第007話
やっぱり出た。
嫌な予感というものは、どうしてこういう時に限って律儀に当たるのだろうか。
俺たちが進んでいた道の先、木々の間に一人の男が立っていた。
遠目に見る限り、姿そのものは人間に近い。二本の腕と二本の足があり、顔立ちも普通で、きちんと服まで着ているので、額さえ見なければ森で道に迷った旅人だと言われても信じたかもしれない。
ただし、その額からは一本の角が生えていた。
それを見た瞬間、俺はその場で足を止めた。
隣を歩いていたチェルシーさんも、ほとんど同じタイミングで動きを止める。
何も言わず、俺は目の前の男を観察した。
角のある人間なんて聞いたことがないし、エルフにもそんな特徴はない。ドワーフでもないだろうし、獣人なら種族によって角を持つ者はいるかもしれないが、目の前の男には獣耳も尻尾も見当たらず、体毛が濃いわけでもない。
額の角を除けば、外見上はほとんど人間そのものだった。
そこへ、ここまで歩いてきた森の異常を重ねて考える。
鳥の声がしない。
虫も鳴いていない。
小動物の気配すらなく、まるで森の中から生き物だけが綺麗に消えてしまったような静けさが続いていた。
そして、その中心に立つようにしている角のある男。
俺の頭の中で、授業で習った知識がゆっくり一つの答えへまとまっていく。
人間に近い姿をしていて、額には角があり、周囲には明らかな異常が起きている。
以上の情報を総合すると、確定ではないものの、かなり高い確率で目の前にいるのは魔族だ。
そう判断した瞬間、俺の中では次に取るべき行動までほとんど決まった。
帰ろう。
それが一番いい。
俺は勇者でもなければ騎士でもなく、入学したばかりの一年生である。将来は地方の役所か何かで帳簿をめくりながら、できれば住居手当や食事付きの職場を探して穏やかに生きる予定だ。
今日ここへ来た目的だって、魔族討伐ではない。
指定された地点まで歩いて目印を回収し、そのまま学園へ戻る。
ただそれだけのオリエンテーションである。
なら、予定外の危険を発見した時点で戻って教師へ報告するのが正しい。
これは逃げではなく、安全管理だ。
教師からも「異常を感じたら戻れ」と言われているのだから、むしろ模範的な判断とすら言える。
そんなふうに自分の中で綺麗に結論づけたところで、残念ながら向こうもこちらへ気づいた。
角のある男がゆっくり顔を上げ、俺たちを見る。
そして、その口元が楽しそうに吊り上がった。
「おお」
嬉しそうな声だった。
その時点で、俺の中にあった「帰りたい」という気持ちがさらに強くなる。
「これは大当たりだ」
大当たり。
嫌な言葉だ。
俺の人生で「大当たり」という言葉が出てくる時は、だいたい俺にとって都合の悪いことが起きる。
しかも、男の視線は俺ではなくチェルシーさんへ向けられていた。
「聖騎士とは運がいい」
その一言を聞いた瞬間、隣にいるチェルシーさんの表情が一気に険しくなる。
対する男はまったく警戒する様子を見せず、それどころかさらに楽しそうに笑った。
「倒して帰れば、上役にも褒めてもらえるだろう」
その言葉を聞いたところで、俺の中に残っていた迷いはほとんど消えた。
これは戦わないほうがいい相手だ。
理由は単純だった。
《聖騎士》という名前だけを見ても、魔族に対して有利そうなスキルなのは何となく分かる。
実際、授業でも聖属性を扱う者は魔族や不死系統に対して有効だと習っている。
なら普通の魔族であれば、聖騎士を見た時点で多少なりとも警戒するはずだ。
ところが、目の前の男は違う。
逃げるどころか構えもしない。
表情一つ変えずに「大当たり」と喜び、「倒せば褒めてもらえる」とまで言った。
つまり少なくとも本人は、チェルシーさんを脅威だと思っていない。
いや、正確には、聖騎士が自分にとって危険な存在だと分かった上で、それでも自分のほうが勝つと思っている。
そこが一番まずい。
俺の中で、さっきまで漠然としていた不安がはっきりした危険へ変わった。
その直後、隣から金属の擦れる音がした。
見ると、チェルシーさんが剣を抜いている。
左腕の盾を前へ出し、半歩だけ足を引いて腰を落とす。
完全な戦闘態勢だった。
姿勢に迷いがなく、剣と盾の構えも綺麗で、さすが《聖騎士》だと思う。
物語なら、ここで俺も武器を構えて「一緒に戦おう」くらい言う場面なのかもしれない。
だが、現実は物語ではない。
相手の実力が分からないまま突っ込むのは勇気ではなく博打であり、俺は博打が嫌いだ。
特に命を賭けるものは。
だから、まず一つ確認した。
「あの、チェルシーさん」
「何?」
「戦います?」
チェルシーさんがほんの少しだけこちらを見る。
「そのつもりです」
「ですよね」
予想通りだった。
俺は一度だけ目の前の男へ視線を戻した。
まだ動いていない。
こちらが話している間も、余裕のある笑みを浮かべたまま待っている。
その態度が、かえって嫌だった。
本気でこちらを警戒しているなら、相談している隙に襲ってきてもおかしくない。
それなのに攻撃もしなければ、逃げ道を塞ぐ様子もない。
まるでこちらが何をするのか見て楽しんでいるようだった。
強者が弱者を相手にする時の余裕にしか見えない。
「俺は戻ったほうがいいと思います」
俺がそう言うと、チェルシーさんの眉が少し動いた。
「戦う前から逃げるの?」
「逃げるというより、報告です」
「同じでしょう」
「違いますよ」
俺は小さく首を横へ振った。
普段の俺なら、「怖いので帰りましょう」で終わらせたかもしれない。
実際、怖い。
かなり怖い。
でも今回は、単に怖いから逃げたいだけではなかった。
状況そのものがおかしい。
「まず、俺たち一年生ですよね」
「そうね」
「入学してから、まだまともな実戦訓練だってほとんど受けてません」
「それはそうだけど」
「相手は正体不明で、どんな力を持っているのかも分からない」
チェルシーさんは何も言わず、俺の話を聞いている。
俺は続けた。
「それに学園側は、この森へ事前に教師や騎士を入れて安全確認をしているんですよね」
「ええ」
「危険な魔物は排除済みだって説明されました」
「そう聞いています」
「なのに、こいつがここにいる」
そこでチェルシーさんの目が少し細くなった。
俺が何を言いたいのか、ようやく伝わったらしい。
「学園が見落としたということ?」
「その可能性もあるし、安全確認が終わったあとに入ってきた可能性もあります」
俺は周囲へ目を向けた。
森は相変わらず異様なほど静かだった。
木々の葉が風に擦れる音だけはするが、鳥も虫も、小動物の気配すらない。
「それに、さっきからこの森には生き物がほとんどいないですよね」
「……ええ」
「偶然かもしれません。でも、もしこいつが原因なら話は別です」
俺は再び男を見る。
「それと、あいつはあなたを見て喜びました」
「それがどうしたの?」
「そこが一番気になります」
声を少し落として続ける。
「普通なら、聖騎士を見て喜びます?」
「挑発しているだけかもしれません」
「もちろん、その可能性はあります。でも、挑発にしては余裕がありすぎるんですよ」
チェルシーさんの表情が少し変わる。
「俺たちがこうして話している間も襲ってこないし、逃げ道も塞がない。ただ見ているだけです」
「……」
「俺なら、自分より強そうな相手を前にして、こんな余裕は持てません」
「あなたなら最初から逃げるでしょう」
「それはそうですけど」
そこは否定できない。
「でも、あいつは違う。あなたを倒せば手柄になるとまで言っている」
俺はそこまで言ってから、改めて男の顔を見る。
まだ笑っている。
「つまり少なくとも本人は、自分のほうがあなたより強いと思ってる」
チェルシーさんの目がさらに細くなった。
「自信過剰なだけかもしれません」
「そうなら、それでいいんです」
「え?」
「一回戻って先生を呼んで、それで本当に弱い相手なら、先生か騎士に倒してもらえばいい」
俺は来た道を親指で示した。
「でも、もし本当に強かったら、俺たち二人で確認する必要があります?」
ない。
まったくない。
俺たちは調査隊でも討伐隊でもない。
ただの学生だ。
「危険な相手を見つけたら報告する。教師や騎士を連れてくる。それで十分でしょう」
チェルシーさんは黙ったまま、剣を構えていた。
俺はもう一つ付け加える。
「それに、ここで俺たちが負けたら、この魔族が森の中にいるって情報そのものが学園へ届かない可能性があります」
その言葉で、チェルシーさんの表情がわずかに変わった。
そこだ。
正義感の強い人には、たぶんこっちのほうが通じる。
「逃げるのが嫌なら、報告任務だと思ってください」
「報告任務……」
「俺たちが戻れば教師も騎士も動けるし、あとから来る他の生徒だって止められます」
チェルシーさんはしばらく何も答えなかった。
魔族と俺を交互に見ながら、剣を握る手に少しだけ力を入れる。
俺も急かさない。
というより、本音では早く決めてほしい。
非常に。
心の底から。
ただ、ここで「早く逃げましょう」と繰り返したら、単に俺が怖がっているだけだと思われかねない。
いや、怖いのは間違いない。
でも今回は、怖いからこそ慎重に考えている。
「それに」
「まだあるの?」
「戦うにしても、相手の情報が何もありません」
俺は男の角へ視線を向けた。
「剣を使うのか、魔法を使うのか、どれくらい速いのか、どんなスキルを持っているのか、何も分からない。それで真正面から戦うのは、さすがに危険すぎます」
チェルシーさんは何も言わない。
「一度戻って情報を共有し、戦える人間を集めるほうが普通じゃないです?」
そこまで言ってから、自分で少し感心した。
俺。
かなりまともなこと言ってない?
珍しい。
いや、いつもまともなつもりだけど。
チェルシーさんは小さく息を吐いた。
「アークライトさん」
「はい」
「珍しく、まともなことを言いましたね」
「珍しくは余計です」
やっぱり言われた。
「俺は普段からまともですよ」
「汚職の話をしていた人が?」
「今それ関係あります?」
「スターリングさんに責任を押しつけた人が?」
「それも今は関係ないですよね」
「昨日、私との班を変えるために、スターリングさんが私へ好意を抱いているなんて話まで作った人が?」
「分かりました。珍しくでいいです」
過去が強すぎる。
勝てない。
ただし、チェルシーさんは剣を下ろさなかったものの、構え方を少し変えた。
先ほどまでの前へ出るための姿勢ではなく、後ろへ下がることもできる構えに変わっている。
「……戻りましょう」
「はい」
俺は心の中で大きく頷いた。
これは逃亡ではないし、敵前逃亡でもない。
危険情報を持ち帰るための戦略的後退である。
言い方は大事だ。
「先生へ報告して、近くにいる生徒も止めてもらいます」
「それがいいと思います」
「ただし、相手が追ってきた場合は戦います」
「その時は仕方ないですね」
そこまでなら俺も異論はない。
逃げられるなら逃げる。
逃げられないなら戦う。
非常に分かりやすい。
チェルシーさんは盾を魔族へ向けたまま、ゆっくり一歩後ろへ下がった。
俺も相手から目を離さず、その動きへ合わせる。
もう一歩。
このまま少しずつ距離を取り、十分離れたら走る。
教師へ報告する。
それで終わり。
完璧だ。
今度こそ、本当に完璧な判断だと思った。
まるでこちらの考えを読んでいたように、魔族が笑った。
「相談は終わったか?」
俺とチェルシーさんの足が同時に止まった。
嫌な言い方だ。
ものすごく嫌だ。
魔族は楽しそうなまま首を左右へ傾け、骨を鳴らした。
「ずいぶん慎重だな、人間」
「褒めてくれてありがとうございます」
「褒めてはいない」
「さいですか」
俺の返事が気に入ったのかどうか、魔族の視線が初めて俺へ向く。
「そちらの男」
「はい?」
「お前は聖騎士ではないな」
「はい。普通の学生です」
「戦士でもない?」
「違います」
「魔術師か?」
「それも大したことないです」
魔族は俺を頭から足元まで眺めた。
俺はここぞとばかりに、できるだけ無害そうな顔を作る。
「ですので、見逃していただけると非常に助かります」
「アークライトさん!」
横からチェルシーさんの声が飛んできた。
「交渉です」
「今?」
「何事も話し合いは大事です」
最後まで可能性は捨てない。
戦わずに帰れるなら、それが一番安上がりだ。
怪我もしないし、ポーション代もかからない。服が破れる心配もなければ、装備だって壊れない。
素晴らしい。
だが、魔族は楽しそうに笑った。
「面白い人間だ」
「ありがとうございます」
「だが」
そこで笑みが消えた。
ただ表情が変わっただけなのに、森全体の空気まで一段階重くなったように感じる。
「逃がすと思っているのか?」
俺は一瞬黙ったあと、小さく息を吐いた。
ですよね。
知ってました。
たぶん最初から。
「ですよねぇ……」
そう呟いた直後、魔族の足元から赤い火の粉が舞い上がった。
「っ!」
チェルシーさんが即座に盾を構える。
俺も反射的に一歩後ろへ下がった。
急に空気が熱くなる。
それまで涼しかった森の中が、一瞬で真夏の日差しの下へ放り出されたような温度へ変わっていく。
いや、ただ暑くなっただけではない。
空気そのものが、何か別のものへ塗り替えられているような感覚があった。
魔族の足元では草がぱちぱちと音を立てながら焦げ始め、土の色まで少しずつ変わっていく。
俺はその光景を見て、授業で聞いた言葉を思い出した。
実際に見たことはない。
ただ、魔族の中には周囲の環境そのものを自分に有利な状態へ変えてしまう者がいると習った。
確か、その現象の名前は――。
「まさか……」
チェルシーさんも同じものに気づいたらしく、その表情がはっきり変わる。
そして俺は、さっき撤退を勧めた自分の判断が間違っていなかったことを確信した。
同時に、もう遅いことまで理解する。
魔族は両腕をゆっくり広げた。
炎が木々の間を這うように広がり、額から伸びた一本の角が薄い赤色へ染まっていく。
「さて」
その声には、最初から最後まで余裕があった。
「せっかく来たんだ」
赤い光がさらに強くなり、周囲の熱気まで一段階上がる。
「少し遊んでいけ」
俺は急速に変わっていく森を見ながら、心の底から思った。
だから帰ろうって言ったんだよ。
本当に、こういう時に限って俺の嫌な予感はよく当たる。




