せた。
頬が赤い。
暑さのせいだけでは。
なさそうだった。
俺の匂いが。
そんなに気になるのか。
理由までは。
分からない。
たぶん。
狐本人も分かっていない。
ただ。
俺を気にしている。
それだけは。
さすがに分かる。
悪い気はしなかった。
むしろ。
少し。
面白い。
普段はあれだけ噛みついてくるくせに。
俺が寝ていると思った途端。
こんなことをする。
起きたら。
どんな顔をするだろう。
真っ赤になって怒るか。
それとも。
逃げるか。
少しくらい。
見ていてもいいか。
そう思って。
笠の隙間から狐を眺めた。
狐は。
また鼻を動かした。
それから。
なぜか少しだけ。
力を抜いた。
「……?」
妙だった。
さっきまで落ち着かなそうにしていたのに。
俺の足元で。
ほんの少し。
安心したように見えた。
そんな顔をするのか。
知らなかった。
胸の奥に。
何かが引っかかった。
何なのか。
考えるより先に。
狐が顔を上げた。
視線が。
足先から脚へ。
そのまま。
腰元へ向かってくる。
前掛けの辺りで。
止まった。
おい。
さすがに。
そこは違うだろ。
狐自身もそう思ったらしい。
伸びかけた手が止まる。
指先が。
引き返そうとした。
そこで。
俺は声を出した。
「……もういいだろ」
狐の身体が跳ねた。
耳がぴんと立つ。
ゆっくり。
顔が上がった。
目が合う。
「い、いつから起きて……」
声が裏返っている。
思ったより。
分かりやすい。
「お前が、俺の足元で妙な息遣いを始めた辺りからだな」
「ち、違う!」
何が違うんだ。
そう言いかけて。
やめた。
本人も分かっていない顔をしている。
次の瞬間。
狐が勢いよく立ち上がった。
ごん、と。
鈍い音がする。
人力車の縁へ頭をぶつけた。
「いっ……!」
「……何やってんだ、お前」
頭を押さえてしゃがみ込む。
目には涙。
耳は伏せている。
さっきまでとは。
まるで別の狐だ。
「別に……変なつもりじゃ……」
無理がある。
だが。
狐は本気らしい。
言い訳を探しているというより。
自分でも。
何をしていたのか説明できないように見えた。
「そうか」
短く返す。
すると。
狐の耳が。
さらに伏せた。
「信じてねえだろ」
「信じろというほうが難しい状況だったぞ」
「……」
黙った。
言い返してこない。
珍しい。
狐は俯いたまま。
何かを考えている。
さっきまで赤かった顔が。
今度は少し。
強張っていた。
怒られると思っているのか。
まあ。
勝手に人の足袋の匂いを嗅いでいたんだ。
普通なら。
そう思うか。
けれど。
俺は別に。
怒ってはいなかった。
驚いた。
それは確かだ。
それから。
少し。
嬉しかった。
なぜ嬉しいのか。
そこまでは、まだ分からない。
少なくとも。
嫌ではない。
それなら。
わざわざ狐を追い詰める必要もない。
俺は笠を顔から外した。
「まあ、気づいていたけどな」
「……え?」
狐が顔を上げる。
「お前が近くをうろうろしてたのは前からだ」
耳が動く。
「今日は休憩が終わる時間だったから、起こしに来てくれたんだろ?」
狐が。
黙った。
こっちを見る。
たぶん。
何を言われたのか考えている。
しばらくして。
「……怒ってねえのか」
そう聞いた。
俺は少しだけ驚いた。
「怒る理由があるのか?」
「だって、俺……」
そこで止まる。
狐は。
その先を言わない。
俺も。
聞かなかった。
今こいつに聞いたところで、たぶんまともな答えは返ってこない。
それに、答えが必要なことなのかも。
まだ分からない。
狐はしばらく黙っていた。
やがて。
小さく口を開く。
「……そうだよ。起こしに来ただけだ」
「なら、そういうことにしておくか」
身体を起こす。
狐の横を通る。
大きく伏せられた白い耳が。
目に入った。
なんとなく。
手を伸ばした。
頭へ置く。
軽く。
一度だけ撫でる。
「次からは普通に声をかけろ」
狐が固まった。
それから。
耳の先まで赤くなる。
「……分かったよ」
小さい声だった。
俺は人力車から降りる。
仕事へ戻るため。
歩き出す。
少しして。
背後から足音が聞こえた。
いつもの。
狐の足音。
俺は。
前を向いたまま聞いていた。
何も。
変わっていない。
はずだった。
狐は相変わらず狐で。
俺は俺だ。
ただ。
一つだけ。
知らなかったことを知った。
狐は。
俺のことを。
ずいぶん気にしているらしい。
それが何なのか。
狐が分かっていないなら。
俺が先に決めることでもない。
そのうち。
分かるだろう。
狐にも。
俺にも。
「おい、狸!」
後ろから声が飛んできた。
「置いてくな!」
「お前が勝手に遅れてるんだろ」
「うるせぇ!」
足音が速くなる。
すぐに。
隣へ追いついた。
俺は横を見る。
狐は。
何事もなかったような顔をしている。
耳だけが。
まだ少し赤い。
俺は笑った。
「何笑ってんだよ」
「別に」
「絶対なんかあるだろ!」
いつもの声が。
蝉の音に混じる。
俺は。
それ以上。
何も言わなかった。




