5話 入学式前だと言うのに その3
「それでは、再試験を終了いたしますわ」
午前九時開始の再試験は、予定通りに終わった。
静かな教室に、答案用紙を揃える音だけが響く。
「本日中に採点を行い、明日にはご自宅へ合否の通知をお送りいたします」
淡々とした話し方でありながら、どこか楽しそうな声が響いた。
「はい。ありがとうございました」
透は立ち上がり、軽く頭を下げた。
必要な場面では、必要な礼を尽くす。
余計な言葉はない。
顔を上げると、千歳と目が合う。笑みを浮かべて、
「結果を楽しみにしておりますわ」
それ以上のやり取りはなかった。
透は静かに教室を後にする。
廊下に出た瞬間、張りつめていた空気がふっと緩んだ。
千歳が教室を後にしたのを見届けてから、透も席を立つ。
*****
そのまま昇降口を抜け、校舎の外へ出た。
外では、部活動に励む在校生や、新入生を迎えるための準備に追われる生徒たちの姿。
活気に満ちた光景を横目に、透はふと足を止める。
何を思ったのか、少しだけ校舎を見上げ――
やがて進路を変え、中庭の方へと向かった。
中庭では、満開の桜が風に揺れ、花びらが静かに舞い散っている。
淡い桃色に染まるその光景は、どこか現実感が薄く、幻想的だった。
「ねえ君、新入生?」
不意に背後から声をかけられ、透は足を止めた。聞き覚えのない声に、わずかに警戒しながら振り返る。
そこに立っていたのは、この学園の制服に身を包んだ、黒髪ロングの女生徒だった。
長い黒髪は風に揺れるたびにさらりと肩を滑り、整った顔立ちには柔らかな笑みが浮かんでいる。姿勢にも乱れがなく、立っているだけなのにどこか育ちの良さを感じさせた。
清楚、という言葉がそのまま当てはまる佇まいだ。穏やかな雰囲気を纏っているが、ただ大人しいだけの少女ではない――そんな印象を、透は直感的に抱いた。
「ええ、そうですが。アナタは?」
「私はこの学園の生徒会長をしています。七瀬涼菜です。君のお名前を教えてくれる?」
生徒会長――。
予想していなかった肩書に、透は僅かに眉を上げた。そのせいで、数秒の空白が生まれて、涼菜が困った表情を浮かべる。
透は、慌てて自己紹介をした。
「黒神透です。それで、何かご用でしょうか?」
「ううん、特に用事があったわけじゃないの」
涼菜は軽く首を振ると、敵意がないことを示す。
「今日は生徒会の仕事でね。部活動や入学式準備を手伝ってくれている二、三年生の様子を見に来てたの。そしたら、見かけない子が中庭をフラフラしているから……何をしてるのかな、って思って」
なるほど、と涼菜は小さく呟いて、小さく笑った。
「そう。君が黒神君なのね。会えて嬉しいわ」
「……会えて、嬉しいですか?」
思わず、オウム返しに問い返してしまう。
「だって噂になっているもの。筆記試験を白紙で出して、実技試験は満点。それで合格した受験生がいるって」
涼菜は面白い話でもするように、少しだけ目を輝かせた。
「私だって、実技試験は満点じゃなかったのよ?」
まるで有名人に出会えたことを喜んでいるような表情だった。
透は、ほんの少しだけ居心地の悪さを覚える。
「それで今日はどうしたの? 迷っちゃった? お姉さんが案内してあげようか?」
涼菜が首を傾げる。その仕草は親しげで、警戒心を抱かせるようなものではない。
だが、透はその申し出を素直に受ける気にはなれなかった。
「いえ、案内はまた今度で」
軽く手を振って断る。
「じゃあ、どうしたの?」
「いやー、白紙で出したツケが回ってきまして。いきなり再試験を受けろと。それがさっき終わったので、なんとなく学園を見ていただけです」
冗談めかして言うと、涼菜は少し驚いたように目を丸くした。
「あらあら、それは大変だったわね。それで、試験の出来はどうだったの?」
うーん、と透は唸りながら、
「まあまあです。多分、規定内の点数は取れてますよ」
「ずいぶん自信があるのね。面白いわ、透君」
涼菜はくすりと笑い、口元を手で覆った。
その仕草は上品そのものだったが、指の隙間から覗く唇は、ほんのわずかに吊り上がっている。
「じゃあ質問を変えましょう。君はどうして、この学園に入学しようと思ったの?」
「……そうですね」
先ほどまでとは少しだけ空気が変わった。
涼菜の声は相変わらず穏やかだ。けれど、その問いには先ほどまでの雑談とは違う意図が混じっているように感じられた。
透はすぐには答えず、ほんの少しだけ考える。
「知り合いに、せめて高卒の資格くらいは取っておけと言われまして」
もっとも、これは嘘ではない。
ただし、それだけが理由というわけでもない。
透はそんなことを考えながら、できるだけ自然な口調を崩さずに続けた。
「その人が理事長と懇意らしくて。それで、この学園を勧められましたが、正直、学校はどこでもよかったんですが……」
そこで一瞬、言葉を切る。
涼菜は何も言わず、続きを待っていた。
「朔夜千歳が経営している学園だと聞いて。それなら、受けるだけ受けてみようかと」
その名前を口にした瞬間、透の視線がほんのわずかに遠くへ向いた。
それに――と、何かを思い出すように、独り言めかして付け加える。
「再試験も、受かっても落ちても構わないと思っていました」
声色は変わらない。
淡々とした口調のまま、透は涼菜の反応を窺うこともなく言葉を続けた。
「でもここなら、もしかしたら自分の目的に近づけるかもしれない。そう思っただけです」
「ふぅうん……」
涼菜は、その一言だけを妙に丁寧に拾った。
笑みは消えていない。
けれど先ほどまでの親しげな雰囲気とは違う。こちらの言葉の中から、何かを探し出そうとしているような目だった。
「その目的って、何かしら? 聞いてもいい?」
声は柔らかい。
それなのに、透には逃げ道を塞ぐような響きがあった。
「それは――」
透はわずかに息を吸う。
言うべきか。誤魔化すか。
ほんの一瞬、判断に迷った。
その時だった。
「会長、こんなところにいらしたんですね。そろそろ最終打ち合わせが始まります」
中庭の奥から、別の少女の声が飛んできた。
「あら、もうそんな時間?」
「はい」
呼ばれた涼菜は、少し名残惜しそうに時計へ目を向ける。
「じゃあ今日はここまでね。透君、また」
「はい、失礼します」
透は軽く一礼すると、その場を離れた。
背後では、涼菜と少女の会話が再開している。どうやら最終打ち合わせの内容を確認しているらしい。
中庭を抜ける直前、透は何となく振り返った。
涼菜はまだこちらを見ていた。
目が合うと、彼女は小さく右手を振る。
その隣にいた少女は、透に向かって丁寧に一礼したあと、涼菜を促すようにして生徒会室の方向へ歩き出した。
(七瀬、か……)
透は歩みを止めることなく、先ほどの少女の姿を頭の中で反芻する。
名前を聞いた瞬間から、引っかかっていたものがあった。
(【十帝能力者】の血筋)
その単語だけで、十分だった。
霊獣との戦争――通称、三十年戦争。
人類が初めて能力を戦力として確立した時代。その戦争を境に、能力者という存在は世界の歴史そのものを大きく変えていった。
そして、その中心にいたのが日本人の能力者たちだった。
(……最初に確認されたのも、日本人だったな)
だからこそ、強力な能力者は日本に偏っている。
その中でも、とりわけ突出した力を持つ者たちがいた。
(……十人の能力者か)
たった十人。
それだけの人数で戦局を変えた存在。
霊獣の王を討ち、人類を滅亡の淵から押し戻した最強の能力者たち。
それが、【十帝能力者】。
(その直系、か。……なるほどな)
口元に、楽しげな笑みが浮かぶ。
(この学園が特別なわけだ)
普通の場所なら、まず交わらない人種だ。
ましてや、【十帝能力者】の直系ともなれば、その存在そのものがこの学園の特殊性を物語っている。
――だが。
(そういえば、なんで日本に残ったのは七瀬家だけだったんだろう)
他の家系は、すでに国外へ拠点を移している。
それぞれの国で能力者を守り、あるいは管理するために。
そんな中で、日本に残り続けた例外の一族。
(……まあ、テスト明けに考えるのは面倒だ)
興味がないわけではない。
むしろ、七瀬家がなぜ日本に残ったのかは気になる。
だが同時に、こういうところに首を突っ込めば、決まって厄介事までついてくる。
だから透は、そこで思考を打ち切った。
(……つーか)
そこで、ふと我に返る。
そもそも自分は何をしているのだろう。
(なんで俺、さっきから校舎なんか見てたんだ?)
今日は戦う気分でもない。
再試験まで終わったのだから、あとは帰ればいい。
(軍からも連絡、来なきゃいいけど)
そんなことを考えた途端、再試験の疲れが今になって一気に押し寄せてきた。
身体がひどく重い。
(さっさと帰って、寝たい)
余計なことを考えるのは、それからでもいい。
そう結論づけて、透はようやく歩き出した。
帰路につく直前、ふと足を止める。
そして、もう一度だけ校舎を見上げた。




