第21話|その続きを
――狐視点
目を覚ましたとき。
最初に聞こえたのは。
狸の寝息だった。
「……」
近い。
思っていたより。
ずっと。
目の前に。
狸の胸がある。
昨夜。
こいつがうなされているのを見て。
仕方なく。
そばにいてやった。
それだけだったはずなのに。
気づけば。
朝まで。
ここにいた。
しかも。
狸の腕はまだ。
自分の身体に回っている。
「……重てえ」
小さく呟く。
返事はない。
狸は。
眠っている。
いつもの。
気の抜けた顔。
昨夜。
こいつは泣いていた。
夢を見て。
それでも。
何の夢だったのかは。
言わなかった。
狐も。
聞かなかった。
聞いたところで。
狸が話さないなら。
仕方がない。
それに。
昨夜は。
言葉より。
こうしている方が。
いいような気がした。
「……」
狸の胸へ。
ほんの少しだけ。
鼻先を寄せる。
温かい。
それから。
いつもの匂い。
「……」
落ち着く。
そう思ってしまった自分が。
少し。
腹立たしい。
「もういいだろ」
狐は。
狸の腕を。
そっと持ち上げる。
身体を抜く。
一瞬だけ。
その腕の中を見る。
「……」
戻ろうかと。
思った。
「……何考えてんだ、俺」
やめた。
腹も減った。
顔を洗って。
何か食おう。
そう思って。
部屋の向こうへ行ったところで。
「……狐」
声がした。
振り返る。
狸が。
起きている。
「起きたか」
「……ん」
「腹減った」
「朝一番がそれ?」
「朝なんだから腹減るだろ」
狸が。
こちらを見る。
少しだけ。
口元が緩んだ。
「昨日あれだけくっついてたのに」
「っ――」
昨夜のことが。
一気に。
頭へ戻ってくる。
熱。
鼓動。
身体を引き寄せられた感触。
首元に。
鼻先を寄せられたこと。
それから――。
「朝っぱらから何言ってんだお前!」
「事実だけど」
「うるせえ!」
近くにあった手拭いを。
投げる。
狸は。
片手で受け取った。
「元気だなあ」
「誰のせいだ!」
それ以上。
何か言われる前に。
狐は。
部屋を出た。
*
少しして。
狐は。
もう一度。
狸のところへ戻った。
理由は。
決まっている。
「狸ー!」
返事がない。
「早くしろ!」
戸口から。
中を覗く。
狸は。
一人で座っていた。
自分の手を。
見ている。
何かを。
考えているようだった。
「……」
また。
何か考えてる。
前なら。
腹が立ったかもしれない。
何考えてんだ。
俺には言えねえのか。
そう。
聞いたかもしれない。
けれど。
「……まあ、いいか」
話したくなったら。
話せばいい。
狸にだって。
言いたくないことくらい。
あるだろう。
「……」
そこまで考えて。
狐は。
ふと思った。
俺だって――。
「……?」
昔。
何してたんだっけ。
自分のことなのに。
妙な問いだった。
狐は。
眉を寄せる。
もっと前。
狸と仕事をする前。
その前は――。
「……」
何かを。
思い出そうとする。
けれど。
先に浮かんだのは。
狸だった。
仕事のあと。
汗を拭っている狸。
飯を食っている狸。
人力車の上で。
寝ている狸。
くだらないことを言って。
笑っている狸。
自分の頭を撫でた。
大きな手。
胸に耳を当てたときの。
低い音。
昨夜。
自分を抱き寄せた。
腕。
「……」
顔が。
じわじわ。
熱くなる。
昔のことを。
考えていたはずなのに。
出てくるのは。
最近のことばかりだ。
しかも。
ほとんど。
狸がいる。
「……あいつのことばっかじゃねえか」
小さく呟く。
もう一度。
考える。
もっと前。
俺は――。
「狐」
「ん?」
顔を上げる。
気づけば。
狸が。
目の前に立っていた。
そのまま。
大きな腕が。
肩へ回ってくる。
「うおっ」
ぐっと。
引き寄せられた。
「何すんだよ」
「腹減った」
「重てえ! 離れろ!」
「さっきから飯の話しかしてないな、お前」
「お前が忘れてそうだからだろ!」
「何を?」
狐の目が。
細くなる。
「……お前」
「あ」
狸が。
間の抜けた顔をした。
「天丼」
「忘れてたのか!?」
「今、思い出した」
「忘れてたんじゃねえか!」
肩に回された腕を。
押し退ける。
狸が。
笑う。
「狐」
「なんだよ」
「……いや」
少し。
間があった。
「腹減ったなと思って」
「俺がさっきから言ってんだろ!」
狐は。
先に歩き出した。
後ろから。
狸の足音が。
ついてくる。
「……」
さっき。
何を考えていたんだっけ。
昔。
自分が――。
そこまで考えたところで。
「狸」
「ん?」
狐は。
振り返った。
「海老、俺の方が小さかったら交換しろよ」
「嫌だよ」
「なんでだよ!」
「自分の食べなよ」
「でかい方がうまいだろ!」
「同じ味だって」
「違う!」
狸が。
笑った。
狐は。
前を向く。
そのまま。
歩いた。
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――狸視点
目を覚ますと。
胸のあたりが。
少し寒かった。
「……」
狸は。
ぼんやりと。
天井を見る。
昨夜。
ここには。
確かに。
狐の頭があった。
少し冷たい身体。
鼻先を押しつけてくる感触。
自分とは違う匂い。
腕の中に収まる重さ。
それが。
ない。
「……狐」
呼んでから。
狸は。
自分で少し笑った。
部屋の向こうから。
物音がする。
「起きたか」
狐が。
顔を出した。
「腹減った」
「朝一番がそれ?」
「朝なんだから腹減るだろ」
「昨日あれだけくっついてたのに」
「っ――」
狐の動きが。
止まった。
「朝っぱらから何言ってんだお前!」
「事実だけど」
「うるせえ!」
近くにあった手拭いが。
飛んでくる。
狸は。
片手で受け取った。
「元気だなあ」
「誰のせいだ!」
そう言いながら。
狐は。
いつもの調子で。
部屋を出ていく。
足音が。
遠ざかる。
狸は。
しばらく。
その音を聞いていた。
「……いるな」
小さく。
呟く。
昨日も。
今朝も。
呼べば。
返事がある。
狸は。
もう一度。
天井を見る。
昨夜。
夢を見た。
昔。
隣にいた。
あいつ。
届かなかった手。
言えなかった言葉。
そして。
ようやく。
思い出した。
自分が。
あいつを。
好きだったこと。
「……」
目を閉じる。
好きだった。
そのことを。
もう。
知らなかったことには。
できない。
そのとき。
ふと。
何かが。
引っかかった。
「……あれ」
あいつが。
いなくなったあと。
自分は。
何をしていた。
探した。
何度も。
いないと分かってからも。
境内を。
歩いた。
石段に。
座った。
返事のない場所で。
待った。
そこまでは。
覚えている。
あの日。
誰にも届かない言葉を。
あいつに向かって。
吐き出した。
そのあとだ。
――俺は。
何をした?
記憶の奥。
冷たい風。
木々の擦れる音。
誰もいない。
境内。
狸が。
立ち上がる。
目の前には。
古びた神社がある。
今とは違う。
人の姿も。
ほとんどない。
誰かの声も。
ない。
絵馬掛けにも。
数えるほどしか。
願いはなかった。
狸は。
その前で。
足を止める。
何かを。
見ている。
何かを。
考えている。
けれど。
そこだけが。
ぼやけている。
「……」
記憶の中の狸が。
手を伸ばす。
そこに。
小さな木片があった。
指が。
その表面を。
なぞる。
そして。
――がり。
乾いた音。
何かを。
彫っている。
一本。
また。
一本。
何度も。
何度も。
消えないように。
忘れないように。
何かを。
ここに。
残そうとしている。
「……」
そこで。
記憶が。
途切れた。
狸は。
目を開けた。
「……何だ、これ」
自分の手を見る。
何もない。
けれど。
指先に。
木を削った感触だけが。
残っている気がした。
「俺……何、彫ってたんだ」
思い出せない。
今までなら。
そこで。
やめていた。
胸の奥が。
ざわつけば。
知らないふりをした。
思い出せないなら。
そのままでいいと。
思っていた。
でも。
「……」
狸は。
ゆっくり。
手を握った。
怖くないわけじゃない。
思い出した先に。
何があるのかも。
分からない。
それでも。
あいつがいたことを。
自分が。
あいつを好きだったことを。
もう。
なかったことには。
したくなかった。
「狸ー!」
外から。
声がした。
「早くしろ!」
狸は。
顔を上げる。
狐が。
戸口から。
覗いている。
「何?」
「何じゃねえよ。行くぞ」
「どこに」
狐の目が。
細くなる。
「……お前」
「あ」
思い出した。
「天丼」
「忘れてたのか!?」
「今、思い出した」
「忘れてたんじゃねえか!」
狸は。
笑いながら。
立ち上がった。
狐が。
ぶつぶつ。
文句を言っている。
その横を。
通り過ぎようとして。
狸は。
少しだけ。
立ち止まった。
「狐」
「なんだよ」
「……いや」
「なんだよ!」
「腹減ったなと思って」
「俺がさっきから言ってんだろ!」
狐が。
先に歩いていく。
狸も。
そのあとを追う。
少し前を。
狐が歩いている。
「狸」
狐が。
振り返った。
「ん?」
「海老、俺の方が小さかったら交換しろよ」
「嫌だよ」
「なんでだよ!」
「自分の食べなよ」
「でかい方がうまいだろ!」
「同じ味だって」
「違う!」
狸は。
笑った。
狐が。
また前を向く。
狸も。
そのあとを歩く。
昔。
自分が。
何を残そうとしたのか。
まだ。
思い出せない。
狸は。
自分の手を。
一度だけ見た。
それから。
前を見る。
胸の奥に浮かんだ。
その続きを。
見なかったことには。
しなかった。




