第008話
さて、問題はここからどうやって逃げるかである。
このまま来た道へ向かって走り出したところで、たぶん簡単には逃がしてもらえない。
相手がどの程度速いのかは分からないが、少なくとも《聖騎士》であるチェルシーさんを見て、「倒して帰れば褒めてもらえる」なんて余裕を見せている奴だ。そんな相手が俺より足まで遅いことを期待するのは、いくら何でも楽観的すぎる。
もし本当に俺より遅かったら、それはそれで拍子抜けだが、俺の人生はこういう時だけ都合の悪い方向へ転がることが多いので、そんな幸運には期待しないほうがいい。
そうなると、走り出す前に何か一つでも隙を作る必要がある。
ほんの数秒、いや、一秒でも構わない。
相手の視線を逸らすか、足を止めるか、次の行動を判断するまでの時間を少し遅らせることができれば、その瞬間に俺たちは全力で逃げればいい。
そもそも、こいつを倒す必要なんてない。
教師へ報告できるところまで生きて戻れば、それで十分なのだから。
俺は隣にいるチェルシーさんへ、魔族に聞こえない程度の小さな声で話しかけた。
「チェルシーさん」
「何?」
「確か、聖騎士って《フラッシュ》を使えますよね?」
チェルシーさんが、わずかにこちらを見る。
《フラッシュ》は聖属性の初歩的な魔法で、強烈な光によって相手の目を眩ませるものだ。魔族やアンデッドを相手にした場合は多少のダメージも与えられるらしいが、威力そのものは高くなく、それ一つで敵を倒せるような魔法ではない。
ただ、今回はそれで十分だった。
俺たちの目的は相手を倒すことではなく、逃げるための隙を作ることなのだから、一瞬でも視界を奪えればいい。
「使えるわ」
チェルシーさんが小声で答えた。
それなら話は早い。
俺は魔族の様子を窺った。
向こうは相変わらず余裕たっぷりで、こちらが小声で相談していることにも気づいているはずなのに、邪魔しようとする様子すらない。
まるで俺たちが何を考えようと、どうせ逃げられないと確信しているようだった。
腹は立つが、今はその余裕を利用したほうがいい。
むしろ徹底的に舐めてもらったほうが助かる。
「じゃあ、最初に少しだけ戦ってください」
「少し?」
「はい」
「どのくらい?」
「死なない程度に」
「曖昧ね」
「俺もそこまで細かく分かりませんよ」
戦闘経験なんて、ほとんどない。
まして相手は魔族だ。
何秒戦ってくださいとか、何回剣を合わせてくださいとか、そんな具体的な指示を出せるわけがない。
俺は足元へ視線を落とした。
道の脇に、掌へ収まるくらいの石が転がっている。
大きすぎず、小さすぎず、投げるには悪くなさそうだ。
俺が目線だけで石を確認すると、チェルシーさんもそれに気づいたらしい。
「あいつがチェルシーさんに集中したところで、俺が石を投げます」
「石?」
予想通り、何とも言えない顔をされた。
言いたいことは分かる。
相手は魔族で、チェルシーさんは聖騎士。
その横で俺が用意するのは、その辺に落ちていた石である。
並べてみると、俺だけ急に原始的だ。
「別に石で倒そうって話じゃないですよ」
「当然でしょう」
「そこまで即答しなくても」
「倒せると思っているの?」
「思ってません」
石一個で倒せるような相手なら、学園側の教師や騎士がとっくに排除している。
「俺が石を顔の近くへ投げた瞬間に、《フラッシュ》を使ってください」
そこでチェルシーさんの表情が少し変わった。
ようやく意図が伝わったらしい。
「石に視線を向けさせるのね」
「はい。顔の近くへ何か飛んできたら、人間なら反射的にそっちを見るでしょう?」
「たぶん」
「魔族でも」
「……たぶん」
「そこは信じましょう」
信じるしかない。
魔族には顔へ飛んでくる物を無視する習性がある、なんて妙な特徴があったら知らない。
そこまで考えていたら何もできなくなる。
「石を見る。その瞬間に《フラッシュ》を使って目を眩ませる。そのまま俺たちは後ろへ走る」
「なるほど」
「大事なのは逃げることですから、隙ができても倒そうとしないでくださいね」
「分かってるわ」
「本当に?」
「分かってる」
「目が眩んだからって斬りかからないでくださいよ」
「しつこいわね」
「大事なので」
この人は聖騎士で、正義感も強い。
隙ができたなら、今のうちに攻撃したほうがいいなどと考え始めたら困る。
今必要なのは勝利ではなく離脱だ。
「ちゃんと逃げるわよ」
「それなら安心です」
そこまで確認できて、ようやく少し肩の力が抜けた。
少なくとも今のところ、意思疎通はできている。
「それで?」
「はい?」
「逃げた後はどうするの?」
「先生のところまで走ります」
「追ってきたら?」
「もっと走ります」
チェルシーさんが呆れたような顔をした。
「それだけ?」
「それだけです。俺たちは学生なんですから、危険な敵を見つけて逃げて、先生へ知らせれば十分でしょう」
「戦うことを考えないのね」
「考えません」
そこは迷わず即答した。
勝てる可能性の低い相手と、わざわざ戦う理由なんてない。
格好良さや名誉、手柄なんてものは後からいくらでも考えればいいが、命だけはなくしたら終わりだ。
俺に必要なのは、どう考えてもそちらである。
「生きて帰れば勝ちです」
「……本当にあなたらしいわね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてはいないけど」
「知ってます」
それでもチェルシーさんは、もう一度魔族へ視線を戻してから少し考え、静かに頷いた。
「悪くないと思うわ」
思わず俺はチェルシーさんの顔を見る。
「何?」
「いえ、少し嬉しくなりまして」
「何が?」
「チェルシーさんに初めてまともに肯定された気がするので」
「だから褒めてはいないわ」
「細かいことはいいじゃないですか」
「よくない」
そう返されても、少しだけ気分が軽くなった。
これまでの俺とチェルシーさんは、たまたま同じ班にされただけの、どうにも相性の悪い二人だった。
俺は彼女を真面目すぎると思い、彼女は俺を信用できない軽薄な男だと思っている。
少なくとも、今まではそんな関係だった。
だが今は、同じ危険から生きて帰るために、一つの作戦を共有している。
期間限定かもしれないが、仲間と呼ってもいいのかもしれない。
俺はゆっくり腰を落とし、足元にあった石を拾った。
ごつごつした、どこにでもある普通の石だ。
手の中で一度転がして重さを確かめると、投げるにはちょうどよさそうだった。
昔、レナと川へ遊びに行った時、誰が遠くまで石を投げられるか競争したことがある。
まさか、その経験が魔族相手に役立つ日が来るとは思わなかった。
人生、何が役に立つか分からないものだ。
「アークライトさん」
「はい?」
「外さないでくださいね」
「プレッシャーをかけるの、やめてもらえません?」
「この作戦を考えたのは貴方でしょう」
「そうですけど」
「顔の近くへ投げるんですよね?」
「予定では」
「予定?」
チェルシーさんの視線が冷たくなったので、俺はすぐに言い直した。
「頑張ります」
「お願いします」
怖い。
外したら、魔族より先にチェルシーさんから怒られそうな気がする。
もっとも、怒られるためにはまず生き残らなければならない。
今はそちらのほうが大事だ。
俺は石を軽く握ったまま魔族を見る。
向こうは、そんな俺たちの様子を眺めながら薄く笑っている。
こちらが何か企んでいることには気づいているだろう。
声を小さくして話しているとはいえ、相談しているのは丸分かりだ。
それでも止めない。
やっぱり舐めている。
一年生が二人いて、そのうち一人は聖騎士だが、もう一人は俺だ。
俺には戦闘向きの固有スキルなんてないし、剣術も魔法も魔力量も人並みで、変わっているのは《ショップ》くらいしかない。
しかも、その《ショップ》は金がなければ何もできず、今の俺の財布では戦闘用の高級品なんてまともに買えそうにない。
だから石である。
道端に落ちているので仕入れ値はゼロ、しかも税金まで取られない。
宇迦之御魂神様には申し訳ないが、今日はこのまま商品を買わずに済ませたい。
俺は強くない。
チェルシーさんだって、目の前の魔族より強い保証はない。
だったら正面から勝負する必要なんてないし、格好良く倒す必要も、手柄を立てる必要もない。
逃げ切って教師へ知らせる。
それだけで十分だ。
「チェルシーさん」
「何?」
「最後に確認しますね。俺が石を投げたら《フラッシュ》を使って、そのまますぐ後ろへ走る。途中で振り返らず、相手が転んでも苦しんでいても戻らない」
「分かってるわ」
「本当にお願いしますよ」
「戻らないって言ってるでしょう」
チェルシーさんが呆れたように俺を見る。
「貴方、私を何だと思っているの?」
「聖騎士です」
「……それが?」
「正義感で戻りそうなので」
「戻らないわよ!」
少し声が大きくなった。
それを聞いた魔族が面白そうに笑う。
「作戦会議は終わったか?」
やっぱり聞こえていた。
まあいい。
全部までは分かっていないだろう。
たぶん。
俺はできるだけ平静を装って答えた。
「お待たせしました」
「別に待ってはいない」
「そうですか」
愛想笑いを浮かべると、魔族の視線が俺へ向いた。
その瞬間、胸の奥が冷たくなる。
怖い。
普通に怖い。
相手が人間なら、まだどういう攻撃をしてくるのか想像できるかもしれない。
だが相手は魔族で、どれくらい強いのか、何ができるのか、何一つ分からない。
石を外したらどうなるのか、《フラッシュ》が効かなかったらどうするのか、相手がこちらより圧倒的に速かったら逃げ切れるのかと考えていくうちに、最後には一撃で殺される可能性まで頭に浮かんだ。
そこまで考えたところで、改めて強く思う。
死にたくない。
俺にはまだ、この先やることがある。
学園を卒業して安定した仕事を見つけ、金を稼いで実家へ仕送りをしたい。レナの将来のためにも金を貯めたいし、自分だって普通に飯を食って、普通に歳を取っていきたい。
何より、今日の昼飯すらまだ食べていない。
こんな森の中で、名前も知らない角の生えた男に殺される予定なんて、俺の人生設計にはどこにも入っていない。
だから逃げる。
何としてでも生きて帰る。
俺は石を握る手へ少しだけ力を込めた。
隣では、チェルシーさんが盾を構え直している。
剣を握る右手と盾を持つ左腕の位置が変わり、足もわずかに前へ出る。
呼吸まで落ち着いていた。
さっきまで俺と言い合っていた少女とは思えないほど、その雰囲気は変わっている。
完全に《聖騎士》の顔だった。
「では、チェルシーさん」
「ええ」
「お願いします」
「分かったわ」
一瞬だけ目が合った。
それだけで、合図には十分だった。
次の瞬間、チェルシーさんが地面を蹴る。
踏み込んだ足元から土が弾け、一気に魔族との距離を詰めていった。
その姿を見た魔族の笑みがさらに深くなる。
「来るか、聖騎士!」
俺はその場に残った。
手の中には、さっき拾った石がある。
チェルシーさんの背中が遠ざかっていくが、今見るべきなのはそこではない。
魔族の目線だけを追う。
まだだ。
もう少しだけ、こっちを見ないでくれ。
チェルシーさんだけを見ていろ。
俺は弱く、戦えないただの付き添いだと思っていてくれればいい。
実際、ほとんど間違っていない。
だが、その油断があるなら、一瞬だけ利用させてもらう。
石を投げて視線を向けさせ、その瞬間に《フラッシュ》を叩き込んでもらい、あとは二人で全力で走る。
やることは、それだけだ。
俺は石を握ったまま、魔族の意識が完全にチェルシーさんへ向く、その瞬間を待った。




