第004話
一年生の前期日程が始まった。
俺の実家であるアークライト領は王国の辺境にあり、王都からはかなり遠い。毎日実家から通えるような距離ではなく、馬車を使ったところで片道に何日もかかるため、俺は王立魔法学園の寮で暮らすことになった。
しかも相部屋である。
貴族だからといって全員に一人部屋が与えられるわけではないらしい。公爵家や侯爵家の子息なら何か特別な扱いがあるのかもしれないが、少なくとも貧乏男爵家の次男である俺には、まったく関係のない話だった。
そんな俺と同じ部屋になったのが、アッシャー・スターリングという男だ。
地方で代官を務める家の息子らしく、黒髪で少し軽そうな雰囲気をしている。入寮初日から「よろしくな」と気軽に声をかけてきたので、俺もそれほど構えずに話すことができた。
そして数日一緒に暮らしてみて、一つ分かったことがある。
こいつは、たぶん俺より金を持っている。
いや、たぶんではない。
間違いなく持っている。
なぜなら、時々俺に飯を奢ってくれるからだ。
実に良い奴である。
俺の中の友達ランキングでも、入学して数日しか経っていないというのに早くもかなり上位へ食い込んでいた。できればこれからも末永く付き合っていきたいし、可能なら今後も時々飯を奢ってほしい。
俺の食費が浮くから。
「お前、俺を見る時たまに財布のほう見てないか?」
ある日、アッシャーからそんな疑いをかけられた。
失礼な話である。
俺は平然と首を横へ振った。
「気のせいだ」
「本当か?」
「友人を財布扱いするほど、俺は落ちぶれてない」
「じゃあ今日の昼は?」
「奢ってくれるなら尊敬する」
「やっぱり財布じゃねえか」
何を言っているのだろう。
財布ではない。
飯を奢ってくれる大切な友人である。
そこには大きな違いがある。
さて、王立魔法学園という名前だけを聞けば、魔法を専門に教える学校のように思えるかもしれない。
実際には、そうでもない。
語学、計算、歴史、地理、法律の基礎といった科目は、身分や将来の進路に関係なく全員が学ぶ必修科目になっているが、そこから先は本人が何を目指すかによってかなり変わる。
剣術を重点的に学ぶ生徒もいれば、槍や弓を専門に選ぶ者もいる。当然ながら魔法を中心に学ぶ生徒もいるし、それ以外にも商売、領地経営、農業、建築、薬草、医療まで、かなり幅広い分野を学べるらしい。
聞いた話では、船の操り方まで教えているという。
王立魔法学園というより、王立なんでも学園なのではないだろうか。
さらに驚いたのは、学園に専門の教師がいない分野についてだった。
必要なら民間から専門家を呼び、特別講師として授業をさせるという。商会の主人や現役の騎士、役人、農業技師、船乗りなどが招かれ、場合によっては外国人の専門家まで呼ぶことがあるらしい。
さすが王立。
金のかけ方が違う。
その金をほんの少し、俺へ回してもらえませんかね。
切実に。
そんな俺が重点的に学ぼうと思っているのは、財務や行政に関係する分野だった。
会計、税制、領地財政、行政実務などを選び、卒業後は税務官か、あるいは地方を回って税収や帳簿を確認する徴税関係の役人を狙いたいと思っている。
国の役人になれば給料は安定しているし、急に仕事がなくなる可能性も低いだろう。
そして何より、俺が魅力を感じていたのが地方勤務だった。
その日の夕方、俺とアッシャーは男子寮の共用談話室で、学園から配られた選択科目の案内を机いっぱいに広げていた。
一年生は前期の基礎科目を受けながら、自分が今後どの分野を重点的に学んでいくか考えることになっている。正式な希望票を提出するのはもう少し先だが、定員のある授業も存在するため、今からある程度方向を決めておいたほうがいいらしい。
俺が財務関係のページばかり見ていたので、向かいに座っていたアッシャーが不思議そうな顔をした。
「お前、本気で下級官吏になりたいのか?」
「そうだ」
「なんで?」
何をそんなに不思議がるのだろう。
俺は椅子に座ったまま、アッシャーへ人差し指を立てた。
「いいか、アッシャー。地方勤務になると、職によってはまず手当がつく」
「まあ、そういう職もあるな」
「さらに赴任先によっては、住む場所まで用意してもらえる」
「……場合によるだろ」
「そして運が良ければ飯まで出る」
「だから場合によるって」
俺は思わず机を軽く叩いた。
「飯代が浮くんだぞ!」
「そこかよ」
そこだよ。
ものすごく大事だろ。
一食分の食費だって、一日、一か月、一年と積み重なれば馬鹿にならない。特に俺のような貧乏人にとっては、住居費と食費のどちらか一つでも職場が負担してくれるなら、実質的な給料はかなり違ってくる。
「考えてみろ。給料をもらえて、住む場所が用意されて、さらに飯まで出る可能性があるんだぞ」
「全部揃う職場がどれだけあるんだよ」
「探せばある」
「それ、希望的観測じゃねえか?」
「夢は大きく持つべきだ」
「夢が小せえよ」
失礼な。
小さいのではなく堅実なのだ。
俺は気を取り直して、将来設計についてさらに説明することにした。
「地方へ派遣されたら、その地域の帳簿や税収報告を確認するだろ?」
「まあ、それも仕事の一つだろうな」
「領民の数や収穫量も確認して、税収が帳簿と合っているかを見る。何も問題がなければ、『問題ありませんね』と言って帰る」
「絶対そんな簡単じゃない」
アッシャーが呆れた顔をする。
何を言う。
俺としてはかなり真剣に将来について考えている。
安定した給料があり、できれば住居と食事もつき、仕事内容も帳簿の確認が中心なら最高ではないか。
「そもそも徴税官って、問題が見つかった時のほうが大変なんじゃねえの?」
「よっぽど馬鹿な代官や貴族でもなければ、露骨な脱税なんてしないだろ」
「……まあ、普通は隠すだろうな」
「だろ?」
「隠すこと前提なのかよ」
そこで俺は少しだけ声を落とした。
「まあ、もし脱税を見つけたとしてもだ」
「おう」
「向こうから袖の下を渡してくれる可能性がある」
アッシャーが黙った。
けれど俺は構わず続ける。
「俺は何も見なかったことにして帰る。向こうは摘発されずに済むし、俺には臨時収入が入る」
「おい」
「両者に利益がある」
俺は自分でもなかなか良い案だと思いながら頷いた。
「Win-Winだ」
「お前、それ普通に汚職だぞ?」
「細かいことを気にするな」
「細かくねえよ! 役人が一番やっちゃ駄目なやつだろ!」
アッシャーが声を上げた、その少し前だったらしい。
ちょうどその頃、男子寮の入口にはチェルシー・イーストンが来ていた。
もちろん、この時の俺たちはそんなことを知らない。
後から知った話では、副委員長としてクラス全員へ選択科目の追加資料と希望票を配る役目を教師から頼まれていたらしい。
女子寮にいる生徒へは本人が直接配り、男子寮分についても管理人へ預ければ済むはずだったのだが、その日に限って提出方法について追加の説明があった。
希望票には第一希望だけでなく第二希望まで記入すること、定員のある科目については希望者が多い場合に成績や面談で調整すること、それから提出期限を過ぎると希望通りにならない可能性があることを、できれば直接伝えてほしいと教師から頼まれていたという。
真面目なチェルシーさんは、それなら自分で説明したほうが確実だと考え、男子寮の管理人へ事情を話して許可をもらい、共用談話室まで来ていた。
そして運の悪いことに、俺たちが使っていたのは個室ではなく、その共用談話室だった。
さらに最悪なことに、チェルシーさんが廊下を歩いてこちらへ近づいてきた時、ちょうど俺が「袖の下を渡してくれるかもしれない」などと言い始めていたらしい。
そんな事情を何も知らない俺は、まだアッシャーと言い争っていた。
「別に本当にやるとは言ってない」
「今かなり具体的に説明したよな?」
「将来あり得る可能性について議論していただけだ」
「言い訳だけは役人向きだな」
「褒めるなよ」
「褒めてねえ!」
そこで初めて、背中へぞくりと冷たいものが走った。
最初は窓から風でも入ってきたのかと思ったが、違う。
誰かに見られている。
しかも、人間が他人を見るだけでここまで空気を冷たくできるのかと疑いたくなるほど、嫌な視線だった。
俺はものすごく嫌な予感を抱きながら、ゆっくり談話室の入口へ顔を向けた。
そこには書類の束を抱えた一人の少女が立っていた。
チェルシー・イーストン。
同じ一年生で、俺たちのクラスの副委員長を務める伯爵令嬢であり、《聖騎士》系統のスキルを持つ将来有望な優等生様でもある。
金色の髪に整った顔立ちで、背筋も綺麗に伸びている。制服には乱れ一つなく、授業態度も真面目で、先生からの評価も非常に高い。
品行方正で成績も良く、正義感まで強い。
つまり、俺とはあまり相性が良くなさそうな人物だ。
そして、その聖騎士様が今、俺をものすごく冷たい目で見ていた。
軽蔑という言葉をそのまま視線にしたら、たぶんあんな感じになる。
俺はチェルシーさんが抱えている書類と、その表情を交互に見ながら、ようやく状況を理解した。
聞かれていた。
問題は、どこから聞かれていたかである。
できれば「地方勤務なら飯代が浮く」という話の辺りからであってほしい。
そこなら少し貧乏くさいだけで済む。
俺は恐る恐る尋ねた。
「……いつから、そこに?」
チェルシーさんは冷たい表情をまったく崩さないまま答えた。
「『向こうから袖の下を渡してくれるかもしれない』辺りから」
一番駄目なところからだった。
非常にまずい。
入学してまだそれほど経っていないのに、副委員長であり聖騎士であり優等生でもある人物から、「将来は汚職役人になりたい男」と認識される。
今後の学園生活を考えると、これはよろしくない。
迅速な危機管理が必要だった。
俺は即座にアッシャーを指差した。
「――ということをですね」
「ん?」
突然指を差されたアッシャーが、意味が分からないという顔でこちらを見る。
俺は構わず続けた。
「アッシャーがこの前言っていたのを、俺が聞きまして」
「は?」
アッシャーの目が大きくなる。
俺は悲しそうな顔を作って首を振った。
「いやぁ、本当に酷い奴ですよね」
「おい」
「将来役人になったら賄賂を貰おうだなんて、俺も友人としてどうかと思うんですよ」
「待て」
「もちろん注意しましたよ。そんなことは良くないぞ、と」
「今お前が全部言ってただろ!」
「それでもこいつ、なかなか考えを改めなくて」
「捏造するな!」
アッシャーが勢いよく立ち上がった。
だが、俺は気にしない。
これは責任転嫁ではない。
誤解を解くための説明である。
たぶん。
俺は可能な限り爽やかな笑顔を浮かべ、チェルシーさんへ顔を向けた。
「困ったものですよね、イーストンさん」
「…………」
「公務員が賄賂なんて受け取ったら駄目でしょう」
「…………」
「俺は絶対にやりませんけどね」
チェルシーさんは答えなかった。
そして致命的なことに、その軽蔑しきった視線は最初から最後まで俺だけに向けられており、アッシャーへは一度も移らなかった。
なぜだ。
かなり自然な説明だったと思うんですがね。
チェルシーさんはしばらく俺を見たあと、小さくため息をついた。
「最低ね」
「え?」
「将来、役人になるのだけはやめたほうがいいと思うわ」
「待ってください、誤解です」
「どこが?」
「今のはアッシャーが――」
「そのうえ嘘までつくのね」
「…………」
駄目だ。
まったく信じてもらえていない。
なぜだろう。
即興にしてはかなり上手く説明できたと思ったのに。
「アッシャー」
「何だよ」
「俺たちの友情を証明してくれ」
「お前が俺に罪をなすりつけたことなら、いくらでも証明できるぞ」
「使えない友人だな」
「お前が言うな!」
そのやり取りを聞いて、チェルシーさんの視線がさらに冷たくなった。
最後には何も言わず、呆れたように俺たちへ資料を差し出した。
「選択科目の追加資料よ。第二希望まで記入して、期限までに提出して」
「あ、はい」
俺が受け取ると、チェルシーさんはそのまま他の男子生徒へ資料を配りに行ってしまった。
俺は遠ざかっていく金色の髪を見送りながら、しばらく黙っていた。
アッシャーも何も言わない。
少しして、先に口を開いたのはアッシャーだった。
「完全に嫌われたな」
「おかしい」
「何が?」
「まだほとんど話したこともない相手に、ここまで嫌われることある?」
「お前が汚職計画を楽しそうに話してたからだろ」
「冗談なのに」
「半分くらい本気だったろ?」
「二割くらいだ」
「本気だったんじゃねえか!」
まあ、いい。
別にクラス全員から好かれる必要はない。
チェルシー・イーストンは真面目な聖騎士様で、俺はどちらかといえば面倒を避けながら堅実に生きたい人間だ。
向こうも俺のことを気に入らなかったようだし、俺も正義感が強すぎる相手とは少し距離を置いたほうが楽だと思う。
つまり今後、特別深く関わることもないだろう。
この時の俺は、本気でそう思っていた。
そして、その日の昼。
俺はアッシャーと一緒に食堂へ向かい、列へ並びながら何気なく聞いた。
「今日何食う?」
「肉」
「いいな。じゃあ俺も同じので」
「なんで俺に合わせるんだよ」
「友人だからな」
「自分で払えよ」
その一言で、俺は足を止めた。
「今日は奢ってくれないのか?」
「今日は絶対に奢らねえ」
「なぜだ」
アッシャーは信じられないものを見るような顔をした。
「お前、さっき俺を汚職役人に仕立て上げようとしたよな?」
「些細なことじゃないか」
「細かくねえよ!」
どうやら本気で奢ってくれないらしい。
仕方なく、俺はものすごく嫌々ながら自分の財布を開いた。
銀貨が減る。
その代わり飯が来る。
食べれば美味い。
けれど、食べ終わったあと財布を見ると心が痛む。
俺は皿を前にしながら、小さく息を吐いた。
「……最悪だ」
「自業自得だ」
「友達って、困った時に助け合うものじゃないのか?」
「お前の場合、助けてほしいのは財布だろ」
「財布だって大事だぞ」
「知らねえよ」
その日、俺は一つ学んだ。
軽い気持ちで汚職の話をすると、真面目な聖騎士から一気に嫌われる。
さらに危なくなったからといって友人へ罪をなすりつけると、その日の昼飯を奢ってもらえなくなる。
結果として、俺の財布から銀貨が減った。
それが一番痛い。
次からはこういう話をする前に、せめて周囲へ誰もいないことを確認しよう。
そう心に決めたところで、向かいに座っていたアッシャーが深いため息をついた。
「お前、反省するところそこじゃねえからな」
どうやら俺は、反省点まで間違えていたらしい。




