第003話
入学式までの間、俺はとにかく働いていた。
理由は単純で、金がなかったからだ。
学費については学園側が免除してくれることになったものの、だからといって生活費まで全部出してくれるわけではない。王都で暮らす以上、食費や日用品、教材費、衣類、それに寮生活で必要になる細々とした物まで、自分で用意しなければならない。
しかも王都は、うちの領地より何もかも高かった。
飯を食えば当然金が減り、水以外の飲み物を買えばさらに減る。靴が破れれば新しい物が必要になるし、紙や筆記具のような学用品にだって金はかかる。何なら何も買わずにじっとしていたところで、宿へ泊まっているだけで毎日少しずつ財布が軽くなっていく。
都会というのは恐ろしい。
人も多いし物も多いが、そのぶん金が出ていく速度も速い。
だからといって、ここで学園への入学を諦めるわけにはいかなかった。
王立魔法学園を無事に卒業できれば、王宮勤めや地方官吏、魔道士協会、大貴族の家臣など、それなりに安定した職へ就ける可能性がある。そういう仕事なら、少なくとも日雇いで荷物を運ぶよりはずっと安定しているだろうし、人並み以上の給料だって期待できる。
そうなれば実家へ仕送りもできるし、レナの将来のために金を貯めることもできる。
妹には、できれば本人が納得できる相手と結婚してほしい。
うちは男爵家ではあるものの裕福ではないので、持参金が少ないという理由だけで、金だけは持っている妙に年上の男との縁談が持ち込まれる可能性だってある。
十五歳の妹に対して、四十五歳くらいの男を連れてきて、「年上で落ち着いた殿方です」などと言われても困る。
それは落ち着いているというより、父上と同世代だろう。
俺としては、せめて年齢がそれほど離れておらず、性格もまともで、借金がなく、女癖も悪くなく、酒に溺れず、ついでに兄である俺を見た時に露骨に嫌そうな顔をしない男が望ましい。
……こうして条件を並べてみると、少し厳しい気もする。
まあ、それはともかく。
レナ自身が選べる余地を少しでも増やしてやるためにも、俺は何としてでも学園を卒業し、まともな収入を得られるようにならなければならない。
ところが、入学前の学生が王都でできる仕事なんて、それほど多くなかった。
魔術師として働くには資格も実績もないし、家庭教師をするほど頭がいいわけでもない。商人の手伝いをするにしても計算能力は人並みで、剣の腕もこれといって特別ではない。
結局、今の俺が売れるものといえば、若さと体力くらいだった。
そして見つかった仕事の大半が、倉庫での荷物運びだった。
朝早く起き、できるだけ安いパンを腹へ入れてから倉庫へ向かう。仕事が始まれば木箱を持ち上げて指定された場所まで運び、戻ってきたら次の木箱を担ぐ。途中で樽や袋が混ざることもあるが、基本的には一日中その繰り返しだった。
「……つらい」
思わず声が漏れる。
腰が痛いし、腕も肩も痛い。慣れないうちは手のひらに豆までできた。
しかも夏の王都は普通に暑く、倉庫の中は風通しもあまり良くない。
中身が何なのか分からない妙に重い箱に限って、「それ、二階まで頼む!」と言われるのも納得がいかなかった。
神様が本当に平等を大事にしているなら、こういうところで俺だけ軽い箱担当にしてくれてもいいのではないだろうか。
そういう加護はないんですかね。
……ないですね。知ってました。
「アークライト! そっちが終わったら、次は倉庫の奥だ!」
監督役の男から声が飛んできて、俺は慌てて背筋を伸ばした。
「はい!」
返事だけは元気にする。仕事なのだから当然だ。
嫌そうな顔をして次から呼ばれなくなったり、報酬を減らされたりしたら困る。
これだけ働いて、一日の報酬は銀貨一枚だった。
朝から夕方まで荷物を運び続けて、銀貨一枚。
俺の《ショップ》で売られている《ポーション〈小〉》なら、十分の一にも届かない。
しかも《ショップ》には税金まであるので、実際にはさらに足りない。
その銀貨一枚を得るために、俺は朝から汗だくになって木箱や樽を運び続ける。
そう考えると、やっぱりつらい。
昼休みになると、俺は倉庫の裏の日陰へ座り込み、朝のうちに買っておいた固いパンをかじった。
飲み物は水。それだけである。
十分な食事とは言いづらいが、肉を追加すればそのぶん金が減る。
隣では同じ日雇いの男が、肉を挟んだパンを食べていた。
良い匂いがする。見てはいけない。見たら欲しくなる。
俺は自分の固いパンへ意識を集中させた。
噛めば噛むほど小麦の味がする。
というか、それ以外の味がしない。
「兄ちゃん、学生か?」
隣の男に声をかけられ、俺は口の中のパンを飲み込んでから頷いた。
「今度、王立魔法学園に入ります」
「へえ! そりゃすげえな」
「学費は免除してもらえるんですけど、生活費は自分で出さないといけないので」
「ああ。それで働いてるのか」
「はい」
男は感心したように俺を見る。
「偉いなあ」
「いえ、働かないと飯が食えないだけです」
立派な理由があって働いているわけではない。
ほとんど生存活動である。
男は俺の手元にあるパンへ目を向けた。
「それだけか?」
「はい」
「腹減らねえか?」
「減ります」
「肉くらい食えよ」
「肉を食べると金が減るんですよ」
「パンでも減るだろ」
「肉を食うともっと減ります」
男は少し黙ったあと、気の毒そうな顔をした。
「……大変だな」
「はい。非常に大変です」
ところで、ここまで聞くと、俺の《ショップ》を知っている人なら一つ疑問を持つかもしれない。
《ショップ》で珍しい物を買い、それを王都で高く売れば、わざわざ荷物運びなんてしなくても金を稼げるのではないか、と。
なるほど。素晴らしい考えだ。俺も当然考えた。
むしろスキルをまともに使えると分かったその日のうちに思いついた。
安く仕入れて高く売り、その利益でもう一度商品を買い、また売る。
それを繰り返せば、働かなくても金が増える。
妹の持参金なんてすぐ用意できるかもしれないし、実家の傷んだところを直すことだってできる。
毎日肉を食べてもいい。完璧な計画だった。
《ショップ》の商品が安ければ。
分かりやすい例として、《ポーション〈小〉》を見てみよう。
切り傷や軽い打撲程度なら治せる一般的な回復薬で、冒険者や兵士、旅人まで幅広く使う商品だ。
街の薬屋なら、だいたい銀貨一枚で売られている。
そして俺の《ショップ》では、銀貨十枚。
最初に値段を見た時、俺は何度も表示を確認した。
街では銀貨一枚。
《ショップ》では銀貨十枚。
数字を逆に見ているのかと思った。
だが、逆ではなかった。
本当に十倍だった。
つまり俺が銀貨十枚で買ったポーションを、街で相場通り銀貨一枚で売ることになる。
一個売るたびに銀貨九枚の赤字。
金を増やすどころか、売れば売るほど減っていく。
しかも忘れてはいけない。
《ショップ》には《税金》がある。
商品代の十パーセントを宇迦之御魂神様へ納めなければならないので、銀貨十枚のポーションを買うには、実際には銀貨十一枚必要になる。
それを銀貨一枚で売れば、損失は銀貨十枚。
今日一日、朝から夕方まで働いて得られる給料の十日分が、一個売っただけで消える計算だ。
こんなものを商売とは呼びたくない。
一日に十個売れば銀貨百枚の赤字になり、百個売れば銀貨千枚が消える。
商売が順調になればなるほど破産へ近づく。
恐ろしい仕組みである。
俺に商才がなくても、これをやってはいけないことくらい分かる。
ではポーションではなく、胡椒のような高級品ならどうだろう。
もちろん俺も調べた。
昔から香辛料は高価だし、地域によってはかなりの値段になると聞いたことがある。
だったら《ショップ》で胡椒を買い、この世界で売れば利益が出るかもしれない。
そう期待して値段を確認した。
高かった。
胡椒も高いし、砂糖も高い。上質な布や酒、保存食、香辛料なんかも同じで、《ショップ》で買うほうが市場価格より高い物ばかりだった。
二倍や三倍ならまだ可愛いほうで、五倍、十倍とする商品まである。
その値段へさらに税金が一割乗る。
「なんなの、このスキル」
初めて市場価格と比較した時、本気でそう思った。
《ショップ》と聞けば、普通は便利に買い物できる場所を想像する。
俺の《ショップ》は違う。
高い金を払えば、その場で商品を受け取れる場所だ。
この世界で普通に売っている物を転売して利益を出す用途には、ほとんど向いていない。
もしかすると、何千、何万と並んでいる商品の中には、市場価格より安い物も存在するのかもしれない。
ただ、それを一つずつ調べるには王都中の相場を確認しなければならないし、市場価格を調べるだけでも時間がかかる。
そんなことをする暇があるなら、日雇いで働いたほうが確実だった。
こうして、俺の華麗なる転売計画は一日で終了した。
もっとも、《ショップ》そのものが役に立たないわけではない。
普通の市場では手に入らない商品まで買えるというのは、間違いなく強みだ。
この世界では見たことのない薬や道具、妙な武器、それに説明を読んでも何に使うのか分からない品まで普通に並んでいる。
必要な場面になれば、とんでもなく便利な能力なのだと思う。
問題は、便利に使うためにも金が必要なことだった。
そして俺には、その金がない。
非常に致命的である。
便利な能力を持っているのに、金がないから使えない。
目の前に井戸があるのに、使用料が高すぎて水を飲めないような気分だった。
「アークライト! 休憩終わりだぞ!」
遠くから声が飛んできて、俺は残っていたパンを急いで口へ押し込んだ。
「はい!」
立ち上がれば、午後も荷物運びが待っている。
木箱を担ぎ、指定された場所へ運んでは戻り、次は樽を転がす。さらに袋を運び、それが終わればまた木箱へ戻る。
肩も腰も悲鳴を上げている。
こんな時、《身体強化》や《怪力》のようなスキルがあれば便利だっただろう。
俺が持っているのは、《宇迦之御魂神からのお買い物》。
一度だけ、荷物運びを楽にできる商品がないか探したこともある。
台車は売っていた。ただし高かった。
腰を支える道具もあった。やっぱり高かった。
疲労回復剤まで見つかった。もちろん高かった。
全部買ったら、その日の報酬どころか何日分もの給料が消える。
結局出した結論は、非常に単純だった。
《ショップ》を使わず、普通に身体を使って働くのが一番安い。
「アークライト! 次これ頼む!」
「はい!」
木箱を運ぶ。
「その次、樽な!」
「はい!」
今度は樽を運ぶ。
「終わったら向こうの袋も頼むぞ!」
「はい!」
その次は袋。
かなり珍しい固有スキルを持ち、王立魔法学園への入学まで決まっているというのに、俺は今日も銀貨一枚を得るため、朝から夕方までひたすら肉体労働を続けていた。
夕方になり、ようやく仕事が終わる。
監督役の男が今日の報酬を渡してくれた。
「ご苦労さん」
「ありがとうございます」
手のひらに乗せられた銀貨は、一枚だけだった。
朝から働いた結果が、この一枚。
でも、そう思って眺めていると、妙に大切な物に見えてくる。
今日一日の汗も、肩の痛みも、腰の疲れも、全部この銀貨に変わったのだと思えば、軽々しく使う気にはなれない。
俺は銀貨を財布へ大事にしまい、宿へ向かって歩き始めた。
その途中、どこからか肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
思わず足を止めた。
視線の先には屋台があり、串に刺した肉を焼いている。
一本くらいなら買える。
今日くらい食べてもいいのではないか。
朝から働いた。かなり頑張った。
財布には、たった今もらった銀貨もある。
俺は屋台の串焼きを見ながら、頭の中で生活費や教材費、これから必要になる日用品、それに実家やレナの将来まで考えた。
数秒迷ったあと、結局そのまま屋台の前を通り過ぎる。
今夜の夕食も、安いパンと水にしておこう。
肉の匂いが少しずつ遠ざかっていく。
《ショップ》という珍しい能力を持っていても、金がなければ何もできない。
そして金を得るには、結局こうして働くしかない。
少しくらい世の中が俺に優しくてもいいんじゃないかと思いながら、俺は痛む肩を回して宿への道を歩いた。
本当に、世知辛い世界である。




