第17話|視線の向こう
――狸視点
冬の朝は。
静かだった。
吐いた息が白くなる。
俺は。
冷えた手を擦りながら。
仕事場へ向かった。
「おせえ!」
着いた途端。
声が飛んできた。
狐が。
腕を組んで立っている。
「まだ時間前だけど」
「俺より遅え」
「それを遅刻とは言わないだろ」
「俺を待たせた」
「知らないよ」
狸は。
その横を通り過ぎる。
すぐに。
狐が隣へ並んだ。
「寒い」
「冬だからね」
「なんか温けえもんねえのか」
「俺の手」
「それはいい」
「珍しい」
「仕事前から触るかよ」
いつもの朝。
いつもの狐。
二人で歩く。
狐が。
何かを話している。
昨日。
うさぎが。
自分の菓子を勝手に食ったとか。
そんな話。
「それであいつ――」
狐の声が。
ふっと。
遠くなった。
*
蝉が。
鳴いている。
石段。
古びた鳥居。
小さな社。
暑い。
隣から。
声がする。
『おせえ』
『別に遅くないだろ』
『俺が待った』
『知らないよ』
『お前なあ』
笑い声。
誰かが。
隣にいる。
自分も。
笑っている。
*
「狸?」
目の前に。
狐がいた。
「ん?」
「聞いてたか?」
「聞いてたよ」
「……ならいい」
狐が。
少しだけ。
変な顔をした。
「何」
「別に」
「そう」
狸は。
歩き出す。
狐も。
隣へ戻る。
「で?」
「何が」
「うさぎがどうしたの」
「……聞いてねえじゃねえか!」
「途中までは聞いてた」
「それを聞いてねえって言うんだよ!」
狐が怒る。
狸は笑った。
「悪かったって」
「笑うな!」
いつもの狐だった。
*
それから。
似たことが。
何度かあった。
ほんの一瞬。
景色が。
別のものに変わる。
仕事場にいるのに。
蝉が聞こえる。
冬なのに。
夏の光が見える。
目の前には。
狐がいる。
次の瞬間には。
古い石段。
鳥居。
社。
そして。
隣から。
誰かの声がする。
長くは続かない。
瞬きをすれば。
消える。
「狸」
「ん?」
狐が。
こちらを見ていた。
「……何」
「何が?」
「いや」
狐は。
何か言いかけて。
口を閉じた。
「変な狐」
「うるせえ」
狸は。
また仕事へ戻った。
*
休憩になった。
俺は。
壁に背を預けて座る。
狐が隣に来る。
当然みたいに。
同じ場所へ座った。
「眠い?」
狐が聞く。
「少し」
「また寝てんのか」
「寝てないよ」
「この前も寝てただろ」
「狐がうるさいから起きてた」
「俺のせいにすんな」
「じゃあ静かにして」
「嫌だ」
「何で」
「知らねえ」
狸は。
少し笑った。
狐が。
じっとこちらを見る。
「何」
「…………」
「狐?」
「……何でもねえ」
「そう」
目を閉じる。
すぐ隣から。
狐の気配がする。
人の声。
車輪の音。
風の音。
その間に。
ふっと。
別の声が混ざった。
『寝るなよ』
『眠い』
『俺が暇だろ』
『知らないよ』
『起きろ』
肩を揺らされる。
鬱陶しい。
それなのに。
笑っている。
*
目を開ける。
狐がいた。
「……何」
「いや」
「見んな」
「見てない」
「目ぇ合ってんだろ」
「じゃあ狐も見てるじゃん」
「そういう話じゃねえ!」
また。
怒っている。
狸は。
小さく笑った。
*
その夜。
俺は。
布団の中で。
目を閉じていた。
眠る前から。
あの景色が浮かぶ。
古い石段。
色褪せた鳥居。
小さな社。
狸の石像。
隣にいる。
誰か。
夢の中では。
ずっと近い。
一緒に食べて。
話して。
くだらないことで。
何度も笑っている。
名前は。
分からない。
顔も。
思い出せない。
それなのに。
知らない相手とは。
思えなかった。
「…………」
俺は。
目を開けた。
誰だったんだろう。
考えても。
答えは出ない。
ただ。
あの場所が。
妙に。
引っかかった。
*
数日後。
休憩中。
狐が。
菓子を食べていた。
「狸」
「ん?」
「これ食う?」
「珍しい」
「何が」
「狐が食べ物くれるの」
「いらねえならいい」
手を引っ込めようとする。
狸は取った。
「いる」
「最初からそう言え」
一口。
食べる。
甘い。
「うまい?」
「うん」
「だろ」
狐が。
少し得意そうにする。
「狐が作ったわけじゃないだろ」
「うるせえな」
狸は笑った。
狐も。
少し笑う。
その顔を。
見ていた。
そのはずだった。
*
木札が。
風に揺れている。
小さな音。
人が。
社の前で手を合わせる。
石段を下りて。
鳥居の外へ消えていく。
夏。
蝉。
古い社。
*
「狸」
声で。
戻った。
狐が。
目の前にいる。
「……何」
「こっちの台詞だ」
「何が?」
「また、ぼーっとしてた」
「そう?」
「そうだよ」
狐は。
じっと。
狸を見る。
何かを。
待っているような顔だった。
「……どうした?」
狸が聞く。
「…………」
狐の口が。
少し動いた。
けれど。
「別に」
それだけだった。
狸は。
手に持った菓子を見る。
甘い。
さっき。
何を見た。
木札。
社。
鳥居。
どこかで。
見たことがある。
祭り。
「…………」
狸は。
顔を上げた。
「神社」
「は?」
「祭りの日に行っただろ」
狐が。
少し考える。
「ああ。縁結びの」
「うん」
狸は立ち上がった。
「ちょっと行ってくる」
「……神社に?」
「うん」
「なんで」
「なんとなく」
本当に。
それ以上は。
分からなかった。
ただ。
確かめたくなった。
「すぐ戻る」
狐は。
黙っている。
「狐?」
「……何でもねえ」
「そう」
狸は。
歩き出した。
*
祭りの日とは違って。
神社は静かだった。
鳥居の前で。
狸は立ち止まる。
「…………」
夢とは。
違う。
夢の鳥居は。
もっと古かった。
色も褪せていた。
目の前のものは。
綺麗に塗られている。
石段も。
整えられていた。
それなのに。
足を踏み入れると。
妙な感じがした。
知らない場所へ。
来た気がしない。
ゆっくり。
境内を歩く。
社。
木々。
石段。
ひとつずつ。
目で追う。
夢と同じものを。
探しているつもりはなかった。
それでも。
足は。
境内の端へ向かった。
大きな木。
その近くに。
古びた石像がある。
祭りの日。
狐に言われた。
――なんか狸に似てね?
狸は。
石像の前で。
立ち止まった。
*
蝉。
木陰。
古い石段。
『暑い』
『夏なんだから当たり前だろ』
声。
すぐ隣から。
聞こえる。
自分が。
笑っている。
少し先に。
狸の石像がある。
*
狸は。
瞬きをした。
冬の境内。
風化した石像。
木札の音。
「…………」
ここだ。
そう思った。
理由は。
分からない。
夢でしか。
見たことがないはずなのに。
あの場所と。
ここが。
重なる。
狸は。
大きな木を見上げた。
枝の間から。
冬の空が見えた。
夢では。
隣に。
誰かがいた。
よく喋る。
よく笑う。
自分も。
そいつの隣で。
よく笑っていた。
誰だったのか。
やっぱり。
分からない。
狸は。
古びた石像を見る。
しばらく。
そこに立っていた。
*
仕事場へ戻ると。
狐がいた。
「ただいま」
「……おう」
「寒かった」
「知らねえよ」
いつもより。
少し返事が短い。
「怒ってる?」
「怒ってねえ」
「そう」
「…………」
狐が。
こちらを見る。
狸も。
狐を見る。
「何」
「……別に」
「今日それ多くない?」
「うるせえ」
狸は。
少し笑った。
「明日、何食う?」
狐が。
急に言った。
「海老天」
「またかよ」
「狐も好きじゃん」
「……まあ」
「じゃあ決まり」
「勝手に決めんな」
「嫌?」
狐は。
少し黙って。
「……嫌じゃねえ」
そう答えた。
狸は。
また笑った。
――狐視点
最近。
狸がおかしい。
いや。
おかしいというほどでもない。
話しかければ。
返事をする。
呼べば。
こっちを見る。
いつも通り。
なのに。
たまに。
変な感じがする。
*
「おせえ!」
朝。
仕事場へやってきた狸に。
声を飛ばす。
「まだ時間前だけど」
「俺より遅え」
「それを遅刻とは言わないだろ」
「俺を待たせた」
「知らないよ」
狸が。
横を通り過ぎる。
狐は。
その隣へ並んだ。
「寒い」
「冬だからね」
「なんか温けえもんねえのか」
「俺の手」
「それはいい」
「珍しい」
「仕事前から触るかよ」
いつもの狸。
いつもの朝。
狐は。
昨日の話を始めた。
「それでさ。うさぎの奴、俺の菓子勝手に食いやがって」
「うん」
「名前書いてなかったからって」
「うん」
「普通食わねえだろ」
「そうだな」
「それであいつ――」
狸は。
こっちを見ていた。
目が。
合っている。
「…………」
なのに。
狐は。
言葉を止めた。
「狸?」
「ん?」
「聞いてたか?」
「聞いてたよ」
「……ならいい」
「何」
「別に」
狸が。
歩き出す。
狐も。
隣へ戻った。
「で?」
「何が」
「うさぎがどうしたの」
「……聞いてねえじゃねえか!」
「途中までは聞いてた」
「それを聞いてねえって言うんだよ!」
狸が笑う。
いつもの笑い方。
狐は。
狸の横顔を見た。
さっきのは。
何だったんだ。
*
それからも。
たまに。
同じことがあった。
狸は。
狐を見ている。
話もしている。
返事もする。
なのに。
ふっと。
目だけが。
遠くなる。
「狸」
「ん?」
呼べば。
戻る。
「……何」
「何が?」
「いや」
何を聞く。
自分でも。
分からない。
「変な狐」
「うるせえ」
それで。
終わった。
*
休憩。
狸が。
壁に背を預けている。
狐は。
その隣へ座った。
「眠い?」
「少し」
「また寝てんのか」
「寝てないよ」
「この前も寝てただろ」
「狐がうるさいから起きてた」
「俺のせいにすんな」
「じゃあ静かにして」
「嫌だ」
「何で」
「知らねえ」
狸が。
少し笑う。
狐も。
その顔を見る。
やがて。
狸が目を閉じた。
「…………」
寝るのか。
そう思った。
でも。
すぐに。
目が開いた。
狸が。
こちらを見る。
「……何」
「いや」
「見んな」
「見てない」
「目ぇ合ってんだろ」
「じゃあ狐も見てるじゃん」
「そういう話じゃねえ!」
狸が笑う。
「…………」
また。
あの感じ。
目は。
自分を見ている。
確かに。
こっちを向いている。
それなのに。
その目の奥に。
自分の知らないものがある。
そんな気がした。
「狸」
「ん?」
「…………」
何を見てる。
そう聞こうとした。
でも。
口から出なかった。
「……何でもねえ」
「そう」
狸は。
何も気づいていない。
*
夜。
布団へ入ってからも。
それが残った。
狸の目。
こっちを見ているのに。
遠い。
「…………」
俺は。
寝返りを打った。
誰を見てるんだ。
言葉が。
頭に浮かんだ。
「…………」
すぐに。
消した。
誰って。
なんだ。
狸は。
自分を見ていた。
ちゃんと。
目も合った。
返事もした。
笑っていた。
それなのに。
どうして。
そんな言葉が出た。
「……意味分かんねえ」
布団を引き上げる。
壁の向こうに。
狸がいる。
いつもと。
何も変わらない。
*
数日後。
休憩中。
狐は。
貰った菓子を食べていた。
うまい。
袋の中には。
まだある。
隣を見る。
狸がいる。
「狸」
「ん?」
「これ食う?」
「珍しい」
「何が」
「狐が食べ物くれるの」
「いらねえならいい」
引っ込めようとする。
狸が取った。
「いる」
「最初からそう言え」
狸が食べる。
「うまい?」
「うん」
「だろ」
少し。
嬉しい。
狸が笑った。
狐も。
笑う。
目が合う。
そのまま。
狸は。
狐を見ていた。
「…………」
まただ。
狐の笑いが。
消える。
狸の目は。
確かに。
自分を見ている。
でも。
少しずつ。
遠くなる。
「狸」
声をかける。
狸が。
瞬きをした。
「……何」
「こっちの台詞だ」
「何が?」
「また、ぼーっとしてた」
「そう?」
「そうだよ」
狐は。
狸を見る。
聞くなら。
ここだ。
何を見てる。
その先に。
もう一つ。
言葉が浮かんだ。
――誰を見てる。
「……どうした?」
狸が聞く。
「…………」
怖い。
そう思ったのかどうかも。
分からなかった。
ただ。
聞きたくなかった。
「別に」
狸が。
手の中の菓子を見る。
少しして。
顔を上げた。
「神社」
「は?」
「祭りの日に行っただろ」
狐は。
思い出す。
祭り。
うさぎとカラス。
縁結び。
一体だけ残った。
古い石像。
「ああ。縁結びの」
「うん」
狸が立ち上がった。
「ちょっと行ってくる」
「……神社に?」
「うん」
「なんで」
「なんとなく」
「…………」
狐は。
狸を見る。
また。
あの目。
そんな気がした。
「すぐ戻る」
狸が。
歩き出す。
「狸」
足が止まる。
振り返る。
「ん?」
狐は。
口を開いた。
何を見てる。
誰を見てる。
聞けばいい。
でも。
「…………」
言えなかった。
「……何でもねえ」
「そう」
狸が。
また歩き出す。
背中が。
遠ざかる。
狐は。
追わなかった。
*
見えなくなるまで。
狸の背中を見ていた。
「…………」
一人になった。
手の中には。
菓子が残っている。
一つ。
口へ入れる。
甘い。
さっきまで。
うまかった。
もう一つ。
食べる。
「…………」
俺は。
狸が消えた道を見る。
何を見てる。
誰を見てる。
結局。
聞けなかった。
「……俺は」
声が。
小さく落ちる。
「ここにいるだろ」
返事は。
なかった。
*
仕事が終わる前に。
狸は戻ってきた。
「ただいま」
いつもの声。
狐は。
顔を上げる。
「……おう」
いつもの狸。
何も変わっていない。
「寒かった」
「知らねえよ」
「怒ってる?」
「怒ってねえ」
「そう」
狸が。
こっちを見る。
目が合う。
「何」
「……別に」
「今日それ多くない?」
「うるせえ」
狸が笑う。
狐は。
その顔を見る。
聞かなかった。
神社で何してた。
何があった。
何を見てた。
どれも。
聞かなかった。
代わりに。
「狸」
「ん?」
「明日、何食う?」
狸が。
少しだけ目を丸くした。
「海老天」
「またかよ」
「狐も好きじゃん」
「……まあ」
「じゃあ決まり」
「勝手に決めんな」
「嫌?」
「…………」
狐は。
狸を見る。
ちゃんと。
目の前にいる。
「……嫌じゃねえ」
狸が笑った。
狐は。
その笑顔を。
しばらく見ていた。




