第19話|言えなかったこと
――狸視点
また。
同じところだった。
夏。
石段。
蝉の声。
隣に。
誰かがいる。
『俺たち、結婚しようか?』
「嫌だよ、お前とは」
何度目だろう。
眠るたび。
同じところへ戻る。
『はあ!?』
怒る声。
笑っている。
俺も。
隣のあいつも。
『絶対お前とは結婚してやんねえからな!』
「そっちから言ったのに」
『うるせえ!』
そして。
少しして。
『……ほんとかよ』
いつも。
そこで。
胸が痛くなる。
*
目を開ける。
冬の夜。
何もない天井。
「……」
眠るのが。
少し怖くなった。
目を閉じれば。
また。
あの場所へ戻る。
雨が降る。
雷が鳴る。
手を伸ばす。
届かない。
白い光。
そこで。
いつも途切れる。
それを。
何度か繰り返した。
けれど。
不思議と。
狐のところへ行こうとは思わなかった。
あの夜。
顔を見た。
声も聞いた。
肩にも触れた。
狐は。
ちゃんといた。
だから。
今度は一人で。
あの夢の続きを。
見なければならない気がした。
*
あの誰かと。
俺は。
どんなふうに過ごしていたんだろう。
思い出してみれば。
特別なことなんて。
ほとんどなかった。
*
『腹減った』
「さっき食べてたじゃん」
『あれは昼飯』
「今も昼だけど」
『二回目の昼飯』
「知らないよ」
『なんかねえの?』
「ない」
『嘘つけ』
「なんで」
『さっき、なんか隠してただろ』
「見てたの?」
『見えてた』
「やだよ」
『なんでだよ!』
「俺のだから」
『半分』
「嫌」
『一口』
「嫌」
『けち』
「朝の残りでも探してくれば」
『もう見た』
「早いな」
『なかった』
「じゃあ我慢しろよ」
隣から。
不満そうな声がする。
俺は笑う。
結局。
半分くらい。
取られた。
*
別の日。
隣で。
誰かが寝ていた。
『……暑い』
「離れれば」
『嫌だ』
「じゃあ我慢しろよ」
『お前が向こう行け』
「ここ俺の場所だけど」
『俺もいるから半分俺の場所』
「無茶苦茶だな」
文句を言いながら。
離れない。
俺も。
退かなかった。
*
また。
別の日。
少し先を。
誰かが歩いていた。
石段を上って。
境内を横切っていく。
『早くしろよ』
「お前が早いんだよ」
『遅え』
「先行けば」
『……』
足が止まる。
「何」
『別に』
俺が。
追いつくまで待っている。
それから。
また歩き出す。
さっきより。
少しだけ。
遅く。
そんなことばかりだった。
本当に。
そんなことばかり。
なのに。
思い出すたび。
そこには。
あいつがいた。
*
そして。
また。
あの日へ戻る。
夏。
石段。
蝉が。
うるさいくらい鳴いている。
隣にいたあいつが。
空を見ながら言った。
『結婚って、知ってるか?』
「急に何」
『今日来てた奴らが話してた』
「ふうん」
『ずっと一緒にいるってことだろ?』
「だいたいはね」
『じゃあさ』
「何」
少し。
間があった。
『俺たち、結婚しようか?』
知っている。
このあと。
俺が何を言うのか。
「嫌だよ、お前とは」
『はあ!?』
勢いよく。
こっちを向く。
『なんでだよ!』
「うるさいし」
『は!?』
「すぐ怒るし」
『お前が怒らせてんだろ!』
「人のもの勝手に食うし」
『それはお前がくれねえからだろ!』
「寝相悪いし」
『お前だって大概だろ!』
ひとつ言うたび。
怒る。
それがおかしくて。
俺は笑っていた。
『もういい!』
そっぽを向く。
『絶対お前とは結婚してやんねえからな!』
「そっちから言ったのに」
『うるせえ!』
また。
笑った。
しばらくすれば。
いつもの調子に戻った。
だから、それで終わったと思っていた。
でも。
少しして。
声がした。
『……ほんとかよ』
さっきまでとは。
違う声だった。
「何が」
『……別に』
「何」
『なんでもねえよ』
ここも。
何度も見た。
なのに。
今日は。
その声だけが。
妙に残った。
あのとき。
聞けばよかった。
本当は。
何を聞きたかったのか。
ちゃんと。
聞けばよかった。
でも。
俺は。
聞かなかった。
明日も。
いると思っていた。
今日聞かなくても。
また話せる。
明日じゃなくても。
その次がある。
朝になれば。
声がする。
呼べば。
返事がある。
隣を見れば。
いる。
ずっと。
そうだと思っていた。
*
空が。
光った。
「……?」
顔を上げる。
雷。
あいつも。
空を見ている。
雨が。
落ちてきた。
ひとつ。
ふたつ。
すぐに。
石段を濡らしていく。
『あっち行くか』
立ち上がる。
俺も。
あとに続く。
そのとき。
空が。
白く光った。
「――」
何も。
見えなくなる。
次の瞬間。
身体の奥まで。
叩かれるような音がした。
雷。
その音に。
別の音が混じる。
――ぱき。
「……」
手を。
伸ばす。
何かを。
掴もうとした。
でも。
届かない。
背中で。
何かが。
崩れる。
振り返るより先に。
足元へ。
石の欠片が落ちた。
ひとつ。
もうひとつ。
「……なんだ」
身体が。
うまく動かない。
頭が。
重い。
視界が。
暗くなる。
最後に。
もう一度。
手を伸ばした。
その先に。
何があったのか。
見えなかった。
*
雨の音。
目を開ける。
「……」
どれくらい。
そうしていたのか。
分からない。
身体を起こす。
頭が。
痛い。
背中を預ける。
その感触が。
いつもと違った。
振り返る。
石像。
俺がいつも。
背を預けていたもの。
形が。
変わっていた。
昨日まで。
後ろに伸びていたはずの。
尻尾がない。
足元には。
石の欠片が散っている。
「……」
何が。
起きた。
それから。
隣を見る。
いない。
「……おい」
返事がない。
いつも。
あいつがいる場所。
そこにも。
誰もいない。
代わりに。
石の破片が。
雨に濡れていた。
「……おい」
立ち上がる。
辺りを見る。
木の下。
石段。
社の軒。
いない。
「どこ行った」
返事はない。
少し。
気を失っていただけだ。
その間に。
どこかへ行ったのかもしれない。
「……おい」
もう一度。
呼ぶ。
いない。
社の裏。
木の陰。
石段の下。
鳥居のそば。
探す。
いない。
それでも。
また。
探した。
*
次の日。
何をしたのか。
よく覚えていない。
その次も。
あまり。
覚えていない。
ただ。
何度も。
探した。
石段。
木の下。
社の裏。
いつも。
座っていたところ。
二人で。
饅頭を食べた場所。
いない。
分かっているのに。
身体だけが。
探していた。
夕方になれば。
ひょいと。
どこかから出てくる気がした。
朝になれば。
また。
『遅え』
と言われる気がした。
でも。
来ない。
*
ある日。
境内に。
人が来た。
鳥居の向こう。
白いものが。
視界を横切った。
身体が。
勝手に動いた。
石段を下りる。
鳥居まで。
行く。
「……」
違う。
人間が持っていた。
白い布だった。
そのまま。
人は。
道の向こうへ歩いていく。
俺は。
鳥居の前に立っていた。
そこから先へは。
行けない。
別の日。
笑い声が聞こえた。
振り向く。
違う。
足音がする。
顔を上げる。
違う。
何度も。
違った。
*
ある夕方。
一人で。
境内を歩いていた。
後ろで。
足音がした。
足が止まる。
「……」
振り返る。
誰も。
いない。
しばらく。
そのまま見ていた。
それから。
また。
歩き出した。
*
石段に。
一人で座る。
昔。
二人で座っていた場所。
「……」
何をしに来たのか。
自分でも。
分からない。
ただ。
ここに座っていれば。
隣から。
声がするような気がした。
『俺たち、結婚しようか?』
「……」
思い出す。
「嫌だよ、お前とは」
俺が。
そう言った。
笑いながら。
『絶対お前とは結婚してやんねえからな!』
怒っていた。
それから。
『……ほんとかよ』
「……」
誰もいない。
隣を見る。
「嘘だよ」
声が出た。
遅すぎる。
「……嫌じゃないよ」
誰も。
聞いていない。
「お前といるの」
ずっと。
当たり前だった。
朝になればいる。
呼べば返事をする。
隣に座る。
食べ物を取られる。
文句を言われる。
待たれる。
待つ。
そんなものが。
ずっと。
続くと思っていた。
「……」
胸が。
痛い。
寂しい。
会いたい。
戻ってきてほしい。
それだけじゃない。
あいつに。
言いたかった。
あの日。
笑わずに。
ちゃんと。
「……好きだったんだ」
声にした瞬間。
涙が落ちた。
その言葉を。
もう。
本人に聞かせることはできない。
「……馬鹿だな」
誰のことを。
言ったのか。
分からなかった。
たぶん。
自分だった。
*
俺は。
目を覚ました。
頬が。
濡れていた。
手で拭う。
「……」
好きだった。
その言葉だけが。
残っている。
あいつを。
俺は。
好きだった。
ずっと。
一緒にいたかった。
なのに。
それを知ったのは。
いなくなってからだった。
俺は。
天井を見た。
そして。
もう一つ。
まだ。
思い出せないものがあることに気づいた。
あの日。
神社で。
一人で。
好きだったと。
認めたあと。
俺は。
何かをした。
何かを。
残そうとした。
そこだけが。
まだ。
白く抜けている。
俺は。
目を閉じた。
あいつを。
好きだった。
今は。
それだけで――
――狐視点
最近。
狸は。
少し眠そうだ。
仕事中も。
休憩中も。
気を抜くと。
ぼんやりしている。
「おい」
「ん?」
「聞いてたか?」
「聞いてたよ」
「じゃあ何の話してた」
「海老天」
「全然聞いてねえじゃねえか」
狸が笑う。
いつもの。
笑い方。
けれど。
目の下には。
うっすら疲れが残っていた。
「……また夢か?」
聞くと。
狸の笑みが。
少しだけ止まった。
「まあね」
「毎日?」
「毎日じゃないよ」
「じゃあ寝ろ」
「寝たら見るかもしれないじゃん」
「……」
狐は。
眉を寄せた。
それなら。
眠そうなのも。
当たり前だ。
「馬鹿じゃねえの」
「ひどいな」
「夢なんか気にして寝ねえ方が馬鹿だろ」
狸は。
何も言わなかった。
少し前。
夜中に。
狸が自分の部屋へ来た。
怖い夢を見たと言って。
顔が見たくなった、と。
あのときの狸を。
思い出す。
何の夢だったのか。
俺は。
まだ知らない。
ただ。
夢を見るたび。
狸が。
少しずつ。
疲れていく。
それは。
分かった。
「ちゃんと食ってんのか?」
「食べてるよ」
「昨日の夜」
「……」
「食ってねえな?」
「忘れてた」
「馬鹿」
狐は。
自分の御膳から。
一つ取って。
狸の皿へ置いた。
「食え」
「狐のじゃん」
「いらねえ」
「さっき食べようとしてなかった?」
「気のせいだ」
狸が。
それを見る。
それから。
狐を見る。
「何だよ」
「優しいなと思って」
「返せ」
「食べる食べる」
狸が。
慌てて口へ運ぶ。
狐は。
鼻を鳴らした。
本当に。
最近の狸は変だ。
ぼんやりして。
時々。
遠くを見る。
それなのに。
狐が声をかけると。
必ず。
こっちを見る。
そのたび。
少しだけ。
安心する。
何に。
安心しているのかは。
よく分からない。
*
その日の夕方。
仕事が終わってからも。
狸は。
眠そうだった。
「お前、今日もう寝ろ」
「まだ早いよ」
「知らねえ。寝ろ」
「狐、最近俺のお母さんみたいだね」
「ぶっ飛ばすぞ」
「怖いなあ」
「いいから寝ろ」
狸が笑う。
狐は。
少し迷ってから。
「……あと」
「ん?」
「また何かあったら」
言葉が。
止まる。
なんと言えばいい。
夢を見たら来い。
怖かったら来い。
そんなことを。
真正面から言うのは。
妙に恥ずかしい。
「……来てもいいぞ」
「どこに?」
「俺んとこ」
狸が。
瞬きをする。
「夜中でも?」
「うるさくしなきゃな」
「怖い夢見たら?」
「……まあ」
「顔見たくなっただけでも?」
あの夜と。
同じ言葉。
狐は。
少しだけ目を逸らした。
「……それでもいい」
狸が。
黙った。
「なんだよ」
「じゃあ、一緒に寝てくれる?」
「調子乗んな!」
狸が笑った。
今度は。
ちゃんと。
いつもの笑い方だった。
「冗談だよ」
「お前な……」
狐は。
狸を睨む。
けれど。
その顔を見ていると。
怒る気も。
少し失せた。
「とにかく。寝ろ」
「はいはい」
狸が。
歩いていく。
狐は。
その背中を見送った。
途中で。
狸が振り返る。
「狐」
「なんだよ」
「ありがと」
「……早く行け」
手を振る狸に。
狐も。
適当に手を上げた。
姿が。
見えなくなる。
それから。
俺は。
小さく息を吐いた。
*
翌朝。
狸は。
いつも通りだった。
少なくとも。
狐には。
そう見えた。
「寝たか?」
「寝た」
「夢は?」
狸が。
一瞬。
黙る。
「見たよ」
「……大丈夫だったのか?」
「うん」
それだけ。
狐は。
続きを待った。
けれど。
狸は。
何も言わない。
「……そうか」
聞かなかった。
狸が。
話したければ。
そのうち話すだろう。
そう思った。
「狐」
「ん?」
「今日、何食べたい?」
「なんだ急に」
「昨日もらったから」
「一個やっただけだろ」
「じゃあ一個返す」
「いらねえ」
「難しいなあ」
俺は。
少し考えた。
「……天丼」
「結局海老じゃん」
「うるせえ」
「狐らしいけど」
「お前が聞いたんだろ」
狸が笑う。
昨日より。
少しだけ。
楽そうに見えた。
「じゃあ天丼な」
「奢ってくれるの?」
「なんで俺が」
「昨日優しくしてくれたから」
「逆だろ。俺が面倒見てやったんだから、お前が奢れ」
「怖い夢見た狸を慰めた料金?」
「そうだ」
「高いなあ」
「嫌なら次から慰めねえぞ」
「じゃあ払う」
即答だった。
狐は。
少しだけ黙る。
「……じゃあ今度な」
「うん。今度」
今度。
その言葉を。
俺は。
頭の中でもう一度繰り返した。
何の夢を。
見ていたのか。
何が。
狸を眠れなくさせているのか。
まだ。
知らないことはある。
狸が。
少し前を歩く。
「狐」
振り返る。
「遅いよ」
「お前が早えんだよ」
「先行くよ」
「待て!」
狐は。
少し足を速めた。
狸の隣へ並ぶ。
「天丼、忘れんなよ」
「分かってるって」
「でかい海老な」
「注文多いなあ」
狸が。
笑う。
狐も。
そのまま。
狸の隣を歩いた。




