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第10話|隣の場所

――狐視点


暑い。


それしか考えられなかった。


昼を過ぎても日差しは容赦がなく、石畳の向こうが揺れて見える。


蝉は朝から飽きもせず鳴いている。


「……あっちぃ」


狐は手拭いで首筋の汗を拭った。


午前の仕事を終えて、ようやく休憩。


人力車を戻し、日陰を探して歩く。


いつもの休憩所には何人かいる。


うさぎもいる。


カラスもいる。


空いている場所もある。


けれど。


狐の目は自然と、その先へ向いた。


大きな木の下。


狸がいた。


木陰に座り、柱へ背中を預けている。


笠を横に置いて。


腕を組み。


目を閉じていた。


寝ているらしい。


「…………」


狐は少しだけ立ち止まった。


別に。


狸のところへ行く必要はない。


休むだけなら、ここでいい。


空いている。


日陰だってある。


なのに。


足はもう狸の方へ向いていた。


     *


近づいても。


狸は起きなかった。


「……よく寝てんな」


返事はない。


狐は狸の隣へ腰を下ろした。


少し間を空ける。


肩が触れない程度。


それで十分だ。


「…………」


風が通った。


木の葉が揺れる。


日差しが細かく砕けて、狸の身体に落ちる。


汗の乾きかけた匂い。


衣の匂い。


それから。


もう何度も知ってしまった。


狸自身の匂い。


狐は小さく鼻を鳴らした。


「……まただ」


最近。


この匂いが近いと。


妙に落ち着く。


最初は違った。


汗臭いと思った。


黒足袋だって。


あんなことをした。


思い出した途端、顔が熱くなる。


「…………忘れろ」


寝ている狸へ小さく言う。


当然、返事はない。


そのことに安心して。


狐は膝を立てた。


木陰は涼しい。


狸のそばだけ。


少し暑い。


「お前、ほんと熱いよな……」


呟いて。


また風が吹いた。


気持ちいい。


瞼が。


少し重くなる。


     *


「狐」


「…………」


「狐」


遠くで声がする。


「……うるせえ」


「起きてるやん」


目を開ける。


うさぎが立っていた。


「……何だよ」


「そこ、座ってええ?」


「は?」


うさぎが指したのは。


狐のすぐ横。


狸との間ではない。


反対側に少し空いている場所だった。


座れる。


十分に。


「別に――」


言いかけて。


なぜか。


「……あっち空いてんだろ」


別の場所を指した。


うさぎがそちらを見る。


「空いとるけど、こっちの方が風通るやん」


「だったらそこ座れよ」


「せやから、ここ――」


「ここは……」


口が止まる。


うさぎが見る。


「ここは?」


「…………」


――ここ、俺の。


そこまで出かかった。


狐は口を閉じた。


何が。


俺の、だ。


場所なんて誰のものでもない。


狸の隣だって。


「……狭えだろ」


「狭ないけど」


「狭い!」


「なんで怒んねん」


「怒ってねえ!」


「怒っとるやん」


うさぎが呆れたように笑った。


その後ろからカラスが来る。


「うさぎさん。向こうが空いています」


「せやな。狐が縄張り主張しとるし」


「誰が縄張りだ!」


「ほな、ゆっくりしとき」


「うるせえ!」


二人が離れていく。


狐は舌打ちした。


「……何なんだよ」


また目を閉じる。


そのとき。


「俺の何?」


「――っ!」


真横から声がした。


狸が。


目を開けていた。


「起きてたのかよ!」


「途中から」


「寝てろ!」


「無茶言うな」


狸が欠伸をする。


「で?」


「何が」


「ここ、俺の――なんだって?」


「言ってねえ!」


「言いかけてた」


「言ってねえ!」


狸が薄く笑う。


「俺の隣?」


「違う!」


「じゃあ何」


「知らねえ!」


「自分で言いかけたんだろ」


「うるせえな!」


立ち上がろうとする。


すると。


「どこ行くんだ」


狸が言った。


「向こう!」


「ここでいいだろ」


「お前がうるせえからだよ」


「もう黙る」


「信用できねえ」


「寝るから」


狸はまた柱へ背を預けた。


目を閉じる。


「ほら」


「何が、ほらだよ」


「静かになった」


「…………」


本当に黙った。


狐は立ち上がりかけた姿勢のまま。


しばらく狸を見る。


それから。


「……最初からそうしてろ」


また座った。


     *


どれくらい経ったのか。


分からない。


蝉の声。


木の葉。


遠くの人の声。


隣に狸。


眠るつもりなんてなかった。


ただ。


少し目を閉じただけだった。


     *


最初に感じたのは。


熱だった。


頬が温かい。


それから。


音。


低く。


規則正しい。


何かが聞こえる。


狐は目を開けた。


「…………」


近い。


赤い衣。


その向こうに。


狸の胸。


「…………は?」


状況を理解するまで。


少しかかった。


自分は。


狸にもたれていた。


いや。


もたれているどころじゃない。


頬が狸の胸元にある。


身体もかなり寄っている。


そして。


狸の腕が。


狐の背中へ回っていた。


「…………」


一気に目が覚めた。


「……おい」


「ん」


狸の声。


起きている。


「お前」


「起きた?」


「……何してんだよ」


「何が」


「抱きしめんな!」


狸が一度。


自分の腕を見る。


それから。


狐を見る。


「抱きしめてねえよ」


「してんだろ!」


「落ちてきたから支えてただけ」


「…………」


「何回か頭ぶつけそうになってたぞ」


「起こせよ!」


「よく寝てたから」


「だからって――」


起き上がろうとした。


その瞬間。


動けなかった。


「…………?」


狸が。


狐の胸元を見る。


「あと」


「何」


「俺より、お前の方が離す気ないだろ」


「は?」


狸が視線を落とす。


狐も。


見る。


「…………」


右手。


自分の右手が。


狸の胸元の衣を。


しっかり掴んでいた。


拳の中へ布を巻き込むくらい。


強く。


「…………」


記憶がない。


掴んだ覚えなんて。


一切ない。


「これ、何?」


狸が聞く。


「……知らねえ」


「お前の手だろ」


「知らねえ!」


慌てて離そうとする。


指に力を入れる。


……はずだった。


「…………」


離れない。


いや。


離せる。


指を開けばいいだけだ。


なのに。


狐は。


狸の衣を握ったまま。


止まった。


「狐?」


「…………」


狸の胸が近い。


汗と。


日に温められた衣と。


肌。


そこに混ざる。


知っている匂い。


夕立の日。


雨に濡れた狸の胸へ抱き寄せられたときにも。


同じ匂いがした。


あのときも。


身体は熱くなったのに。


変に落ち着いた。


「…………」


狐は。


もう一度。


狸の胸へ頬を戻した。


狸が少しだけ固まる。


「……狐?」


「うるせえ」


「いや」


「まだ眠い」


「…………」


狐は目を閉じた。


そして。


深く息を吸った。


狸の匂いが入ってくる。


胸の奥まで。


「…………」


落ち着く。


悔しいくらい。


狸が小さく息を吐いた。


「それ、俺の匂い嗅いでない?」


「嗅いでねえ」


「今、思いっきり――」


「うるせえ!」


狐の指に力が入った。


ぎゅっ、と。


さっきより強く。


狸の衣を掴む。


「…………」


狸が黙った。


「……起こすな」


狐が言う。


「分かった」


それだけ。


からかわれると思った。


黒足袋のことまで持ち出されるかと思った。


でも。


狸は何も言わなかった。


背中に回っていた腕が。


少しだけ緩む。


狐が起きたければ。


すぐに起きられるように。


離れたければ。


いつでも離れられるように。


それでも。


狐は離れなかった。


     *


眠ってはいなかった。


狸も。


たぶん分かっていた。


頬の下。


狸の胸がゆっくり上下する。


そのたび。


鼻先へ匂いが届く。


暑い。


狸は熱い。


自分より。


ずっと。


なのに。


離れようとは思わなかった。


「…………」


右手は。


まだ衣を掴んでいる。


眠っている間に掴んだ。


それは分かる。


でも。


今は起きている。


起きているのに。


離していない。


「…………なんでだよ」


小さく呟く。


「何が?」


「寝てろ」


「起きてる」


「じゃあ黙ってろ」


「はいはい」


「その返事やめろ」


狸が少し笑った。


胸が揺れる。


その振動が。


頬へ伝わった。


狐はまた目を閉じた。


眠っていたから。


掴んだ。


きっと。


それだけだ。


寝ぼけていただけ。


狸が近くにあったから。


たまたま。



でも。


今。


指を開かない理由は。


考えないことにした。


     *


風が吹く。


木漏れ日が揺れる。


遠くで。


うさぎの笑い声がした。


いつもの休憩所。


いつもの昼。


何も特別なことなんてない。


ただ。


狸の隣だけ。


妙に居心地がいい。


狐は。


狸の衣を掴んだまま。


ほんの少し。


身体を寄せた。


狸は何も言わない。


その代わり。


狐の背中にある腕を。


落ちない程度に。


そっと残していた。


「…………」


ここは。


誰の場所でもない。


狸の隣だって。


別に。


自分のものじゃない。


分かっている。


それなのに。


さっき。


うさぎが座ろうとしたとき。


嫌だった。


今。


狸から離れることも。


嫌だった。


その理由は。


まだ。


分からない。


ただ。


眠っている間の自分は。


起きている自分より。


少しだけ。


素直だったらしい。


狐は。


狸の衣を握る指を。


最後まで。


開かなかった。


――狸視点


狐は最近。


俺の近くにいることが増えた。


本人は。


たぶん気づいていない。


休憩に入れば、同じ場所へ来る。


飯を食うときも。


仕事が終わったあとも。


何か用があるわけでもないのに。


気づけば。


少し手を伸ばせば届くところにいる。


今日も。


そうだった。


     *


昼を過ぎたころ。


俺は大きな木の下で休んでいた。


暑い。


朝から何本も走ったせいで、身体に熱が籠もっている。


笠を横へ置いて。


柱に背中を預ける。


目を閉じると。


蝉の声が遠くなった。


少し寝るか。


そう思ったところで。


足音が聞こえた。


「…………」


聞き慣れた足音。


目は開けなかった。


近づいてくる。


止まる。


それから。


隣へ腰を下ろした。


――やっぱり。


狐だった。


声をかけようかと思った。


やめた。


狐は。


自分から俺の隣へ来たことを指摘すると、たぶん面倒くさい。


だから。


そのまま寝たふりをした。


     *


「……よく寝てんな」


小さな声。


聞こえている。


返事はしない。


しばらくすると。


「……まただ」


何が。


気になった。


でも。


やっぱり聞かない。


「…………忘れろ」


今度は俺に言ったらしい。


何をだよ。


少し笑いそうになった。


危ない。


起きているのがばれる。


そのうち。


「お前、ほんと熱いよな……」


と聞こえた。


――近いんだから仕方ないだろ。


そう思う。


肩が触れているわけじゃない。


でも。


狐の体温は分かるくらい近い。


俺より少し低い。


あの手当ての夜から。


何度か気づいている。


狐は。


少し冷たい。


俺に触れているうちに。


いつの間にか温かくなる。


それが何となく。


気になっていた。


「…………」


風が吹く。


狐の呼吸が。


少しずつゆっくりになっていく。


――寝るのか。


本当に。


分かりやすい。


     *


少し眠ったらしい。


次に目を覚ましたとき。


うさぎの声がした。


「狐」


「…………」


「狐」


「……うるせえ」


「起きてるやん」


俺はまだ目を閉じていた。


「……何だよ」


「そこ、座ってええ?」


うさぎがどこを指しているのかは見えない。


ただ。


狐の返事が。


妙に遅かった。


「別に――」


一度。


言葉が切れる。


「……あっち空いてんだろ」


「空いとるけど、こっちの方が風通るやん」


「だったらそこ座れよ」


「せやから、ここ――」


「ここは……」


また。


狐が止まった。


「ここは?」


うさぎが聞く。


「…………」


少しだけ。


目を開けた。


狐は気づいていない。


うさぎを睨んでいる。


何かを言いかけて。


言えなくなった顔。


「……狭えだろ」


「狭ないけど」


「狭い!」


――狭くはないな。


普通に一人座れる。


「なんで怒んねん」


「怒ってねえ!」


怒ってるだろ。


うさぎの後ろからカラスが来る。


「うさぎさん。向こうが空いています」


「せやな。狐が縄張り主張しとるし」


「誰が縄張りだ!」


二人が離れていく。


狐が舌打ちした。


「……何なんだよ」


俺は。


もう少しだけ目を閉じたままでいようと思った。


でも。


気になった。


さっき。


狐が言いかけた言葉。


ここは。


その続き。


何だったんだろう。


「俺の何?」


「――っ!」


狐が飛び上がる。


面白い。


「起きてたのかよ!」


「途中から」


「寝てろ!」


「無茶言うな」


欠伸をする。


「で?」


「何が」


「ここ、俺の――なんだって?」


「言ってねえ!」


「言いかけてた」


「言ってねえ!」


顔が赤い。


やっぱり。


何か言おうとしたらしい。


「俺の隣?」


「違う!」


「じゃあ何」


「知らねえ!」


立ち上がろうとする。


――あ。


からかいすぎたか。


「どこ行くんだ」


「向こう!」


「ここでいいだろ」


「お前がうるせえからだよ」


「もう黙る」


「信用できねえ」


「寝るから」


柱へ背中を戻す。


目を閉じる。


「ほら」


「何が、ほらだよ」


「静かになった」


「…………」


しばらくして。


狐がまた座った。


その気配に。


少しだけ。


口元が緩んだ。


     *


今度は。


本当に眠った。


どれくらい経ったかは分からない。


目が覚めた理由は。


重さだった。


肩に。


何かが乗っている。


目を開ける。


「…………」


狐だった。


寝ている。


さっきより。


随分近い。


最初は肩へ頭を乗せていただけだった。


そのまま。


身体が少しずつ傾いてくる。


「おい……」


起こそうかと思った。


でも。


よく寝ている。


顔から。


いつもの険が消えている。


起きているときは。


何か言えばすぐ怒る。


触れれば固くなる。


目が合えば逸らす。


それなのに。


寝ている狐は。


驚くくらい無防備だった。


「…………」


もう少しだけ。


そのままにした。


すると。


狐の身体がさらに傾いた。


「危な」


頭が落ちそうになる。


反射的に。


背中へ腕を回した。


支える。


狐は起きない。


それどころか。


俺の胸へ頬を寄せてきた。


「…………」


寝ぼけている。


そう思った。


そして。


もう一つ。


気づいた。


狐の手が。


俺の胸元にある。


指が。


衣を掴んでいた。


軽くじゃない。


しっかり。


離さないように。


「……狐」


小さく呼ぶ。


返事はない。


眠っている。


――自分から掴むんだな。


起きている狐なら。


絶対にしない。


少なくとも。


今はまだ。


理由もなく。


こんなふうには。


     *


しばらく。


その手を見ていた。


俺の衣を握る。


狐の指。


少し前まで。


狐が俺に触れるには。


必ず理由があった。


怪我だから。


手当てだから。


再発予防だから。


そういうものを一つずつ並べて。


自分に言い聞かせるようにして。


俺へ触れていた。


でも。


今は。


眠っている。


言い訳を考える頭も。


自分を止める意地も。


たぶん働いていない。


その狐が。


俺を掴んでいる。


「…………」


胸の奥に。


何かが広がった。


少し前の俺なら。


きっと。


これを証拠にした。


――ほら。


やっぱりお前は俺を求めてる。


そう思って。


起きた狐を困らせた。


もっと近づけようとした。


もっと。


俺を選ばせたくなった。


けれど。


今は。


ただ。


起こしたくないと思った。


     *


何度か。


狐の頭がずれた。


そのたびに支えた。


背中へ回した腕は。


抱きしめるためじゃない。


落ちないように。


それだけ。


――それだけのつもりだった。


でも。


腕の中にいる狐は。


思っていたより。


しっくりきた。


「…………」


妙だな。


普段は。


狐が俺へ触れてくる。


脚を揉む。


足首を掴む。


隣に座る。


俺は。


それを待つ側だった。


今は。


狐の方が。


何も知らずに身体を預けている。


それを支えている。


悪くない。


むしろ。


ずっとこうしていてもいいと思った。


     *


やがて。


狐が目を開けた。


「…………」


しばらく。


ぼんやりしている。


「……おい」


「ん」


「お前」


「起きた?」


「……何してんだよ」


「何が」


「抱きしめんな!」


自分の腕を見る。


それから。


狐を見る。


「抱きしめてねえよ」


「してんだろ!」


「落ちてきたから支えてただけ」


「…………」


「何回か頭ぶつけそうになってたぞ」


「起こせよ!」


「よく寝てたから」


「だからって――」


狐が起き上がろうとする。


けれど。


途中で止まった。


自分の手に。


ようやく気づいたらしい。


「あと」


「何」


「俺より、お前の方が離す気ないだろ」


「は?」


視線を落とす。


狐も見る。


固まった。


「…………」


面白いくらい。


固まった。


「これ、何?」


「……知らねえ」


「お前の手だろ」


「知らねえ!」


慌てて。


離そうとする。


そう見えた。


でも。


指は開かなかった。


「…………」


俺も。


何も言わなかった。


狐なら。


本当に嫌ならすぐ離す。


それくらいは分かる。


なのに。


離さない。


「狐?」


「…………」


狐が。


ゆっくり。


俺の胸へ頬を戻した。


今度は。


起きている。


――自分から。


少しだけ。


呼吸を忘れた。


「……狐?」


「うるせえ」


「いや」


「まだ眠い」


「…………」


狐が目を閉じる。


それから。


俺の胸元で。


深く息を吸った。


「…………」


――ああ。


これ。


匂い嗅いでるな。


黒足袋のときと。


たぶん同じ。


「それ、俺の匂い嗅いでない?」


「嗅いでねえ」


「今、思いっきり――」


「うるせえ!」


ぎゅっ。


胸元が引かれた。


狐が。


俺の衣を。


さっきより強く掴んだ。


「…………」


何も言えなくなった。


いや。


言おうと思えば。


いくらでも言える。


匂い好きなんだな。


もっと近くで嗅ぐか。


そんなことを言えば。


狐は真っ赤になって怒る。


たぶん。


面白い。


でも。


やめた。


「……起こすな」


「分かった」


それだけ答えた。


背中へ回していた腕を。


少し緩める。


起きたければ。


起きられるように。


離れたければ。


離れられるように。


俺が閉じ込めているせいで。


狐がここにいる形にはしたくなかった。


それでも。


狐は。


離れなかった。


     *


眠っていない。


分かる。


呼吸が。


さっきとは違う。


それでも狐は。


目を閉じたまま。


俺の胸へ頬を預けている。


衣を掴んだまま。


「…………」


胸のあたりが。


妙に落ち着かない。


狐の頭があるから。


心臓の音まで。


聞かれそうな気がする。


でも。


今は。


聞かれてもいいかと思った。


まだ狐は。


そんなことまで気にしていないだろうけど。


「…………なんでだよ」


狐が小さく呟いた。


「何が?」


「寝てろ」


「起きてる」


「じゃあ黙ってろ」


「はいはい」


「その返事やめろ」


笑った。


すると。


胸にいる狐が。


ほんの少し動いた。


俺の笑いが。


身体を通して伝わったらしい。


それでも。


離れない。


     *


風が吹く。


木の葉が鳴る。


蝉の声。


遠くで。


うさぎが笑っている。


何でもない昼だった。


大したことは。


何も起きていない。


狐が。


俺の隣で眠った。


寝ぼけて。


俺の衣を掴んだ。


起きてからも。


離さなかった。


それだけ。


でも。


俺は。


その「それだけ」が。


妙に嬉しかった。


     *


少し前。


俺は。


狐が俺に触れる理由を。


全部、自分にしたいと思った。


笑う理由も。


怒る理由も。


困る理由も。

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