8話 一日目 その2
「お疲れ様、透くん」
透が会場から出て廊下を歩いていると、タオルとドリンクを手にしたゆかが、駆け寄ってきて労う。
「ありがとう、ゆか」
「すごいね。透くんだけが満点なんだって。しかも新人戦最速記録らしいよ」
「じゃあ、本戦はもっと速くしてやるよ」
「まだ速くできるって言えるのが、もうすごい」
ゆかは、素直な尊敬の眼差しを向けてきた。
「……随分と、舐めたこと言えるようになったのね、アンタ」
不意に、背後から声をかけられる。
視線を向けると、柱に背中を預け、腕を組んだ少女が立っていた。
ゆかより少し背が高く、短く整えられた灰がかった髪。
その佇まいは、まるで武人のようだった。
どこか――茜に似た雰囲気を纏っている。
「さっきすれ違った時に思ったけど……やっぱり来てたか、紗衣陽」
名を呼ばれ、少女は、じっと透を睨みつけた。
「久しぶり。最強になれて、よかったじゃない」
「なんだ、嫌味を言いに来たのか。そっちこそ、随分と性格が変わったな」
一瞬だけ、互いに殺意を孕んだ視線がぶつかる。
だが次の瞬間、何事もなかったかのように、紗衣陽は踵を返した。
「なんだよ、もう帰るのか。ていうか、お前今どこの学校だ?」
「今日は確認をしたかっただけ。さっきすれ違ったのと、今の試合内容でね、分かったから」
一度だけ振り返り、肩越しに言う。
「……あたしは、国能附にいるから。それよりアンタ、『トリニティ・デュエル』に出るよね。なら、その時はよろしく」
その背中を、透は黙って見送ることしかできなかった。
「……随分と仲が悪そうだけど、知り合い?」
一部始終を見ていたゆかが、興味本位を隠さず尋ねてくる。
「ああ。アイツは真然紗衣陽。昔からの顔馴染みだ。いわゆる――幼馴染ってやつ」
「へぇ……幼馴染なんだ……へぇ……」
数秒時間を空けて、
「え、えぇぇぇぇっ!?」
ワンテンポ遅れて、ゆかの驚愕が炸裂した。
*****
明星学園の控え室は、騒然としている。
もっとも、その場にいるのは全員ではない。
開会式を終えたあと、競技に直接関わらない選手やマネージャーの一部は、観戦しに行ったり、大会側の手配で宿泊先のホテルへ向かったり、人工心器の展示エリアへ足を運んだりしていた。
初日は競技数も限られている。
全員が控え室に詰めている必要はなく、次の出番までの時間をどう使うかは、各学園の裁量に任されていた。
だからこそ――
今この控え室に残っているのは、今日の競技に直接関わる者たちと、生徒会や一部の二、三年生くらいである。
「初回から、あんなもん見せられるとはな……」
モニターに映し出された映像から目を離し、風馬純次が低く息を吐く。
そこには、つい先ほどまで行われていた透の試合が、何度目かのリプレイで映っていた。
「ええ、幸先のいいスタート……と言いたいところだけど」
七瀬涼菜は、どこか複雑そうな表情で肩をすくめる。
「よりによって彼、ね。正直、想像以上だったわ」
「新人戦最速で、会場は大盛り上がり、か」
腕を組んだ風紀委員長の剣城天音が、画面を睨むように見つめながら言った。
「だが、あいつはまだ余裕があった。つまりあれ以上のタイムを、まだ出せるってことだな」
「……じゃあ、決勝でまた新記録が出るってこと?」
月夜円香が困ったように眉を寄せる。
その問いに、涼菜が小さく頷いた。
「ええ。新人戦予選は、クレーが四十五秒ごとに射出される仕様よ。だから理論上の最速は二分四十五秒」
「……で、彼はそれを出した」
「ええ、ぴったりね」
涼菜は一度言葉を切り、続ける。
「でも、決勝は一般戦と同じ方式。射出されたクレーが全破壊され次第、次のクレーが即座に補充される」
「一般戦の最速記録は……」
「一分三十二秒」
エマ=ベネットがタイムを言う。そのタイムに、控え室の空気が一段重くなった。
「彼なら――」
「ええ、上回るでしょうね」
涼菜の声は、どこか乾いていた。そして感想を述べる。
「喜ぶべきなんでしょうけど……逆に私たちのプレッシャーになっちゃったね」
「だな。嬉しいのは間違いない。しかし、とんでもない成績を出してくれた、って感じだな」
天音が苦笑につられる形で、控え室に短い笑いが起こった。
だが、それは浮かれたものではなく、どこか照れと戸惑いを含んだものである。
そんな、どこか落ち着かない空気の中。
顔色を青くし、明らかにプレッシャーに呑まれかけている選手が一人いた。
神無月御沙希だ。
(……まったく、なんてことをしてくれるんですか、透さん。普段ならこんなプレッシャー巫女の業務に比べられば大したことないですが、あんな記録を出されたら、これでは私まで――)
思考とは裏腹に、身体は正直である。
控え室の椅子に腰を下ろしたまま、指先が小刻みに震え、膝も止まらない。
自分が次に控えている競技を思い出すたび、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
その様子に、いち早く気づいたのは涼菜だった。
生徒会長として。そして年長者として。
涼菜はそっと近づき、御沙希の正面にしゃがみ込む。
「…… 神無月さん。肩、上がってるわよ。深呼吸、してみましょう?」
呼びかけは柔らかく、しかし逃げ場を与えない。そう諭すように言って、涼菜真似させるように先にゆっくりと息を吸い、吐く。
「大丈夫。透君の結果は透君の結果。あなたの戦いまで、奪ったわけじゃないわ」
御沙希は、はっとしたように涼菜を見上げる。そして彼女は涼菜の真似をしてゆっくり息を吸って、吐いた。
「それにね――あなたが失敗しても、誰も責めないわ」
涼菜が小さく笑い、真っ直ぐに視線を合わせる。
「でも、あなたがいつも通りやれたら。それだけで、十分よ」
御沙希の震えが、ほんのわずかに収まった。
表情も緊張した強張った表情から、真っ直ぐ集中している表情に変わる。
「そうだぞ。あんな規格外のこと、今は忘れろ」
天音が短く、しかし力のこもった声で喝を入れ、
「……はい」
御沙希は小さく頷くと、パンッ、と自分の頬を叩き、気合を入れた。
その仕草を見て、控え室の空気がふっと緩んだ。
周囲の面々も、どこか安堵した表情を浮かべる。
ちょうどそのタイミングで、控え室の扉が開いた。ゆかが、少し息を弾ませながら入ってくる。
「ただいま、戻りました」
「あれ? 透君は?」
一緒にいるはずの透の姿が見当たらず、涼菜が首を傾げて尋ねた。
ゆかは一瞬、言いづらそうに視線を泳がせる。
「そ、それが……インタビューをしたいって声をかけられて」
「……で?」
「それを全力で嫌がった透くんが、今、逃げ回っています」
控え室に、なんとも言えない沈黙が落ちた。
そして、それを聞いて涼菜は頭抱えて、
「どうせ決勝でも同じことになるわ。逃げても無駄だって、ちゃんと伝えておいて」
その一言に、ゆかは苦笑しながら小さく頷いた。
決勝の舞台でも、また同じ光景が繰り返されるのだろう。
そんな確信だけが、静かに控え室に満ちていた。




