第16話|雷の向こう
――狐視点
初冬。
朝から。
空の色が悪かった。
厚い雲が。
低く垂れ込めている。
昼を過ぎても。
辺りは薄暗い。
人力車を戻しながら。
空を見上げる。
「降るな、これ」
少し前を歩いていた狸も。
空を見る。
「まだ降らないんじゃない」
「……」
「何」
「お前がそう言うなら降るな」
狸が。
こっちを見る。
「何でだよ」
「忘れたのかよ」
「何を」
「夕立」
「ああ」
「ああ、じゃねえ」
狸が。
少し笑った。
「一回外しただけじゃん」
「十分もしないうちに降っただろ」
「そんなこともある」
「だから信用しねえ」
「まだ言ってんの」
「一生言う」
「長いな」
狸が。
また笑う。
その横顔を見る。
最近。
こいつ。
前より。
笑うようになった気がする。
俺が。
もっと笑えばいいのに。
なんて言ったから。
――なわけないか。
狸は狸だ。
「……何」
狸が。
こちらを見る。
「見てねえよ」
「まだ何も言ってないけど」
「うるせえ」
そのとき。
遠くで。
低い音がした。
――ごろ。
空を見る。
「雷か?」
返事がない。
「狸?」
隣を見る。
狸が。
空を見ていた。
さっきまで笑っていた顔から。
表情が消えている。
「……おい」
「ん?」
ようやく。
こちらを見る。
「どうした」
「いや」
「今、変だったぞ」
「そう?」
「そうだよ」
狸は。
何でもないように。
歩き出した。
「気のせいだろ」
「……」
俺も。
その隣を歩く。
何か。
引っかかった。
*
狸の予想は。
外れた。
「ほら見ろ!」
雨の中を走りながら。
狸に言う。
「俺のせいじゃないだろ!」
「お前が降らねえって言った!」
「まだ降らないって言っただけ!」
「同じだ!」
「違う!」
近くの休憩小屋へ。
二人で駆け込む。
雨は。
あっという間に強くなっていた。
「うわ、最悪」
濡れた肩を払う。
「結構濡れたな」
「やっぱお前のせいだ」
「まだ言う?」
「言う」
「空に言えよ」
「お前が言うと降るんだよ」
「そんな力ないけど」
「じゃあ黙ってろ」
「理不尽」
狸は。
いつもの調子だった。
さっきの顔は。
もうしていない。
雨が。
屋根を叩く。
ぱらぱら。
ざあざあ。
冷たい風が。
吹き込んでくる。
「……さみ」
腕を擦る。
「こっち来れば」
「何で」
「俺、あったかいから」
狸を見る。
長椅子の端に。
座っている。
「自分で言うなよ」
そう言いながら。
隣へ座った。
肩が。
軽く触れる。
温かい。
「……あったけえ」
「だろ」
「調子乗んな」
いつもの声。
いつもの距離。
――ぴか。
外が。
白く光った。
少し遅れて。
――ドンッ!
肩が。
わずかに跳ねる。
「近っ――」
「狐!」
身体が。
止まった。
狸だった。
聞いたことのない声。
大きくて。
鋭い。
咄嗟に。
何かを確かめるような。
そんな声だった。
「……いるけど」
狸が。
俺を見ている。
目を見開いて。
「狸?」
返事がない。
「おい」
その瞬間。
狸の手が伸びた。
肩を。
強く掴まれる。
「っ……」
指が。
食い込む。
「狸、痛え」
狸の目が。
揺れた。
「あ……」
手が離れる。
「悪い」
肩を擦る。
「……お前」
「何」
「雷、怖いのか?」
狸の眉が。
動いた。
「は?」
「いや、だって」
「怖くない」
即答だった。
「じゃあ何だよ」
「……」
狸は。
答えない。
「何でもない」
「何でもない奴が、あんな声出すかよ」
「出ることもあるだろ」
「ねえよ」
「ある」
「ねえ」
「あるって」
いつもの言い合い。
なのに。
いつもと。
少し違う。
――ごろごろ。
また。
遠くで。
雷が鳴った。
狸の肩が。
少しだけ強張る。
それから。
こっちを見る。
「……」
「狸」
「ん?」
「……俺、ここにいるぞ」
口から出て。
自分でも。
何でそんなことを言ったのか。
分からなかった。
狸が。
こっちを見る。
「何、急に」
「知らねえよ」
「自分で言ったんだろ」
「なんとなくだよ」
顔を逸らす。
「お前が変だから」
狸は。
何も言わなかった。
*
もう一度。
外が光った。
今度は。
先に狸を見る。
――ドン。
狸の身体が。
強張る。
「……狸」
「大丈夫」
「まだ何も言ってねえ」
「顔に書いてある」
「何が」
「大丈夫かって」
「だったら大丈夫じゃねえ顔すんなよ」
「どんな顔だよ」
「知らねえ」
狸の手を見る。
膝の上で。
握られている。
「……手、出せ」
「え?」
「いいから」
「何」
「手」
「何で」
「うるせえな」
狸の手首を掴む。
そのまま。
手を取った。
「……」
狸の手は。
いつもどおり。
温かい。
でも。
指先まで。
力が入っている。
その手を。
握る。
「……狐」
「何だよ」
「お前の方が冷たいけど」
「うるせえ」
「温めるなら逆じゃない?」
「今日はいいんだよ」
狸が。
黙る。
手は。
離さない。
「雷が怖いなら」
「怖くない」
「じゃあ俺が怖いことにしといてやる」
「……は?」
「俺が怖いから、お前の手掴んでる」
「お前、さっき普通だっただろ」
「今から怖くなった」
「雑だな」
「うるせえ」
狸が。
少しだけ笑った。
「……ほら」
「何」
「笑えるじゃねえか」
「そこ?」
「そこ」
前を向く。
手は。
握ったまま。
しばらくすると。
狸の指から。
少しずつ。
力が抜けていった。
俺は。
そのまま。
離さなかった。
*
雷が。
遠ざかる。
雨も。
少し弱くなった。
「そろそろ帰れそうだな」
狸が言う。
「おう」
立ち上がろうとして。
止まる。
手。
まだ。
握っていた。
狸も。
気づいたらしい。
「……何」
先に言う。
「いや」
「何だよ」
「まだ怖いの?」
「お前がだろ!」
「そうだった」
「設定忘れんなよ」
「設定じゃねえ!」
手を離す。
さっきまで。
狸の熱があったせいか。
少し。
寒い。
「行くぞ」
「はいはい」
二人で。
小屋を出る。
雨上がりの空気は。
冷たかった。
水溜まりを。
避けながら歩く。
「……なあ」
「ん?」
「さっき」
狸の足が。
少しだけ。
遅くなる。
「なんで俺の名前呼んだんだ?」
「……」
「分からない」
「は?」
「俺も分からない」
狸を見る。
「何だそれ」
「だから分からないって」
「変な奴」
「知ってる」
それ以上は。
聞かなかった。
少し。
歩く。
「……狸」
「何」
「次、雷鳴ったら」
前を向いたまま。
言う。
「また俺の名前呼べばいいから」
後ろで。
足音が止まった。
二歩進んで。
振り返る。
狸が。
こっちを見ている。
「何だよ」
「……いや」
「何」
「じゃあ呼ぶ」
「おう」
「うるさいくらい呼ぶ」
「それはやめろ」
「どっちだよ」
鼻で笑って。
また歩き出す。
少しして。
狸の足音が。
近づいてくる。
隣に。
並ぶ。
俺は。
ほんの少しだけ。
歩幅を緩めた。
何があったのかは。
分からない。
でも。
次に。
また呼ばれたら。
返事をする。
いるぞ。
それなら。
できる。
――狸視点
朝から。
嫌な空だった。
理由は。
分からない。
ただ。
目が覚めたときから。
妙に落ち着かなかった。
胸の奥に。
何かが。
引っかかっている。
外へ出る。
空一面を。
厚い雲が覆っていた。
それを見た瞬間。
胸の奥が。
ざわついた。
「……何だよ」
少し前に見た夢が。
頭をよぎる。
古い神社。
色褪せた鳥居。
石段の脇の。
狸の石像。
隣にいた。
誰か。
『俺たち、結婚しようか?』
『嫌だよ、お前とは』
夢の中で。
俺は。
笑っていた。
最後に。
空が。
白く光った。
そこから先は。
何もない。
*
仕事を終えて。
人力車を戻す。
「降るな、これ」
狐が。
空を見上げる。
俺も。
空を見る。
「まだ降らないんじゃない」
「……」
狐が。
こっちを見る。
「何」
「お前がそう言うなら降るな」
「何でだよ」
「忘れたのかよ」
「何を」
「夕立」
「ああ」
「ああ、じゃねえ」
思わず。
笑った。
「一回外しただけじゃん」
「十分もしないうちに降っただろ」
「そんなこともある」
「だから信用しねえ」
「まだ言ってんの」
「一生言う」
「長いな」
また。
笑った。
狐が。
俺を見ている。
「……何」
「見てねえよ」
「まだ何も言ってないけど」
「うるせえ」
そのとき。
――ごろ。
遠くで。
低い音がした。
足が。
止まった。
「雷か?」
狐の声。
返事が。
できなかった。
白く光る空が。
一瞬。
頭をよぎる。
「狸?」
我に返る。
狐が。
隣にいる。
「ん?」
「どうした」
「いや」
「今、変だったぞ」
「そう?」
「そうだよ」
「気のせいだろ」
歩き出す。
雷なんて。
今まで。
何度も聞いている。
なのに。
今の音は。
身体の奥まで。
響いた。
*
雨は。
すぐに降ってきた。
「ほら見ろ!」
狐が。
走りながら叫ぶ。
「俺のせいじゃないだろ!」
「お前が降らねえって言った!」
「まだ降らないって言っただけ!」
「同じだ!」
「違う!」
二人で。
近くの休憩小屋へ。
駆け込む。
「うわ、最悪」
狐が。
濡れた肩を払う。
「結構濡れたな」
「やっぱお前のせいだ」
「まだ言う?」
「言う」
「空に言えよ」
「お前が言うと降るんだよ」
「そんな力ないけど」
「じゃあ黙ってろ」
「理不尽」
いつもの狐だ。
さっきまでの感覚が。
少し。
薄くなる。
狐が。
寒そうに。
腕を擦った。
「……さみ」
「こっち来れば」
「何で」
「俺、あったかいから」
「自分で言うなよ」
そう言いながら。
狐は。
隣へ座った。
肩が。
触れる。
冷たい。
いつもの。
狐の温度。
「……あったけえ」
「だろ」
「調子乗んな」
――ぴか。
視界が。
白く染まった。
古い石段が。
一瞬。
頭をよぎる。
空が。
白い。
隣に。
誰かがいる。
手を。
伸ばそうとする。
――ドンッ!
「狐!」
気づいたときには。
名前を叫んでいた。
「……いるけど」
狐が。
俺を見ている。
いる。
目の前に。
ちゃんと。
「狸?」
次の瞬間。
手が。
動いていた。
狐の肩を。
掴む。
強く。
「っ……」
「狸、痛え」
その声で。
手を離した。
「あ……」
「悪い」
自分の手を見る。
震えていた。
「……お前」
「何」
「雷、怖いのか?」
「は?」
狐を見る。
「いや、だって」
「怖くない」
「じゃあ何だよ」
答えられない。
「何でもない」
「何でもない奴が、あんな声出すかよ」
「出ることもあるだろ」
「ねえよ」
「ある」
「ねえ」
「あるって」
――ごろごろ。
また。
雷が鳴る。
身体が。
強張る。
気づけば。
隣を見ていた。
狐が。
いる。
「狸」
「ん?」
「……俺、ここにいるぞ」
息が。
止まった。
「何、急に」
「知らねえよ」
「自分で言ったんだろ」
「なんとなくだよ」
狐が。
顔を逸らす。
「お前が変だから」
その言葉を聞くと。
胸の奥が。
少しだけ。
静かになった。
*
もう一度。
外が光る。
身体が。
勝手に強張る。
――ドン。
「……狸」
「大丈夫」
「まだ何も言ってねえ」
「顔に書いてある」
「何が」
「大丈夫かって」
「だったら大丈夫じゃねえ顔すんなよ」
「どんな顔だよ」
「知らねえ」
狐が。
俺の手を見る。
そこで。
自分が。
拳を握っていることに気づいた。
「……手、出せ」
「え?」
「いいから」
「何」
「手」
「何で」
「うるせえな」
狐が。
俺の手首を掴む。
そのまま。
手を取る。
冷たい。
いつもの。
狐の手だった。
「……狐」
「何だよ」
「お前の方が冷たいけど」
「うるせえ」
「温めるなら逆じゃない?」
「今日はいいんだよ」
狐が。
手を握る。
冷たい。
でも。
その冷たさに触れていると。
呼吸が。
少しずつ。
戻ってくる。
「雷が怖いなら」
「怖くない」
「じゃあ俺が怖いことにしといてやる」
「……は?」
「俺が怖いから、お前の手掴んでる」
「お前、さっき普通だっただろ」
「今から怖くなった」
「雑だな」
「うるせえ」
笑った。
狐が。
こっちを見る。
「……ほら」
「何」
「笑えるじゃねえか」
「そこ?」
「そこ」
また。
笑った。
狐の手を。
握り返した。
*
雷が。
遠ざかる。
雨も。
弱くなった。
「そろそろ帰れそうだな」
「おう」
立ち上がろうとして。
気づく。
まだ。
手を繋いでいる。
狐も。
気づいたらしい。
「……何」
「いや」
「何だよ」
少しだけ。
からかいたくなった。
「まだ怖いの?」
「お前がだろ!」
「そうだった」
「設定忘れんなよ」
「設定じゃねえ!」
狐が。
手を離す。
「行くぞ」
「はいはい」
外へ出る。
雨上がりの空気は。
冷たい。
地面には。
水溜まりができている。
二人で。
歩く。
「……なあ」
狐が。
口を開いた。
「ん?」
「さっき」
足が。
少し遅くなる。
「なんで俺の名前呼んだんだ?」
答えられない。
俺にも。
分からない。
「分からない」
「は?」
「俺も分からない」
「何だそれ」
「だから分からないって」
「変な奴」
「知ってる」
狐は。
それ以上。
聞かなかった。
少し。
歩く。
「……狸」
「何」
「次、雷鳴ったら」
狐は。
前を向いたまま。
言った。
「また俺の名前呼べばいいから」
足が。
止まった。
狐は。
二歩ほど先へ行ってから。
振り返る。
「何だよ」
「……いや」
何も。
言えなかった。
「じゃあ呼ぶ」
「おう」
「うるさいくらい呼ぶ」
「それはやめろ」
「どっちだよ」
狐が。
鼻で笑って。
また歩き出す。
少しだけ。
先へ行く。
俺も。
歩き出した。
追いつく。
隣に。
並ぶ。
すると。
狐が。
ほんの少しだけ。
歩幅を緩めた。
たぶん。
本人は。
気づいていない。
俺も。
何も言わない。
そのまま。
隣を歩く。
理由は。
まだ。
分からない。
ただ。
狐が。
そこにいる。
呼べば。
返事をする。
手を伸ばせば。
触れられる。
二人で。
雨上がりの道を。
歩いた。




