29 救援と恐怖
俺は床へ額を擦り付けているエリーゼを見下ろした。
王妃だった頃の面影など、今の姿にはほとんど残っていない。
それでも、この女はこれまで俺に頭を下げなかった。
そんな女が、今は子供たちのためだけに床へ額を押し付けている。
俺はしばらくその姿を眺めたあと、肩を竦めた。
「第二夫人の話は冗談だ」
エリーゼの肩がびくりと震える。
ゆっくりと顔を上げたその目には、信じたい気持ちと信じられない気持ちが混ざっていた。
「お前の子供たちのことは、助けてから考えよう」
その言葉を聞いた瞬間、エリーゼの瞳にわずかな光が戻る。
だが同時に、その希望が俺の一言で簡単に消えることも理解しているのだろう。
恐る恐る口を開いた。
「助けに行ってくださるのですか……?」
震えた声だった。
「ああ」
「お前の頼みだ」
「今回だけは聞いてやる」
そして、わざと声を低くする。
「ただし、次はないぞ」
エリーゼは小さく身を震わせた。
何度も頭を下げる。
その姿を見ながら、俺は小さく笑った。
数か月前まで王妃だった女が、今は俺に縋りついている。
なかなか愉快な光景だ。
俺はマリウスへ視線を向ける。
「少し留守にする」
「ゴージマは牢へ戻しておけ」
「はっ」
マリウスが頭を下げる。
俺は勇者の剣を肩へ担ぐと、そのまま空へ飛び立った。
西へ。
戦場へ。
しばらく飛ぶと、遠方に黒煙が見え始めた。
さらに近付けば、戦火がはっきりと見える。
ゴージマ王国の旗が倒れ、兵士たちが押し込まれている。
どうやら報告どおりらしい。
「使えんな」
俺は小さく舌打ちした。
そして剣を掲げる。
≪ステラ≫
空が輝いた。
次の瞬間、無数の光が戦場へ降り注ぐ。
戦っていた兵士たちは一斉に空を見上げた。
敵も味方も関係ない。
誰もが、その異常な光景に動きを止める。
そして戦場は混乱へと変わった。
俺はその様子を見下ろしながら飛び続ける。
やがて前方にアンナの姿を見つけた。
剣を握り締めている。
だが顔色は悪い。
王女ではなく、一人の少女の顔だった。
俺が近付くと、アンナは反射的に身構えた。
「そう構えるな」
「エリーゼに頼まれて来ただけだ」
アンナは何も答えない。
ただ俺を見つめている。
信じていないのだろう。
それでいい。
俺はアンナの腰を抱え、そのまま空へ舞い上がった。
アンナの体が強張る。
抵抗する気力すら残っていないようだった。
そして再び魔法を発動する。
≪グラビティ・プレス≫
戦場の各所から悲鳴が上がる。
兵士たちは立っていられなくなり、次々と地面へ倒れていく。
敵も味方も関係ない。
区別する理由もない。
あちこちで悲鳴が響き、それがやがて断末魔へ変わる。
アンナは目を見開いていた。
声も出ないらしい。
ただその光景を見つめている。
三十分もかからなかった。
戦場は静寂に包まれた。
眼下には無数の亡骸が広がっている。
アンナはとうとう耐え切れなくなったのか、吐き戻した。
「おいおい」
「俺を汚すなよ」
そう言うと、アンナはさらに青ざめた。
助けに来たはずなのに。
まるで災厄を見るような目をしている。
俺は気にせず西へ向かう。
やがてダントン連合国の城が見えてきた。
俺は迷わず魔法を放った。
≪アポカリプス・フレア≫
業火が城を包む。
炎は広がり続ける。
街へ。
森へ。
山へ。
アンナは絶句していた。
俺は笑う。
「この火はしばらく消えん」
「ダントン連合国も終わりだろうな」
アンナは何も答えない。
ただ震えている。
そして俺たちはゴージマ王国軍の陣営へ戻った。
兵士たちは俺を見るなり道を開ける。
尊敬ではない。
畏怖だった。
俺は近くの兵士へ尋ねる。
「ニックはどこだ?」
兵士は震えながらテントを指差した。
俺はアンナを連れて中へ入る。
そこにはニックが横たわっていた。
顔色は悪い。
呼吸も浅い。
失った腕の傷跡も生々しい。
アンナが駆け寄る。
「ニック兄様!」
呼びかけても反応はない。
やがて呼吸が止まった。
テントの中が静まり返る。
アンナの顔から血の気が引いた。
俺は肩を竦める。
「死んでいた方が楽だったんだがな」
アンナが俺を睨む。
「そんな言い方……」
「勘違いするな」
俺は苦笑した。
「生きている方が面倒だという意味だ」
そう言って手をかざす。
≪リザレクション≫
光が溢れた。
次の瞬間。
ニックの胸が大きく上下する。
閉じていた目が開く。
そして失われていた腕も元通りになっていた。
ニックは呆然としている。
アンナも同じだった。
何が起きたのか理解できていない。
俺は二人を見下ろした。
「帰るぞ」
「お前たちの母親が待っている」
ニックは自分の腕を何度も見ていた。
アンナはそんな兄を見ながら、ゆっくりと俺へ視線を向ける。
その目にあったのは感謝ではない。
恐怖だった。
助かった。
兄も生き返った。
それなのに安心できない。
この男なら救うこともできる。
同じように奪うこともできる。
そんな確信だけが胸に残っている。
俺はそんな視線に気付きながらも笑う。
「どうした?」
「助かったんだぞ?」
二人は何も答えなかった。
俺は肩を竦める。
そして二人を抱え、再び空へ飛び立った。
ゴージマ王国へ。
泣きながら助けを求めた母親の元へ。




