第009話
チェルシーさんが地面を蹴った。
踏み込んだ勢いのまま一気に魔族との間合いを詰め、剣を大きく振りかぶる。
「はぁっ!」
狙いは首元だった。
鋭い斬撃が横薙ぎに走り、俺だったらあんな勢いで剣を振られた時点で腰を抜かしていると思う。
だが、魔族は違った。
ほんの少し上体を傾け、一歩横へずれただけでチェルシーさんの剣を避ける。
やっぱり当たらないか。
どう見ても相手のほうが強そうなので、そこは最初から期待していない。
むしろ、それでいい。
最初からまともに戦って勝つつもりなんてないし、チェルシーさんには悪いが、この戦闘はあくまで逃げるための前座である。
目的は魔族を倒すことではなく、その意識をチェルシーさんへ集中させ、俺の存在を一時的に忘れさせることだった。
俺は手の中の石を握ったまま、二人の動きをじっと見つめた。
あとはタイミングさえ合えばいい。
ところが、しばらく戦いを見ているうちに、作戦とは別の意味で目が離せなくなってきた。
「……強いな」
思わず声が漏れる。
チェルシーさんは普通に強かった。
最初の一撃を避けられてもまったく怯まず、振り抜いた剣の勢いを無理に止めることなく、そのまま身体を回しながら盾を前へ出してさらに一歩踏み込む。
二撃目が走ると、今度は魔族が腕を上げた。
剣と腕がぶつかり、甲高い音が森へ響く。
魔族の腕は切れず、逆にチェルシーさんの剣が弾かれたが、それでも彼女は止まらなかった。
一歩下がって体勢を整えるとすぐに踏み込み直し、剣で斬りつけながら盾を相手の動線へ差し込み、さらに次の攻撃へつなげていく。
攻撃の合間へ自然に防御を挟み、簡単には反撃させない。
これ、本当に俺と同じ一年生なんだよな。
俺なんて剣術の授業で、「もっと腰を入れろ」とか「剣に振り回されるな」とか言われているんですけど。
あまりにも差が酷い。
もっとも、チェルシーさんは代々《聖騎士》を輩出してきたイーストン伯爵家の娘だ。
たぶん幼い頃から剣を握り、身体が大きくなる前から基礎訓練を受けてきたのだろう。
対する俺は、貧乏男爵家の次男である。
剣を真面目に振るようになるより先に、薪や荷物を持っていた。
そもそも比較すること自体が間違っている。
魔族はそんなチェルシーさんの攻撃を受けながらも、相変わらず余裕そうだった。
「悪くない」
剣を軽くかわしながら笑う。
「人間の小娘にしてはな」
「っ!」
チェルシーさんの表情が険しくなる。
挑発に乗るなよ。
俺は石を握ったまま、心の中で祈った。
頼むから予定通りにやってください。
こっちは勝つためではなく、逃げるために戦っているんだから。
その思いが届いたのかどうかは分からないが、チェルシーさんは無理に追撃せず、一度大きく後ろへ跳んで魔族との距離を取った。
そして剣を胸の前へ構え、短く息を整える。
「天を衝く白銀の輝きよ――」
詠唱?
チェルシーさんの剣へ、白い光が少しずつ集まり始める。
「我が刃に宿りて、邪悪を断て。集え光華――《神聖なる剣》!」
次の瞬間、剣身全体が眩い白銀の光に包まれた。
《ディバインウェポン》。
武器へ聖属性を付与する魔法だ。
「まじか……」
エンチャントまで使えるのか。
まだ一年生だぞ。
俺だったら、入学してすぐこんな魔法を使えたら一週間どころか一か月くらい自慢して回ると思う。
寮でも食堂でも授業の合間でも、頼まれていないのに見せびらかし、最後には先生から怒られるだろう。
そのくらい羨ましい。
さすが聖騎士様である。
ただ、その白銀の光を見た瞬間、今まで余裕たっぷりだった魔族の表情が初めてわずかに変わった。
「ほう」
笑みはまだ残っている。
だが、明らかに見る目が変わった。
警戒した。
つまり、効く。
やっぱり聖属性は魔族に通用するらしい。
チェルシーさんが再び地面を蹴った。
先ほどまでより速い。
白銀の光を纏った剣を大きく振り上げ、そのまま一気に振り下ろす。
「はぁぁっ!」
今度は魔族も、さっきのように軽く身をかわそうとはしなかった。
いや、避ける余裕がなかったのかもしれない。
片腕を上げ、その剣を真正面から受け止める。
素手で。
「なっ!?」
白銀の光が激しく弾けた。
耳を刺すような音が響き、魔族の手から白い煙が上がる。
聖なる光に焼かれたらしく、皮膚が赤く焦げていた。
「おっと」
魔族がわずかに顔をしかめる。
だが、それだけだった。
腕が落ちたわけでもなく、骨が折れた様子もない。
聖属性を付与された剣を、こいつは素手で止めた。
本当に何なんだ、この魔族。
ただし、俺にとって重要なのはそこではない。
今、魔族の意識は完全にチェルシーさんへ向いている。
俺のことなんて眼中にない。
ここだ。
俺は握っていた石を振りかぶった。
狙いは魔族の顔そのものではなく、そのすぐ横である。
当てる必要はない。
視線さえ向ければいい。
「今です!」
全力で腕を振る。
石が空中を飛び、魔族の視界の端へ入った。
「ん?」
反射的に魔族の目が石を追う。
よし。
チェルシーさんも即座に反応した。
剣を引きながら左手を魔族へ向ける。
「天光よ、奴の視界を焼き尽くせ――《フラッシュ》!」
掌へ集まった白い光が、一気に弾けた。
次の瞬間、視界が真っ白になるほどの光が周囲を包んだ。
「ぐっ!?」
魔族が顔を背け、両目を押さえる。
成功した。
「チェルシーさん!」
俺はすぐに彼女の腕を掴んだ。
「逃げましょう!」
「え、ちょ――」
「作戦通りです!」
問答無用で来た道へ走り出す。
チェルシーさんも一瞬遅れて意図を理解し、すぐに俺へ合わせて走り始めた。
枝を綺麗に避ける余裕なんてないし、足元の石を一つずつ確認している暇もない。
前だけを見て、ひたすら走る。
一度だけ後ろを確認すると、魔族はまだ目元を押さえながらよろめいていた。
よし。
ざまあみろ。
勝てないなら逃げればいい。
俺たちは学生なのだから、魔族退治なんて教師や騎士へ任せればいいのだ。
先生、仕事ですよ。
頑張ってください。
俺たちは生徒なので、ここで帰らせてもらいます。
実に正しい役割分担である。
「アークライトさん!」
隣からチェルシーさんの声が飛んできた。
「何です!?」
「手!」
「え?」
「手を離して!」
そこで初めて、自分がまだチェルシーさんの腕を掴んだまま走っていることに気づいた。
「あ、すみません!」
慌てて手を離す。
「別に逃げませんから!」
「いや、勢いで!」
「前を見て!」
「はい!」
怒られた。
だが今は、怒られている場合ではない。
俺たちはそのまま走り続けた。
一分なのか二分なのか、それとももっと長かったのか、全力で走っていると時間の感覚なんて分からなくなる。
ただ、俺の身体は確実に限界へ近づいていた。
「はぁ……はぁ……!」
肺が痛い。
喉も焼けるように乾き、脚まで少しずつ重くなってくる。
人間が全力で走り続けられる距離なんて、たかが知れている。
チェルシーさんはというと、普通に走っていた。
呼吸すらほとんど乱れていない。
おかしい。
同じ人間ですよね?
「チェ……チェルシーさん……」
「何?」
「少し……速度を……」
「遅くする?」
「お願いします……」
俺の状態を見たチェルシーさんが、少しだけ速度を落としてくれる。
「体力ないのね」
「入学前まで……日雇いで荷物を運んでたんですけどね……」
「荷物を運ぶ体力と、全力で走る体力は別でしょう」
「さいですか……」
悔しい。
ただ、さすがにここまで走れば相当な距離を取れたはずだ。
そもそも森の奥深くまで入っていたわけではないし、このまま進めば教師が待機している場所へ戻れる。
そこまで行けば助かる。
そう思った。
その時だった。
「いやぁ~」
前方から聞き覚えのある声がした。
「びっくり、びっくり」
俺たちの足が、ほとんど同時に止まった。
木の陰から、さっきの魔族がひょいと姿を現す。
まるで散歩の途中で知り合いに会ったかのような気軽さだった。
うそだろ。
早すぎない?
俺たちはかなり本気で走ったぞ。
しかも、こいつはさっきまで後ろにいたはずなのに、どうして前から出てくるんだ。
瞬間移動したのか、それとも俺たちから見えない場所を大きく回り込んで追い越したのかは分からない。
どちらにしても最悪である。
魔族は目元を軽く擦りながら笑っていた。
「そのお嬢ちゃん、案外やるねぇ」
さっき《神聖なる剣》を受けた手を見ると、少し赤く焼けている。
それだけだ。
あれだけ白銀の光が弾けたというのに、まともな傷と呼べるほどのものすら残っていない。
チェルシーさんは即座に俺の前へ出て剣を構え、俺も反射的に一歩後ろへ下がった。
魔族はそんな俺たちを眺めながら、一歩ずつ近づいてくる。
「でもねぇ、逃がさないよ」
やっぱりそうですよね。
分かっていたつもりではいたけれど、できれば分かりたくなかった。
チェルシーさんが盾を構えたまま、完全に俺を庇う位置へ立つ。
「ゲール」
「はい?」
返事をしたあと、一瞬だけ引っかかった。
名前だ。
今までずっと「アークライトさん」と呼ばれていたのに、初めて「ゲール」と呼ばれた。
ただ、今それを気にしている状況ではない。
チェルシーさんは魔族から目を離さないまま言った。
「貴方だけでも逃げなさい」
「えぇ……」
それはちょっと。
思わず微妙な声が出た。
「それ、男としてどうなんでしょう?」
「私のほうが貴方より強いわ」
「ソウデスネ」
そこは即答した。
悲しいくらい事実である。
剣の腕はチェルシーさんのほうが上で、魔法も彼女のほうが強い。体力だって俺よりあるし、実戦経験についても、おそらく向こうのほうが多い。
俺が彼女に勝てそうなものを探すなら、金銭への執着くらいしか思いつかない。
今この状況では、まったく役に立たない。
「私が時間を稼ぐから、貴方は学園まで戻って先生たちを連れてきて」
「なるほど」
そういうことなら話は別だった。
俺がここへ残っても、戦力としてはほとんど期待できない。
下手をすればチェルシーさんの足を引っ張るだけだ。
だったら俺は教師を呼びに行ったほうが百倍役に立つ。
合理的である。
「了解です」
逃げよう。
全力で逃げて、先生を連れてくる。
できれば騎士系の先生と魔法系の先生を両方呼び、それでも足りないなら十人でも二十人でも連れてくればいい。
こういう時は数が多いに越したことはない。
俺がそう考えながら一歩下がった、その時だった。
それまで黙って俺たちの会話を聞いていた魔族が、面倒そうに頭を掻いた。
「また逃げられるのも面倒だなぁ」
嫌なことを言い始めた。
魔族はしばらく何かを考えるように首を傾げ、それから何かを思いついたらしく、楽しそうに笑った。
「ああ、そうだ。特別にいいものを見せてやるよ」
いらない。
まったく見たくない。
心から遠慮したい。
「結構です」
「ゲール」
「一応断ってみただけです」
チェルシーさんの視線が少し冷たくなる。
でも、断ったらやめてくれる可能性だって完全なゼロではないでしょう。
限りなくゼロに近そうだけど。
魔族は当然ながら俺の返事など無視し、両手を胸の前へ持っていくと、指を複雑に絡め始めた。
何だ。
印でも結んでいるのか。
あるいは魔法の準備なのか。
そう考えた次の瞬間、低い音が周囲へ響き、空気そのものが震え始めた。
地面まで細かく揺れている。
そして魔族の身体から、さっきまでとは比べものにならないほど濃密な魔力が溢れ出した。
「っ……!」
チェルシーさんの表情が変わる。
これはまずい。
ものすごくまずい。
魔力の扱いに詳しくない俺でも分かるほど、さっきまでとは量も圧力もまるで違う。
肌が粟立ち、息をするだけで胸が重くなる。
「チェルシーさん」
「分かってるわ」
逃げるなら今しかない。
俺が踵を返そうとした、その瞬間だった。
世界が、ぐにゃりと歪んだ。
「……え?」
一瞬で上下の感覚がおかしくなる。
足元が遠ざかるような感覚と同時に、空がこちらへ落ちてくる。
視界の端にある森の輪郭が引き伸ばされ、木々が水面に映った景色のように歪んでいく。
「我が血肉よ――」
魔族の声だけが、妙にはっきりと耳へ届いた。
「世界を焼き焦がせ――」
森の景色が消えていく。
燃えているわけではない。
木々の緑や柔らかな草地が、何か別の景色によって上から塗り替えられている。
緑だった木々は黒い影へ変わり、青かった空は少しずつ赤く染まり、足元の土と草は無骨な黒い岩へと変化していった。
まるで世界そのものが、別の場所へ上書きされている。
そして魔族が最後の言葉を口にした。
「《魔界侵蝕》」
轟音とともに地面が激しく揺れた。
俺は立っていられず、その場へ膝をつく。
熱風が正面から吹きつけ、顔を焼くような熱気に思わず目を細めた。
揺れが収まったところで、恐る恐る顔を上げる。
森が消えていた。
木々も草もなく、学園へ続いていた道すら見当たらない。
さっきまで歩いてきた景色は、何一つ残っていなかった。
代わりに目の前へ広がっているのは、黒い岩と赤く焼けた大地だった。
空は薄暗い赤色へ染まり、遠くには巨大な火山がそびえている。
山頂からは黒煙が噴き上がり、地面には無数の亀裂が走っていて、その隙間を赤い溶岩がゆっくりと流れていた。
「……まじか」
思わず声が漏れる。
熱い。
さっきまでとは比べものにならない。
熱風が頬を撫で、息を吸うだけで喉が乾いていく。
何だこれ。
本当に何なんだ。
「森は……?」
俺は周囲を見回した。
右を見ても左を見ても黒い岩ばかりで、前方には火山があり、後ろを振り返っても学園へ続く道どころか森の名残すらない。
「学園は?」
返事はない。
「帰り道は?」
やっぱり見当たらない。
全部消えた。
チェルシーさんも目を見開いていた。
さっきまで魔族を前にしてもほとんど冷静さを崩さなかった彼女が、明らかに動揺している。
「魔界を……顕現させたの?」
その呟きを聞き、俺はすぐに彼女を見る。
「知ってるんですか?」
「授業で聞いたことがあるだけよ」
「どんな魔法なんです?」
チェルシーさんは周囲を警戒しながら答えた。
「魔法というより、魔族が自分の領域を現世へ重ねる技術よ。自分に有利な環境を一時的に作り出して、その中では術者の力が強くなる場合があるって聞いたわ」
「領域……」
嫌な説明だ。
非常に嫌だ。
俺は一番重要なことを聞いた。
「出る方法は?」
チェルシーさんが答えない。
「チェルシーさん?」
少し間を置いてから、ようやく口を開いた。
「術者を倒すか、外部から強い干渉を受ければ解除されるはずよ」
「それ以外は?」
「基本的には、ないと思う」
終わった。
俺は戦いたくない。
だから一生懸命逃げた。
なのに今度は、逃げるための道そのものを消された。
魔族が楽しそうに両腕を広げる。
「どうだ?」
周囲の熱気がさらに強くなった。
「俺は火属性でね。この場所じゃ、俺の力は上がる」
足元の亀裂から炎が噴き上がる。
嫌なことしか言わないな。
「逆に、お嬢ちゃんの聖属性は少しばかり扱いづらくなる」
魔族の視線がチェルシーさんへ向き、彼女の表情がさらに険しくなる。
自分は強化され、こちらは弱体化する。
しかも逃走は不可能で、外から教師が入ってくる保証もない。
ゲームだったら完全にボス戦である。
俺、オリエンテーションに来ただけなんですけど。
魔族は満足そうに笑った。
「これなら邪魔者も入らねぇし、逃げることもできねぇ。ここまでやったんだ、楽しませてくれよ」
その視線がチェルシーさんへ向く。
「聖騎士様」
俺はもう一度周囲を見回した。
黒い岩の間を溶岩が流れ、遠くには火山がそびえ、ところどころで炎まで噴き上がっている。
出口らしいものはどこにもない。
先生を呼びに行くこともできず、逃げることもできない。
隠れるにしても使えそうなのは大きな岩くらいで、その場をしのげても帰る方法にはならない。
戦うしかないという結論だけは見えてくるが、それが一番やりたくない。
これはかなりまずい。
いや、かなりどころではなく、人生で一番まずい状況かもしれない。
今までの俺は、危険だと思えば逃げればいいと考えていた。
敵が自分より強いなら教師や騎士を呼び、自分にできないことなら、できる人へ任せればいい。
それで生き延びられるなら、何も恥ずかしいことではない。
だが今は、その前提そのものを潰された。
逃げ道がなく、大人にも頼れず、目の前の相手を何とかしない限り、ここから出られない可能性が高い。
だったら、使えるものを使うしかない。
俺はそっと、腰の財布がある辺りへ手を当てた。
こんな状況でも、一つだけ普通の学生にはない選択肢が俺にはある。
《ショップ》。
金さえ払えば、普通なら絶対に手に入らないような物まで買える。
今まで散々、高いだの使いづらいだの、税金まで取るのかと文句を言ってきた。
普段なら、まず商品の値段を見て、次に自分の財布を確認し、その時点で大半の商品を諦める。
でも今だけは違う。
金を惜しんで死んだら、これまで貯めてきた金に何の意味もない。
問題は、《ショップ》の中にこの状況をひっくり返せる商品があるのかどうか。
そして、もしあったとしても、今の俺に買える金額なのかどうかだった。
俺は財布へ触れたまま、心の中で宇迦之御魂神様へ祈る。
今まで高い高いと散々文句を言ってすみませんでした。
税金についてもかなり文句を言いましたし、たぶんこれからも言うと思います。
でも、こういう時くらいは少しだけ助けてください。
できれば、本当に少しだけでいいので安売りしてください。




