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第20話|熱の境目

――狐視点


狸の部屋へ来たのは。


別に。


大した理由があったわけじゃない。


少し話して。


いつものように。


くだらないことを言って。


眠くなったら。


自分の部屋へ戻る。


そのつもりだった。


なのに。


狸は。


眠ってしまった。


「……人が来てんのに寝るか、普通」


返事はない。


仕方なく。


狐はそのまま。


狸のそばにいた。


狸の寝顔なんて。


珍しいものでもない。


隙があれば。


どこでも寝る。


だから。


最初は。


気にもしていなかった。


けれど。


しばらくして。


狸の眉間に皺が寄った。


「……」


呼吸が。


浅い。


何か。


小さく呟いている。


狐は。


少し顔を近づけた。


「狸?」


返事はない。


「おい」


肩へ。


手を伸ばしかける。


けれど。


その手が止まった。


また。


夢なのかもしれない。


最近。


狸は。


夢を見る。


昔のこと。


知らない誰かのこと。


狐には。


まだ。


分からないことが多い。


「……狸」


もう一度。


呼ぶ。


狸の目尻から。


一筋。


涙が落ちた。


狐は。


固まった。


「……」


泣いている狸なんて。


見たことがなかった。


どうすればいいのか。


分からない。


起こすか。


そのままにしておくか。


迷って。


結局。


狐は。


狸のすぐそばに伏せた。


顔が見えるところに。


しばらくして。


狸の瞼が。


動いた。


目が開く。


「……」


狸は。


しばらく。


狐を見ていた。


「……狸?」


やがて。


その目が。


狐を見る。


狸が。


ゆっくり息を吸った。


「……おい」


「起きたか」


狸はまだ。


少しぼんやりしている。


「……何してんの」


「お前がうなされてたから」


狸が黙る。


「また夢か?」


「……」


「最近、多いな」


答えない。


狐は。


狸の顔を覗き込んだ。


目元が。


濡れている。


「お前」


手を伸ばしかける。


「……泣いてんのか?」


狸が。


目頭を軽く拭った。


「あくび」


「嘘つけ」


「眠かったから」


「寝てただろ」


「じゃあ寝ながらあくびした」


「器用だな、お前」


いつもの声だった。


狐は。


少しだけ。


肩の力を抜いた。


けれど。


さっきの涙が。


頭から離れない。


何を見た。


誰を見た。


聞こうとして。


やめた。


狸は。


何も言わない。


狐も。


それ以上。


聞かなかった。


ただ。


身体が動いた。


「……狐?」


狸の胸へ。


顔を埋める。


「……何」


「うるせえ」


「まだ何も言ってないけど」


「喋んな」


狸が。


黙った。


温かい。


いつもそうだ。


狸は。


自分よりずっと温かい。


頬をつけていると。


その熱が。


じわじわ移ってくる。


狐は。


少しだけ。


身体を近づけた。


もっと。


温かくなる。


どこまでが。


狸の熱で。


どこからが。


自分の熱なのか。


少しずつ。


分からなくなる。


「……」


狸は。


ここにいる。


狐は。


もう少しだけ。


身体を寄せた。


息を吸う。


狸の匂いがした。


布団の匂い。


肌の匂い。


微かに残った。


仕事のあとの匂い。


いくつかが混ざった。


いつもの。


狸の匂い。


もう一度。


少しだけ。


深く吸う。


「……今、嗅いだ?」


「嗅いでねえ」


「いや、嗅いだだろ」


「息しただけだ」


「俺の胸で?」


「息くらいさせろ」


うるさい。


そう思いながら。


また。


息を吸った。


「狐」


「なんだよ」


「好きだね」


「何が」


「俺の匂い」


「……」


顔が。


熱くなる。


違う。


狸が温かいからだ。


たぶん。


「……落ち着くんだよ」


言ってから。


しまったと思った。


「何が?」


「聞こえてんだろ」


「もう一回」


「言わねえ」


誤魔化すように。


狸の身体へ。


腕を回した。


近い。


さっきより。


もっと。


匂いが濃くなる。


胸に耳をつければ。


鼓動まで聞こえる。


とく。


とく。


低い音。


狐は。


もう少し。


身体を寄せた。


「……狐」


「ん」


「……」


「なんだよ」


「……」


狸が。


何も言わない。


狐は。


顔を上げた。


「なんだよ」


狸は。


少し困ったような顔をしている。


その視線が。


下へ落ちた。


狐も。


つられて。


少しだけ。


視線を下げる。


「……」


気づいた。


狐の顔が。


みるみる赤くなる。


「怖い夢じゃなかったのか!?」


「夢とこれは別だから」


「別なのかよ!」


狸が。


少し笑った。


「嫌なら離れていいぞ」


軽い声だった。


狐は黙る。


離れる。


別に。


そんな必要はない。


だから。


狸の胸へ。


もう一度。


顔を伏せた。


さっきより。


少しだけ。


身体を寄せる。


何か言われる前に。


口を開いた。


「……この前の海老天の方が、でかかった」


「へえ」


「……なんだよ」


「まだ半分くらいなんだけど」


「…………」


言葉が出なかった。


狸が。


小さく笑う。


「……うるせえ」


「何も言ってないけど」


「笑うな」


「笑ってない」


「笑ってんだろ」


顔が熱い。


胸まで。


妙にうるさい。


それでも。


狐は。


離れなかった。


狸の腕が。


動く。


腰へ回ってくる。


そこで。


一度。


止まった。


狐は。


何もしなかった。


振り払わない。


身体も。


引かない。


次の瞬間。


ぐっと。


抱き寄せられた。


「……っ」


一気に。


狸の熱が近くなる。


胸も。


腹も。


腕も。


二人の間にあった。


わずかな隙間が。


なくなる。


少し。


苦しいくらい。


なのに。


嫌じゃない。


狐は。


狸の胸へ。


頬を押しつけた。


狸が。


狐の首元へ。


顔を寄せる。


「……おい」


「何」


鼻先が。


触れる。


息がかかる。


「何してんだ」


「嗅いでる」


「は!?」


「狐がやってたから」


「俺はやってねえ!」


「じゃあ俺も息してるだけ」


「絶対嘘だろ!」


狸が。


また。


息を吸う。


ぞわ、と。


背中が震えた。


自分の匂いなんて。


嗅いで。


何が楽しい。


そう思うのに。


狐は。


狸の腕を。


振り払わなかった。


「……狐」


「なんだよ」


「もうちょっと、このままでいい?」


今度は。


狸の声に。


からかう感じがなかった。


狐は。


答えなかった。


ただ。


狸の胸へ。


もう一度。


頬を押しつける。


すん。


息を吸う。


「やっぱ嗅いでるじゃん」


「うるせえ」


「好きなんだ」


「違う」


「じゃあ離れる?」


「……」


「狐?」


「……寝ろ」


狸が笑う。


「この状態で?」


「知らねえよ」


「狐のせいなんだけど」


「うるせえ」


狐は。


狸の胸へ。


耳をつけた。


鼓動がする。


さっきより。


少し速い。


自分の鼓動も。


うるさい。


目を閉じる。


狸の腕が。


自分を抱いている。


狐は。


その胸へ。


もう少しだけ。


身体を寄せた。


今度は。


狸の方から。


狐の首元へ。


鼻先を寄せる。


「……変な狸」


小さく呟く。


狸が笑った。


その声を。


胸のすぐ近くで聞きながら。


狐は。


目を閉じた。


---


――狸視点

夢の中で。


あいつが。


笑っていた。


夏。


石段。


蝉の声。


隣に。


あいつがいる。


何かを。


言っていた。


けれど。


声が遠い。


聞き取れない。


「……待って」


手を伸ばす。


あいつが。


少しずつ。


遠くなる。


待って。


まだ。


言ってない。


あの日。


言えなかった。


言葉。


ちゃんと。


言わないと。


だから――。


手を伸ばす。


指先が。


届く。


その直前。


姿が。


滲んだ。


「……待って」


声にした途端。


頬を。


何かが伝った。


     *


目を開けた。


顔があった。


「……」


一瞬。


息が止まる。


目の前のそいつが。


瞬きをした。


「……おい」


聞き慣れた声。


狐だった。


「起きたか」


「……何してんの」


「お前がうなされてたから」


狸は。


しばらく。


狐を見る。


狐も。


こちらを見ている。


近い。


手を伸ばさなくても。


届くところにいる。


狸は。


ゆっくり。


息を吸った。


狐の匂いがした。


少し冷えた。


夜の空気と。


肌と。


いつもの。


狐の匂い。


「また夢か?」


「……」


「最近、多いな」


答えられないでいると。


狐の目が。


少し細くなった。


「お前」


手が。


伸びてくる。


目元に触れる。


その少し前で。


止まった。


「……泣いてんのか?」


狸は。


自分の目頭を。


軽く拭った。


指先が。


濡れた。


「あくび」


「嘘つけ」


「眠かったから」


「寝てただろ」


「じゃあ寝ながらあくびした」


「器用だな、お前」


いつもの声。


狸は。


小さく息を吐いた。


身体を。


起こそうとする。


そのとき。


狐が動いた。


「……狐?」


何も言わず。


狸の胸へ。


顔を埋めた。


「……何」


返事はない。


額が。


胸に触れる。


頬が。


触れる。


腕も。


身体も。


思っていたより。


ずっと近い。


「狐」


「……うるせえ」


「まだ何も言ってないけど」


「喋んな」


狸は。


黙った。


狐の身体は。


少し冷たい。


触れたところから。


自分の熱が。


ゆっくり移っていく。


狐が。


もう少し。


身体を寄せた。


肌と肌が。


触れているところから。


熱が。


混ざっていく。


どこまでが。


自分で。


どこからが。


狐なのか。


境目が。


少しずつ。


分からなくなる。


狸は。


天井を見る。


さっきまで。


どれだけ手を伸ばしても。


届かなかった。


胸の上に。


重さがある。


呼吸するたび。


狐の身体が。


わずかに動く。


「……」


狐が。


鼻先を押しつけるようにして。


深く。


息を吸った。


狸は。


視線を落とす。


「……今、嗅いだ?」


「嗅いでねえ」


「いや、嗅いだでしょ」


「息しただけだ」


「俺の胸で?」


「息くらいさせろ」


また。


すん、と。


小さく鼻が鳴る。


狸は。


少し笑った。


「狐」


「なんだよ」


「好きだね」


「何が」


「俺の匂い」


「……」


狐が。


黙った。


耳のあたりが。


少し赤い。


それでも。


離れない。


「……落ち着くんだよ」


小さな声だった。


「何が?」


「聞こえてんだろ」


「もう一回」


「言わねえ」


狐の腕が。


狸の身体へ回る。


きゅっと。


服を掴んだ。


狸は。


少しだけ。


息を吐いた。


「……狐」


「ん」


「……」


「なんだよ」


狐が。


顔を上げる。


目が合った。


「……」


「なんだよ」


狸は。


少しだけ。


視線を下げた。


狐も。


つられて。


下を見る。


「……」


狐の顔が。


一気に赤くなった。


「怖い夢じゃなかったのか!?」


「夢とこれは別だから」


「別なのかよ!」


「身体に言ってよ」


「知らねえよ!」


狐が。


狸から離れようとする。


狸は。


腕の力を抜いた。


「嫌なら離れていいぞ」


狐が止まる。


狸は。


何もしなかった。


腕も。


そのまま。


狐を見る。


少しして。


狐は。


離れる代わりに。


もう一度。


狸の胸へ。


顔を伏せた。


さっきより。


近い。


狸は。


瞬きをした。


「……この前の海老天の方が、でかかった」


「へえ」


「……なんだよ」


狸は。


口元を緩める。


「まだ半分くらいなんだけど」


「…………」


狐が。


ぴたりと固まった。


顔は。


狸の胸に埋めたまま。


耳だけが。


みるみる赤くなっていく。


「……は?」


「だから。まだ半分くらい」


「…………」


「狐?」


「うるせえ」


狸は。


笑った。


「離れてもいいんだよ?」


「……」


「海老天の方がでかいんでしょ?」


「……黙れ」


「じゃあ――」


「黙れって言ってんだろ」


それでも。


狐は。


離れない。


狸は。


その頭を見る。


それから。


腕を伸ばした。


狐の腰へ。


回す。


一度。


止める。


狐は。


逃げない。


だから。


ぐっと。


抱き寄せた。


「……っ」


狐の息が漏れる。


身体が。


重なる。


少し冷たい。


狐の身体。


自分の熱。


二人の間に残っていた。


わずかな隙間が。


消える。


狐の匂いが。


近くなる。


狸は。


狐の首元へ。


顔を寄せた。


「……おい」


「何」


「何してんだ」


「嗅いでる」


「は!?」


「狐がやってたから」


「俺はやってねえ!」


「じゃあ俺も息してるだけ」


「絶対嘘だろ!」


狸は。


もう一度。


静かに。


息を吸った。


狐の匂い。


胸元で。


悪態をつく声。


狸は。


狐の背中へ回した腕に。


少しだけ。


力を込めた。


「……狐」


「なんだよ」


「もうちょっと、このままでいい?」


狐は。


答えなかった。


代わりに。


狸の胸へ。


頬を押しつけ直した。


すん。


また。


小さく鼻が鳴る。


「やっぱ嗅いでるじゃん」


「うるせえ」


「好きなんだ」


「違う」


「じゃあ離れる?」


「……」


「狐?」


「……寝ろ」


狸は笑った。


「この状態で?」


「知らねえよ」


「狐のせいなんだけど」


「うるせえ」


狸は。


目を閉じた。


腕の中に。


少し冷たい。


狐の身体がある。


胸元から。


狐の呼吸が聞こえる。


狸は。


その背中へ回した腕を。


そのままにした。


しばらくして。


狐の呼吸が。


少しずつ。


ゆっくりになる。


狸も。


目を閉じた。


そのまま。


二人とも。


離れなかった。


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