第006話
さて、いよいよオリエンテーション当日である。
朝から学園の中庭には一年生たちが集められ、教師から最後の注意事項を聞いたあと、それぞれに簡単な地図と水筒、それから指定地点に置かれている目印を持ち帰るための小袋が配られた。
準備が終わった班から順番に森へ入り、目標地点まで進んで目印を回収し、そのまま同じ道を戻ってくる。
説明だけ聞けば、本当に簡単な行事だ。
そして、もちろん俺の相方はチェルシー・イーストンさんである。
昨日あれだけ班を変えてもらおうと努力したというのに、結局変更は認められなかった。
まあ、努力という言葉が正しいかどうかは怪しい。
改めて思い返してみれば、俺がやっていたことの大半は、アッシャーがチェルシーさんへ好意を抱いているという話を勝手に作り、それを理由に自分と班を交換させようとしていただけだった。
そう考えると、教師が却下したのは当然な気もする。
森へ入る直前、ちょうど先に出発するアッシャーとすれ違った。
「生きて帰れよ」
笑いながら言われ、俺は思わず顔をしかめる。
「縁起でもないこと言うな」
「もし帰ってこなかったら、荷物はもらってやる」
「俺の荷物に価値ある物なんてないぞ」
「じゃあいいや」
「友達への扱いが雑すぎない?」
アッシャーは楽しそうに笑うと、自分の相方と一緒に先へ歩いていった。
薄情な奴だ。
まあいい。
無事に戻ったら、その日の昼飯くらいは奢らせよう。
俺が精神的苦痛を受けた慰謝料ということで。
やがて俺たちの順番が来た。
担当教師が手元の名簿へ目を落とし、俺たちの名前を確認する。
「アークライト、イーストン。地図は持ったな?」
「はい」
「持っています」
俺とチェルシーさんがそれぞれ答えると、教師は森の入口へ視線を向けた。
「無理をするな。何か異常を感じたら、その時点で戻ってこい」
「はい」
「指定地点までは普通に歩けば一時間もかからん。目印を回収したら寄り道せず、同じ経路を戻れ」
「分かりました」
実に簡単だ。
往復しても二時間くらいで、途中で少し休憩したとしても昼前には戻ってこられるだろう。
俺は頭の中で、昼前に帰還して食堂で飯を食い、午後は授業もないので寮へ戻って昼寝をするという素晴らしい予定を組み立てた。
問題があるとすれば、その二時間をチェルシーさんと二人で過ごさなければならないことくらいだ。
俺は少し前を歩くチェルシーさんの後ろについて、森へ入った。
まだ入口からそれほど離れていないうちは、周囲に他の班の声も聞こえていた。
ところが十分ほど歩き、道が少し曲がった辺りで、前を進んでいたチェルシーさんが突然立ち止まり、そのままこちらへ振り返った。
ものすごく真面目な顔だった。
「アークライトさん」
「はい」
「一つだけ約束してください」
「なんでしょう」
「今日は余計なことをしないでください」
「はい。余計なことはしません」
迷わず即答した。
今日は素直に従うつもりである。
これ以上チェルシーさんからの評価が下がると、本気で学園生活に支障が出そうだからだ。
今ですら俺を見る目はかなり冷たいし、会話も必要最低限で、距離まで妙に遠い。
ここからさらに悪化したら、廊下ですれ違うたびに露骨に避けられるかもしれない。
俺が望んでいるのは、目立たず、静かに学んで卒業し、そのまま安定した役人生活へ入ることだ。
学園で妙な敵を作る予定はなかった。
それなのに、入学して間もない段階で聖騎士様からここまで警戒されている。
非常に遺憾である。
俺は何も悪いことをしていない……と言いたいところだが、さすがにそこまで図々しくはない。
汚職の冗談を話し、その場を逃れるためにアッシャーへ責任を押しつけ、さらに昨日は本人の許可もなく「アッシャーがチェルシーさんに好意を抱いている」なんて話まで作った。
改めて並べてみると、思っていた以上にやっている。
ただし、まだ犯罪まではしていない。
たぶん。
俺が黙っていると、チェルシーさんが怪訝そうな顔をした。
「何を考えているんですか?」
「自分の日頃の行いを振り返ってました」
「少しは反省したんですか?」
「多少は」
「多少なんですね」
「全部反省すると、俺らしさまでなくなりそうなので」
「そのらしさは捨ててください」
「厳しいですね」
そんなやり取りをしながら、俺たちは森の奥へ進んでいった。
道は獣道より少し広い程度だったが、学園が何度も利用しているらしく、足元はある程度踏み固められている。
場所によっては木の枝へ目印となる布まで結ばれており、普通に注意して歩いていれば迷うような道ではない。
危険な魔物についても、事前に教師と騎士が確認して排除していると聞いている。
さらに、何かあった時に備えて森の周囲には教師たちが配置され、救援へ入れるようになっているらしい。
これなら本当に遠足みたいなものだ。
そう考えると、少し気が楽になった。
前を歩くチェルシーさんは、一定の距離を進むたびに立ち止まり、地図と周囲の地形を見比べている。
真面目だ。
非常に真面目である。
道がほとんど一本しかないのに、現在地をきちんと確認している。
俺なら、分岐さえなければ「こっちしかないし、たぶん合ってるだろ」で進む。
こういうところが優等生と俺の違いなのだろう。
「チェルシーさん」
「何ですか?」
「そんなに地図を見なくても、今のところ道は一本ですよ」
「この先に分岐がないとは限らないでしょう」
「帰りに分からなくなったら、来た道をそのまま戻ればよくないです?」
「そういう考え方をしている人が遭難するんですよ」
「なるほど」
チェルシーさんは呆れたように俺を見る。
「だから、勝手に先へ行かないでくださいね」
「はい」
完全に子供扱いされている気もするが、ここで反論しても良いことはない。
今日の目標は、とにかく余計なことをしないことである。
森の中は思っていたより明るかった。
木々の隙間から日差しが落ち、少し湿った土の匂いが漂っている。葉の間を抜ける風も冷たすぎず、歩いているぶんには気持ちがいい。
学園からそれほど離れていないこともあり、森自体も深くない。
歩き始めてしばらくすると、緊張より散歩をしているような感覚のほうが強くなってきた。
「こういうのも悪くないですね」
「何がです?」
「たまには森を歩くのもですよ。授業を受けてるより楽ですし」
「それは先生の前で言わないほうがいいと思います」
「もちろんです」
俺だって言っていいことと悪いことくらいは分かる。
最近、その判断に少し疑問を持たれているけど。
道は次第に緩やかな上り坂になっていった。
俺は足元の石や木の根を避けながら進む。
チェルシーさんは歩く速度をほとんど変えず、これだけ進んでも息一つ乱れていない。
さすが《聖騎士》系統の訓練を受けているだけはある。
俺のほうも、入学前に荷物運びの仕事を続けていたおかげか、思っていたほど疲れてはいなかった。
あのバイトは銀貨一枚しかくれなかったが、体力くらいはつけてくれたらしい。
労働は裏切らない。
給料は少ないけど。
そんなことを考えながら歩いていた時だった。
俺は何となく足を止めた。
はっきりとした理由があったわけではない。
前を見ても、左右を見ても、景色そのものに異常はない。
木があり、草が生え、道もそのまま先へ続いている。
風も普通に吹いていた。
それでも、何かがおかしい。
胸の奥へ小さな棘でも引っかかったような感覚が残る。
先を歩いていたチェルシーさんが数歩進んだところで、俺が止まっていることに気づいて振り返った。
「どうしたんですか?」
「……ちょっと待ってください」
俺は返事をしながら、改めて周囲へ視線を巡らせた。
木々の間、道の脇にある藪、足元、それから頭上。
特に変わったものは見当たらない。
それなのに違和感が消えない。
何もない。
いや。
もしかすると、何もなさすぎるのか。
俺は一度目を閉じ、今度は耳へ意識を向けた。
風が木々を揺らし、葉が擦れる音は聞こえる。
枝も小さく軋んでいる。
だが、それだけだった。
そこでようやく、何に引っかかっていたのか分かった。
「チェルシーさん」
「何ですか?」
「この森、少しおかしくないですか?」
チェルシーさんの眉間にしわが寄る。
「おかしいのは貴方の頭では?」
「さいですか」
ひどい。
今日はまだ何もしていないのに。
少なくとも森へ入ってからは、ちゃんと指示にも従っている。
「いや、冗談じゃなくて、本当に少し静かすぎる気がするんです」
「静か?」
「ちょっとだけ黙っててもらえます?」
チェルシーさんは不満そうな顔をしたものの、何も言わずに耳を澄ませてくれた。
俺もそのまま周囲の音を聞く。
風が吹けば葉が揺れる。
自分たちが動けば草や服が擦れる。
それ以外の音がない。
「鳥の声、しませんよね」
俺がそう言うと、チェルシーさんも周囲へ目を向けた。
「……そうですね」
「虫の音もしません」
暖かい時期の森なのに、羽音一つ聞こえない。
鳥が鳴かないだけなら、たまたまと言えるかもしれない。
虫が静かなだけでも、そういう場所なのかもしれない。
だが、さっきからかなり歩いているのに、小さな獣一匹すら見ていない。
「ウサギとかネズミとか、何か一匹くらい見てもよさそうじゃないです?」
その言葉で、チェルシーさんの表情が少し変わった。
さっきまでの「またこの男が何か変なことを言っている」という顔ではなく、本気で考える顔になる。
彼女も少し時間をかけて周囲を見回し、もう一度耳を澄ませた。
「……確かに、少し不自然ですね」
「ですよね」
ようやく同意してもらえた。
ただ、チェルシーさんはすぐに結論を出さなかった。
「でも、学園側は事前に安全確認をしています」
「それはそうなんですけど」
「危険な魔物を追い払うために騎士や教師が森へ入ったなら、動物たちが人の気配を嫌って別の場所へ移動した可能性もあります」
「まあ、それもありますね」
言われてみれば、その説明もできる。
森の中へ何日も人が出入りすれば、小動物が一時的に離れることくらいはありそうだ。
だが、それにしても静かすぎる。
俺はもう一度周囲へ耳を澄ませた。
「普通の森って、もっと何かしら聞こえません?」
「……そうですね」
チェルシーさんの声も、さっきより低くなった。
ちょうどその時、少し強い風が吹き抜けた。
木々の葉が一斉にざわめく。
だが、それ以外の音はやはり何もない。
生き物の気配だけが、森から綺麗に抜け落ちているように感じられた。
さっきまでの軽い空気が消えた。
チェルシーさんは腰に差した剣へ自然に手を添え、俺も無意識のうちに背筋を伸ばす。
嫌な予感がする。
俺は基本的に、こういう予感を信じたくない。
面倒事は嫌いだし、危険も嫌いで、怪我なんてもっと嫌だ。
そして危険なことが起きると、大抵の場合は金まで飛ぶ。
俺にとって、そこもかなり重要である。
「チェルシーさん」
「何?」
「戻りません?」
チェルシーさんはすぐには答えず、森の奥を見たあと、手元の地図へ視線を落とした。
「まだ目印を回収していません」
「ですよね」
そう答えると思った。
この人は真面目だから。
非常に真面目だから。
「でも、異常がある可能性を感じた時点で戻れって先生も言ってましたよね」
「確証がありません」
「生き物の気配がまったくないのは、十分怪しいと思いますけど」
「怪しいとは思います。ただ、それだけで課題を放棄するのも早いです」
「俺なら帰ります」
「知っています」
即答だった。
俺への理解が深まっている。
良いことなのかもしれないが、あまり嬉しくない。
チェルシーさんは地図を広げ、現在地をもう一度確認した。
「指定地点までは、あと二十分ほどです」
「二十分ですか」
ここからさらに二十分進み、目印を回収して、同じ道を戻る。
普通なら何の問題もない距離だ。
ただ、さっきまで気にもしていなかった森の静けさが、今はどうにも気になる。
俺は少し考えてから尋ねた。
「どうします?」
「進みます」
「即答ですか」
「ただし、今までより周囲へ注意します。それで何か少しでも異常があれば、その時点で戻ります」
そこまで言われれば、俺も反対しづらい。
チェルシーさんはさらに俺を見た。
さっきまでの冷たい目とは違い、今度は真剣だった。
「それと、勝手な行動は禁止です」
「分かりました」
「私から離れないでください」
「はい」
「妙な物を見つけても、一人で近づかないこと」
「はい」
「それから、勝手に《ショップ》で何か買ったりもしないでください」
「まだ買いませんよ」
チェルシーさんの眉がわずかに動く。
「まだ?」
「言葉の綾です」
危ない。
余計なことを言うところだった。
今日は余計なことをしないと約束したばかりである。
チェルシーさんは剣へ手を添えたまま前を向き、俺も少し距離を詰めてその後ろを歩き始めた。
さっきまでは、本当にただのオリエンテーションだと思っていた。
学園が用意した安全な森を歩き、目印を取って帰るだけの遠足。
しかし、一度違和感へ気づいてしまうと、それまで気にしていなかった森の静けさがやけに重く感じられる。
自分たちの足音まで妙に大きい。
小枝を踏めば乾いた音が森の奥まで響いていくように聞こえ、服が草へ擦れる音にまで意識が向く。
俺は何度も周囲を見た。
何もいない。
だからこそ、不気味だった。
「チェルシーさん」
「今度は何です?」
「やっぱり帰りません?」
「さっき答えました」
「一応、もう一回聞いておこうかなと思いまして」
「進みます」
「ですよね」
俺は小さく息を吐いた。
まだ何も起きていない。
森が静かなだけだ。
危険な魔物を見たわけでもなく、道が消えたわけでもない。
そう自分へ言い聞かせながら、俺たちはさらに奥へ進んだ。
この時の俺はまだ、少し変な森を歩いているだけだと思っていた。
まさかこの先で、学園が事前に確認していたはずの安全そのものをひっくり返すような相手と出会うことになるなんて、当然ながら知るはずもなかった。




