最終話 ありがとう。
最終話 ありがとう。
「――失礼します」
ユズが入室した瞬間、アダムの視線が一度だけ向けられる。
その目にはわずかな警戒があったが、すぐに消えた。
アダムも蒼穹原典を読み込んでいるので、ユズの危険性は勿論のこと、それ以外の部分も正しく理解している。
だから、今だけは、黙って影に徹する。
ユズは数歩、室内へ進む。
適切な距離で足を止め、ゆっくりと姿勢を整えた。
背筋を伸ばす。
肩の力を抜きながらも軸は揺らがない。
顎をわずかに引き、視線の角度を正確に合わせる。
――完璧な礼。
無駄がなく、美しく、正確。
隙がないがゆえに、自然さがない。
従順さを示す所作ではなく、形式そのものをなぞり切ったような硬質さ。
センはペンを止めないまま、その様子を横目で捉える。
視線だけがわずかに持ち上がり、すぐに戻る。
露骨に面倒そうな色が浮かんでいた。
書類をめくる音がひとつ。
ペン先が紙を擦る音が続く。
その流れの中で、
「で? 用って?」
投げるように言葉が置かれる。
視線は向けない。
手も止めない。
ユズは一瞬だけ、まぶたの奥で動きを止めた。
蒼穹原典を持つ手に、わずかに力が入る。
紙の束が、かすかに軋んだ。
それでも姿勢は崩さない。
ゆっくりと視線を落とす。
ほんの一拍、呼吸が遅れる。
胸の奥で空気が引っかかるような、わずかな間。
「……コホン」
声に出して咳払いをする。
それは、覚悟を整えるためのごく短い動作。
そのあとで顔を上げる。
視線をまっすぐセンへ向ける。
そして、ユズはあえて子供っぽく、蒼穹原典を抱きしめながら、
「……たすけてくれてありがとう。せんおにいちゃん」
その瞬間、ペン先がわずかに止まる。
紙の上で、ほんの一瞬だけ動きが途切れる。
隣で書類を持っていたアダムの手も、目に見えないほど微かに止まった。
だが、その静止は長くは続かない。
「うっせぇ、ぼけ」
センエースのぶっきらぼうな声が落ちる。
ペンは再び動き出し、書類は何事もなかったかのように処理されていく。
ユズはわずかに息を吐いた。
肩がほんの少しだけ緩む。
それ以上の反応は見せない。
「失礼します、陛下」
ユズは臣下としての礼儀を示してから、
そのまま踵を返し、執務室をあとにした。
穏やかな今日が、優しい風に吹かれて、柔らかに溶けていく。
長く伸びた回廊に、暖かな日の光が何本も差していた。
スキップにも似た足音が、不定形のリズムで静謐を惑わす。
――命の答えは分からないけれど、
共鳴する何かを、ユズは自分の中で、確かに感じていた。




